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【プロダクションノート1】

■第1章

1986年ジョン・アーヴィングが脚本執筆に着手、
それから映画化までの13年...


「私が人生のヒーローとなれるか、それともその地位はほかの誰かに占領されるのか、それはこれから先を読めばわかるだろう」ホーマー・ウェルズの朗読によるチャールズ・ディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』より

ジョン・アーヴィングの小説は、世界中から賞賛を浴び、受賞歴も数知れない。小説「サイダーハウス・ルール」もすぐさまベストセラーとなり、彼の代表作のひとつとなった。フィラデルフィア・インクウァイア誌は、同作をアーヴィングの「最高の小説」と評し、「アーヴィングは今日最も優れた現役ストーリーテラーである。彼特有の道徳への警鐘を下敷きに、人間のやさしさへの尊重が絶え間なく注がれている」と語る。ボストン・グローブ誌は「19世紀を魅了した勇壮な憧れを描いた、どこかアントニー・トロプとマーク・トウェインの中間に位置するような古風で心の大きな小説」とし、「その細かな描写はアーヴィングの最高傑作」と賞賛を贈った。権威あるニューヨーク・タイムズ紙の書評では、「ウィットに富み、心温まると同時に、熱く心をかき乱される。心の熱意の勇気を描いた今日に珍しい小説だ」と賛美した。

「サイダーハウス・ルール」の映画化にあたり、アーヴィングは13年の紆余曲折の道を辿った。彼のみならずこれまでの経緯は、自ら書き下ろした「マイ・ムービー・ビジネス」(扶桑社刊)でも語られている。

アーヴィングが脚本の執筆に取りかかったのは、小説を出版してすぐのことだった。彼はフィリップ・ボーソス監督(『グレイフォックス』)と脚本を進めていた。その脚本はポール・ニューマンの自宅で初披露された。ボーソス、アーヴィング立ち会いのもと、本読みが行われたのである。そのときの同席者にデルロイ・リンドがいた。

「その日ポール・ニューマン宅の居間で、私がミスター・ローズ役にと願っていた俳優デルロイ・リンドがそのパートを読むのを初めて聞いた。とても幸せな気分になった。そして数年後にはデルロイがその役を演じることになった」とアーヴィングは語る。

ところが不幸なことに、この企画はボーソス監督が不治の病に見舞われたことで頓挫した。

「フィリップは41歳の若さで癌に倒れた。この脚本を書き上げるまでの長い共同作業の中で、われわれの間には固い絆が生まれていた。友としての彼を失ってがっくりきた私は、しばらくは映画『サイダーハウス・ルール』は無理だろうと感じていた」と語る。

しかし、この小説の細かく力強い描写と、独特で忘れがたい登場人物が、プロデューサーのリチャード・グラッドスタインの心を強く揺さぶり、ぜひともスクリーンにと彼を突き動かした。

「小説と映画で扱われる人間関係と問題、人が選ばなければならない選択、原作に流れる人間性が、私の心をとらえた。登場人物の住む世界、家族とは誰かと問いかける家族の概念、愛と友情の責任と結果、人種問題、中絶といった、これらすべてが魅力的な題材だった。このストーリーが語られるスタイルもまた、かなりディケンズ風で私は惹かれた」とグラッドスタインは語る。

原作の一部と映画の全編は1930〜40年代を舞台としているが、登場人物が直面するジレンマは普遍的で現代も通用する今日的な問題だとグラッドスタインはいう。

「ホーマーが孤児たちに朗読するデイヴィッド・コパフィールドの一節がある。『私が人生のヒーローとなれるか、それともその地位はほかの誰かに占領されるのか、それはこれから先を読めばわかるだろう』。ある意味この言葉は、映画を表している。人生の数々の選択、拠り所とするルール、そしてそれらが自分やそのまわりの人たちにどう作用するか。運命を見つけ、ヒーローが生まれ、この物語はまさに心の琴線に触れる。この映画もそうあってほしい。私にとってこの物語の結末は、これまで読んだ小説の中で、もっとも心が豊かになり満たされるものだった。最初から最後まで目が離せず、映画化の夢にとりつかれた。映画の観客が小説の半分しか感動できないとしても、それで十分だ」とグラッドスタインは語る。

グラッドスタインは妻とともに、ヴァーモント州にあるアーヴィングの自宅を訪ねた。 アーヴィングは「初対面から彼を気に入り、両者が気に入る監督を見つけようと、かなり早くに同意に達した。しかしそれはお互いの予想以上に難しい作業となった」と語る。

