『父親たちの星条旗』/"FLAGS OF OUR FATHERS"





父親たちの星条旗 [DVD]
2006年10月28日より丸の内ピカデリー1ほか全国松竹・東急系にて公開

2006年アメリカ映画/2006年日本公開作品/原題:FLAGS OF OUR FATHERS/132分、8巻、3617m/シネマスコープ・サイズ/SRD、DTS、SDDS/字幕翻訳:戸田奈津子/吹き替え翻訳:佐藤恵子/原作:「硫黄島の星条旗」文春文庫刊/「父親たちの星条旗」(ヤングアダルト版)イースト・プレス刊/配給:ワーナー・ブラザース映画

◇監督・製作・音楽:クリント・イーストウッド ◇脚本:ウィリアム・ブロイレス JR、ポール・ハギス ◇製作:スティーブン・スピルバーグ、ロバート・ローレンツ ◇共同製作:ティム・ムーア ◇撮影:トム・スターン ◇美術:ヘンリー・バムステッド ◇編集:ジョエル・コックス ◇衣装:デボラ・ホッパー 

◇キャスト:ライアン・フィリップ、ジェシー・ブラッドフォード、アダム・ビーチ、バリー・ペッパー、ジョン・ベンジャミン・ヒッキー、ジョン・スラッテリー、ポール・ウォーカー、ジェイミー・ベル



| 解説 | プロダクションノート | ストーリー | キャスト&スタッフ |
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【解説】

史上初、日米双方の視点から描いた「硫黄島」2部作第1弾、 アメリカから見た硫黄島

◆その島で撮られた1枚の写真が太平洋戦争の運命を変えた ─

2006年8月、ひとりの写真家がこの世を去った。ジョー・ローゼンソール、享年94歳。61年前、彼が撮影した1枚の写真が、太平洋戦争の運命を変えた ─ 。

その写真は、1945年2月23日、日本の領土である硫黄島で撮影された。ピューリッツァー賞を獲得し、記念切手の図柄やポスターにもなり、アメリカ中の雑誌の表紙や新聞の一面を飾り、さらにはバージニア州アーリントン墓地にある海兵隊記念