最終的にグラッドスタインとアーヴィングは、この作品の監督としてラッセ・ハルストレムに白羽の矢を立てた。彼の一連の作品には、『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』や『ギルバート・グレイプ』といった、ひとひねりある魅力的な青春物語があり、彼自身『サイダーハウス・ルール』を巡るテーマをすでに扱っていた。普通でない家族、困惑と不安のすばらしい初恋と性への目覚め、忠誠と裏切りという相反する概念、独特な登場人物の繊細で愛に満ちた描写。いずれもハルストレムの映画とアーヴィングの小説を通して共鳴する。奇しくもハルストレムの『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』は、『サイダーハウス・ルール』の初版が出た同じ1985年に公開された。

ハルストレムにはさらに今回の素材と強烈なつながりがあった、とアーヴィングは語る。「皮肉にも、フィリップ・ボーソスが病気のためにメガホンを執るのは難しいと認識した頃、彼と私はラッセ・ハルストレムなら完璧だな、と話していた。ふたりとも『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』は大好きな作品だった。しかしハルストレムには他の仕事が押していたため、もうだめだと私は思っていた。数年後ラッセがこの映画を監督できると聞いたときは最高に嬉しかった」

グラッドスタインもこうつけ加える。「ラッセに関しては面白いことに、深刻さとふざけ、気まぐれと真剣さが同居するという点で、彼のこれまでの映画は雰囲気と感性がアーヴィングの小説に相通じるものがあると言われる」

共同製作のレスリー・ホールランは、ハルストレム作品の製作パートナーだ。数年来のつきあいで、この素材を彼のために一緒に温めてきた。アーヴィングの小説のファンだった彼女もまた、アーヴィングとハルストレムの作品同士のつながりに胸を打たれた。

「ラッセに会う前から何年もジョン・アーヴィングのファンだったので、その後彼と過ごす時間が増え、彼の作品を見ているうち、ふたりが世界をどう見ているかという点で、まったく同じではないけれど妙な類似点をはっきりと感じた。ふたりとも彼ら独自の世界を生み出しつつも、とても“現実”に根ざしたストーリー、人物、出来事を語っていくのが好きだ。私はいつもラッセは“真実を計るメーター”を持っていると思う。ジョン・アーヴィングと同様、ラッセはばかばかしくて普通でない状況を生み出すのが好きだ。しかしそれに互いに反応し合う人々の根本的な感情は、間違いなく本物だ。何年も私は“アーヴィング風”や“ラッセ風”という描写をよく使った。そんなばかげた表現を使ったのはおそらくこのふたりだけだ。こんなことができるのも、ふたりの作品にははっきりと特定できるテーマが流れているから」とホールランは語る。

ハルストレムも、自分の映画とアーヴィングの本との間にある類似性はわかっていた。だからこそ、自分ならこの小説にふさわしい映画が撮れるのではないかと感じた。「ジョン・アーヴィングの作品の雰囲気はわかる。彼の組み合わせ、ユーモアのセンス、悲哀感(ペーソス)、ばかばかしさは大好きだ。奇怪で、おかしくて、ドラマティックな要素が混ざり合うことにかけては、『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』から『ギルバート・グレイプ』まで私も実際にやってきた。そういう雰囲気にはとても惹かれる。特定のジャンルに絞ることはできないが、たくさんのジャンルを包括する、幅の広さを持つ物語が大好きだ。だから今回の話はとても面白いと思った。その雰囲気は気持ちがいいし、ドクター・ラーチの言葉を引用するなら、たしかに“人の役に立つ”だろうと感じた」



■第2章

あゆみよるアーヴィングとハルストレム
似た者同士のクリエイター


ところが初期の脚本を読んですぐ、ハルストレムは残念ながらその企画を見送った。「原作はずいぶん前に読んでいて、実際とても気に入っていた。数年前にこの企画が持ち上がり、脚本を見せられた。悪くはなかったが、問題があると思った。かといって、かの文学の巨匠に会って変更を申し出るのも少し気が引けた。それで結局『申し訳ないが』と断った。私の頭の中にある変更点に、気を悪くするのではないかと心配したからだ。その当時、彼がきさくな男だなんて知らなかった」

それでもハルストレムはその映画の動きを追っていた。数年後、まだ企画は進行中で監督を捜していることを知ると、ハルストレムは「すぐに飛びついた」という。「脚本を読むと、前よりよくなっていた。あとはもう夢中さ」

ハルストレムとアーヴィングが会って、この映画の仕事を始めると、ふたりは本当に似た者同士のクリエイターだと判明した。ホールランはこう指摘する。「ラッセとジョンは会った瞬間から、ぴったり合った。ジョンは自分のビジョンを惜しみなく語った。総括すれば、息子が長い遠回りをしながら父親の視点を理解していく、という父子の物語について初めて議論したときから、ふたりは物語の核心部分できちんと足並みが揃っていることを認識していた。ふたりのコンビはうまくいった。ジョンはこだわりなく登場人物を見直し、物語を語る映像についてはラッセに任した」

アーヴィングの最初の脚本とその後の草案は、原作の中の多彩な登場人物と逸話を削り、新しい創作と入れ替え、出来事の時間を短縮することで、凝縮された小説に完全に生まれ変わっていた。「小説家の方が脚本家より自分の小説を脚色する上で大胆になれる」とアーヴィングは説明する。

「ジョンはとても初期の段階から、小説全体を盛り込まないという判断を下していた。われわれはその本そのものではなく、その本にあるストーリーを映画にしている。これは連続ドラマでもない。8時間あったら、原作のすべてを語れるかもしれないが、それでも選択は不可欠だ。ここで大事なのは、ジョンが関わったということだ。彼の同意と彼の手によって、私たちはこの映画を進めることができた」とグラッドスタインは語る。

ハルストレムのその選択眼、そして登場人物や、とくに孤児のホーマー・ウェルズと彼の人間関係においてバランスとニュアンスを見つける能力は、グラッドスタインとアーヴィングの印象に残った。

グラッドスタインはこう断言する。「ラッセは脚本に多大な影響を与えた。彼が脚本に控えめなユーモアを添え、登場人物の関係をすっきりさせた。本作はホーマーの目を通して、彼の人生を左右する3つの別々の重要な出逢いが語られる。ホーマーの人生に影響を与えたのは、孤児院の父親役ドクター・ラーチ、ホーマーの友となりリンゴ農園を紹介したキャンディとウォリー、ミスター・ローズと娘のローズ・ローズ、一緒にリンゴ摘みをして働いた仲間たちがいる。それぞれの異なる設定の中で、ハルストレムは、ホーマーが出会う人々と、ある意味きわめて実りある楽しい体験とのバランスを見事に調和させた」

「ラッセと私との間のもっとも大事な同意事項で、最後まで変わらなかった点は、映画の中のその調和である」とアーヴィングもつけ加える。「ラーチとホーマーの関係と、孤児自体との関係が、物語の最優先だ。その次ではあるが欠かせないのが、ミスター・ローズの娘との関係だ。結局そのことがホーマーを現実の生活、セント・クラウズでの仕事に目覚めさせることになる。3番目に大事なのは、ホーマーとキャンディとの愛の行方だ。これらの要素が絶妙にバランスをとっていることが、絶対的に不可欠だ。ラッセはそのバランスがどういうものかわかっていた」

「私はこの企画とそれが表現する異なる世界にずっと夢中になっていた。この物語の幅の広さ、それぞれ別個の世界を訪れる機会、その勇壮な広がり、感情の多彩さ、そしてこれらの要素をすべてひとつの物語の中に包括させるのは挑戦だった。またルールというコンセプト、自分の住んでいる環境を知らなさすぎる人が作ったルールというのも興味深かった。この映画はいろんな場所で、ルールという概念に思いを巡らす。たとえば人間関係、結婚、人種、中絶、性別についてのルール。私にとって『サイダーハウス・ルール』とは、意味をなさない、もしくは現実にそぐわないこれらのルールを打ち破るものである」とハルストレムは説明する。





■第3章

マグワイアの悩み
ホーマーを単なる純粋無垢な人物にしたくなかった


子供たちと仕事をするのもハルストレムにとっては魅力だった。「当然子供たちの出番である最初の孤児院の部分は、本当に楽しかった」と彼は告白する。ハルストレムは、あらゆる年代の子供と独特なつながりがあって、『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』以来の彼の全作品で、子供というのはひとつの特徴となっている。『サイダーハウス・ルール』に登場する孤児たちはほとんど無名で、撮影に先んじニュー・イングランドで行われた3回の公募オーディションで選ばれた地元の子供たちだ。たとえば孤児のカーリーを演じた6歳のおとなしいスペンサー・ダイアモンドは、サッカーの練習に支障がないという条件で、オーディションに参加することに同意したという。病弱なファジー役の愛くるしい7歳のエリック・サリヴァンは、撮影の合間に、トビー・マグワイアとチェスやバッグガモンに興じていた。

ハルストレムは文字通り彼らの視点に合わせることにより、新人俳優たちから記憶に残る名演技を引き出した。けっして見下すことなく、よくしゃがんだりして子供たちの目を見る。優しいがしっかりとした口調で話し、子供たちもその冷静な指示と励ましに応えた。

「私に子供への特別な秘訣があるかどうかはわからない」とハルストレムは考える。「自分は12歳で成長が止まったようで、変な言い方をすれば、12歳の子供の気持ちがわかる。だから、子供たちのレベルで話すのは、私にとって自然なんだ。子供たちと対等なレベルで話をしているだけだと思っている。意識していることではなくて、子供を尊重すれば自然とそうなるだけだ」

この物語は映画の展開とともに自分の運命を発見するひとりの孤児、ホーマー・ウェルズの人生を中心に回る。その主役を演じるのが、トビー・マグワイアだ。弱冠23歳にしてすでにベテラン俳優の彼は、驚くほど多種多様な映画に出演し、重要な役どころにもいくつかキャスティングされてきた。

グラッドスタインがマグワイアの存在に初めて注目したのは、グリフィン・ダン監督のアカデミー賞候補作の短編“Duke of Groove”で絶賛された演技である。ちょうどこの短編が封切られた頃、グラッドスタインはアーヴィングと話し合いを始めていた。当時マグワイアはまだ10代だったので、グラッドスタインはマグワイアを別の孤児に配役しようと頭の中に描いていた。

「初めて“Duke of Groove”でトビーの演技を見て、『あれがバスター(幼い孤児のひとりで、最終的にキーラン・カルキンが演じた)だ』と思った。しかし映画の完成までに4年かかった。だからトビーもホーマー役にまで成長した。私たちはみな、トビーにはいい意味の無垢さと成熟と思慮深さという素質があるので、すばらしいホーマーになるだろうと思った。彼にはすごく引き込まれる。だから彼の目を通してこの映画を見ていく観客は、多くの人が彼になった気分で、彼のこと、彼に迫られる選択、彼がぶつける反発に思いを寄せるだろう」

しかし当初、マグワイアの頭を悩ませたのはホーマーの無垢さだった。「僕は本当に脚本が気に入った。ホーマーは静かな人間で、その点も好きだったが、人は僕のことをそういう男だと思い、この役とダブらせて考えてしまいがちだ。だからそれが最初は引っかかった。これをやらなければ、そしてやりたいと思ったのは、ラッセと会ったときだった。この役をどういう風にしたいか、監督の希望をふたりで話し合った。それで、年齢以上の賢い視点、内省的な心の解釈を加えることで、ホーマーをおかしいまでに面白くできるのではないかと思えてきた」

ホーマーは孤児院の外の生活には比較的免疫がないにもかかわらず、マグワイアとハルストレムは、ホーマーをいわゆる典型的な純真無垢な人物として描きたくはなかった、とマグワイアはいう。「ラッセと話したのは、ホーマーはいろんな意味でうぶだけれど、目を大きく見開いて『わあ、こんな世界は初めてだ』みたいな態度で、彼を演じたくはなかった。そういう感情はあえて控えめに表現したかった。子供は『これどういう意味かわかる?』とか『これまでに見たことある?』と何度も訊ねられると、うそをついて、まずはわかっているふりをしてから、耳を澄まし観察し始めるものだ。僕はそういう風なアプローチの仕方を望んだ。ホーマーはすぐに何でも吸収する熱心な観察家だが、実際には後で自分が発見したことにもっと驚いていると思う。それでも、物事の本質が何か、見かけとは対照的に真実は何か、彼は見通してもいる」

マグワイアによれば、ホーマー役の解釈についてハルストレムと初期に話し合いをしたことで、「その役への関心が一気に誘発された」という。この話し合いは撮影の間もずっと続き、ときには直感で分かり合えるレベルに達することもあった。

「トビーは、ホーマー役に私が期待している延長線上にもっとも近い。ときどきビデオモニターの後ろに座って、彼の演技に何か起きないかと期待していると、きまって何かが起こる。とても不思議だった。彼の演技はとても微妙だが、豊かでニンマリさせられるので本当に楽しかった。とにかく彼の判断が大好きだ。私が万が一俳優だったとしても、同じ選択をするだろう」とハルストレムは語る。



■第4章

ケインは語る
コメディであり悲劇でもある「人生の映画」


アカデミー賞俳優マイケル・ケインが、頑固な医師で、孤児院の院長でありホーマーを育てたドクター・ラーチを演じる。

「マイケルのおかげで、その役に貫禄と重みがついた。彼にとっても、孤児たち一家の父親で、この孤児院の院長を演じるという役は、たしかに面白い選択だった。また彼はすばらしいユーモアのセンス、ウィット、知性を備えた人物であり、それが完璧なドクター・ラーチを生み出すと思う」

「マイケルは私のドクター・ラーチに“なった”」とアーヴィングは率直にいう。

ケインもラーチは「すばらしい役」という。「役者として感情表現しようと思いつくすべてがこの役にはある。この映画にはコメディと悲劇の要素があるが、かならずしもそのどちらともいえない。これは人生の映画であるからだ。人生はたんに悲劇でも喜劇でも、成功でも失敗でもありえない。異なる時期にそれらすべてを体験するのだ。全体としては、心を揺さぶられるとても深い物語だが、とてもロマンチックでおかしい。すばらしい脚本だと思ったし、喜んでドクター・ラーチ役を演じた」

ドクター・ラーチのユーモアは、カメラを回してないときにも健在だった。ひょうきんなケインは、きまって共演者やスタッフを得意のブラックユーモアで楽しませた。「マイケルは本来俳優の神様のような存在で、その俳優魂にも恐れ入ったが、とてもおかしくて地に足のついた人でもあった。最高の共演者だった」とマグワイアは振り返る。

「気を張って演じる俳優もいるが、私はリラックスして芝居をする」とケインは語る。「私は“スタニスラフスキー・システム”と呼ばれるに至った彼に師事していた。スタニスラフスキーの基本的な方針は、リハーサルこそ本番であり、演技はくつろぎである。だから自分の時間に暇があれば一日中リハーサルを繰り返したので、セットに入る頃には緊張はすべて解けていた。準備は万端だから、ジョークたっぷりに演技ができる。恐ろしいとか心配するとかはない。自分がどうしたいのかはっきりわかっている。監督ともすでに話し終わっているし、脚本も読み、どういう風に動くべきかわかっている。緊張でがんじがらめの現場では働けない。みんながリラックスしていて、ようやく仕事ができる」

ケインは、若い共演者トビー・マグワイアとの同じようにすばらしく和やかな関係にも喜んでいた。「私たちの関係は、人から見ればコメディアンと呼ばれるだろう。とにかく一緒に仕事ができて幸運だった。彼は本当にすばらしい俳優だ」とケインは語る。ふたりがカメラを外したところで見せる陽気なふざけ合いは、役の上での関係とはまったく好対照だった。

「ラーチとホーマーの関係は小説が示すところだ。そして将来も映画のようになるだろう。ふたりは実の親子以上に父と子である。ふたりは愛情が深いだけに、摩擦も大きい」とアーヴィングはいう。

ふたりの軋轢には、父子が成長とともに味わう古典的な痛み…息子の未来を考え独裁的だが愛情ある父、自分の意見を主張し、自分自身のアイデンティティを確立しようと反抗する息子、という要素を含んでいる。しかしラーチとホーマーの間の溝には、もっと大きく深い問題が潜んでいた。

「中絶をめぐる衝突がふたりを引き裂く元凶になった。が同時にホーマーは、ラーチが自分の人生をお膳立て、いってみればラーチの後継者にしようとし、そうするとホーマーは自分の人生が持てなくなることに気づき、孤児院を出る。リンゴ園でキャンディと恋に落ち、季節労働者たちと暮らし、ホーマーはそれまで知り得なかった唯一孤児院の“外”の生活を垣間みる。原作のホーマーは、セント・クラウズを15年離れている。しかし映画ではたった15ヶ月だ。彼は急ぎ足で、外の世界がそれぞれの人に持つ意味を学ぶ。苛酷な実例だが、その時点で非合法だった中絶に何が求められたか。それは中絶方法を知っている人なら誰もが遂行しなければいけなかった。『サイダーハウス・ルール』で起こることはすべて、中絶が非合法で、世界中で起こりうる」とアーヴィングは語る。



■第5章

セロンのメッセージ
私たちはすべて人間。みなルールを破る


面白い役どころに取り組んだ出演作が目白押しだったせいで、普通は元気いっぱいのセロンも疲労困憊していた。しかしこの役に賭ける情熱は本物だった。それは彼女の力となり、オーディションでも伝わってきた。「彼女は本当にこの役をやりたがった。必死で訴えてきた。会場に入ってきた彼女は台詞を読んで、監督を感動させた」と共同製作のアラン・ブロンクィストは振り返る。

「シャーリーズは、ビタミンAからFまですべての錠剤がボトルに入っているようだ。彼女の存在にはとても元気づけられる。とても頭が切れて、才能があって、たくさん一緒に仕事ができて楽しかった」とハルストレムは語る。

「キャンディには人生を謳歌する熱意、俗っぽさ、ロブスター漁師の娘の土臭さがある。しかし彼女はもっと大きなものを夢見ている。シャーリーズはそれらをすべてつかみ、豊かな人物像を見事に演じた」とグラッドスタインは語る。

ジョン・アーヴィングの作品の中でもとくに『サイダーハウス・ルール』の熱烈なファンだったセロンは、キャンディの弱点に彼女の長所と同じくらい興味を惹かれた。「私がこの映画に出たかった理由のひとつは、キャンディが傷物になるからでした。いろんな意味で、この映画はホーマーの青春物語でもあり、キャンディの青春物語でもある。私がとても気に入っているのは、彼女が心から愛する魂の友であるウォリーと、人生に飛び込んで来て再び純粋さを教えてくれるホーマーとの間で、心をかき乱されるところ。若い青年が人生とは一体何かを体験して学び、その彼の発見のプロセスがどのようにキャンディの心を開くかを描いた美しいラブ・ストーリーです。結果として、キャンディは多くの疑問と葛藤に苛まれるけれど、そこは本当に興味深かった。彼女は完璧ではないけど、それを補うものがあります。彼女が過ちを犯したときでさえ、どうして彼女やその周りの人間はそういうことをしたのか、彼女の行動を理解できます。彼らが皆ルールを破るように、私たちも皆ルールを破る。私たちはすべて人間。社会の基準は必ずしも現実の人生にそぐわないのです」

セロンはキャンディの役づくりの上でも監督とのコンビが助けになった、と語る。「ラッセの演出はとにかくすばらしい体験でした。また彼と仕事をする機会があったら飛びつくわ。彼は私たちの考えをよくわかってくれました。それはすごい満足感だし、助けになった。この映画でもっとも難しかったのは、ジョン・アーヴィングが2時間の中に凝縮した、登場人物の多彩な面を演じ切らなければならなかったこと。しかも、こういうことはあるって、人が実際に信じられるものにしたかった。その点については真剣に向き合ったし、私たちは皆多くのことを議題にしました。ラッセは私たちに意見を促し、リハーサルでどう演じるか、役者の考えに細心の注意を払いました。そして実際の撮りの頃には、その考えを反映したリライトを手にしていました。監督は本当にクリエイティヴなやりとりの雰囲気を作り上げてくれ、とても嬉しかったのです」

ハルストレムも、セロンの意見を心から高く評価し、彼女の指摘は大変貴重だったという。「とりわけ彼女の反応は、場面に適応し、新しいアイディアや変更を生み出すという点で、とても役立った。たとえば、キャンディとホーマーの初めてのラブシーンにも彼女なりの考えがあった。私にも違う考えはあったが、彼女のアプローチ方法ですばらしいものができた。映画に貢献する適任の俳優を選べば、これほどラッキーなことはない。今回の場合、実際に彼女の意見をいくつか取り入れたから、まさにラッキーだった」

アーヴィングからすると、この美しく洗練されたセロンは、ホーマーが恋心を寄せる相手としてまさに適役だった。「脚色の過程ではキャンディはホーマーよりも恋愛にたけている女性にするつもりだった。ほかにもラッセと私が最初から同意していた事があり、ふたりの恋愛の解釈に大きな手助けとなった。つまり私たちが望んでいたキャンディは、ホーマーよりちょっと年上で、ホーマーにとって経験豊富な女性だった。だからキャンディとウォリーに並ぶと、ホーマーはいまだに少年のように見える。キャンディのような女性とホーマーのような少年のありえなさそうな組み合わせこそ、アピール力がある」 一見すると、南アフリカ出身の女優には、ニュー・イングランド生まれの役とほとんど共通点がないように思える。しかしエリカ・バドゥ演じるローズ・ローズとキャンディの関係に共通の地盤を見つけた。

「キャンディとローズ・ローズとの関係には、魅力を感じるものがありました。私自身南アフリカ共和国で育った経験にとても近かったのは事実。南アフリカの白人なら黒人差別するという風に一般化されたりします。それは人にありがちなことだし、私にもつきまとう問題でした。でも13歳まで農場で育った私は町に出たことがなかったのです。両親は道路建設の会社を持っていて、従業員はみんなその農場に頼って暮らし、家族も子供たちもみなそこに住んでいました。私はひとりっ子で、その労働者やその子供以外には私の周りに人はそんなにいなかった。だからそこには特別な絆が生まれ、それはキャンディとローズ・ローズの関係と同じだと思います。たとえそれが40年代のことであれ、ふたりはおそらく一緒に大きくなり、キャンディは農園のウォリーを訪ねたことでしょう」

セロンが農場育ちだという経歴は、リンゴ園の車に使われた30年型のトラックを運転する際に大いに発揮された。キャンディなら一生そういうトラックを運転していたことだろう。そして幸運にも、シャーリーズの運転は文句なしだった。

「今回の映画では、2、3台の違う車を運転していただけだ。シャーリーズからは、でかいギアが装備された1941年のマーキュリー車の運転がうまくなったと褒められたよ」とポール・ラッドは語る。

「1942年当時の若者が、恋人を捨てるのではなく、中絶に連れていき、すべての面倒を見る覚悟で、なおかつまだ戦地へ行くつもりだというのが、僕には面白かった」

ウォリーはアメリカを代表するヒーローのように、育ちもよく志しもあるが、ラッドからすると、こうした資質よりも普通なら隠すかもしれない弱点に魅力を感じたという。

「ウォリーに関して僕が必ずしも魅力を感じなかった部分こそ、彼が偉大な男だとされている点だった。最初は、ウォリーは恋人を愛するアメリカの代表的な兵士で、みんなから愛され、実のところ退屈な役に思えた。僕にできるとしたら唯一、この好青年の顔の裏側の心の中ではどんなことが起きているのか探ることだった。どんな人間も複雑な生き物で、その手の完璧な奴も、たいてい何かを隠しているものだ。恐ろしい状況に置かれているウォリーは、すべてを丸く納め、のんきに構えようとしているが、もし彼の恐怖や迷いが覗く瞬間があるなら、それこそ魅力だと考えた。僕はアメリカを愛するGIのただの縮図ではなく、人間の別の一面を見せることのできる瞬間を探した」

その瞬間は農場で、ラッドが“エンジン付の手押し車”と呼ぶ“ドゥードルバッグ”という変な小型自動車を操縦しているときに起こった。部品の寄せ集めにガソリンを載せたようなおんぼろ車で、リンゴ園の中を向こう見ずにホーマーを乗せて走るというシーンがあった。ラッドとマグワイアはその場面を楽しみすぎて、監督がカットと言って次のシーンの準備を始めた後も、リンゴの木の周りを楽しく走り回っていた。このシーンは面白かっただけではなく、ウォリーの欲求不満がたまった激しい一面が暗示されている、とラッドは指摘する。

「この人物には彼を駆り立てる、無謀さへの欲求みたいなものがあると思う。ウォリーがこのトラックでリンゴ園を走り回り、しかも目を閉じて注意を払わず運転するという、この場面をつけ加えたのも、ジョン・アーヴィングに伝えたい何かが確かにあったからだと思う。ウォリーのスリルを求める一面だ。彼は戦争に志願した。彼は出兵して爆弾機に乗りたいと思っている。それはそれが義務だからだけではない。そう、その一面にも興味を持った」

「ポールはあきらかにウォリーというキャラクターに別の面を加えた」とハルストレムは語る。「彼のおかげでウォリーは深みのある人物になった。ポールはまた微妙な笑いにおいてもすばらしい。たいてい彼は微妙な描写を好み、アメリカン・ヒーローの仮面に隠れるひびを探そうと必死で臨んでいた。おかげでずっと面白い登場人物になった」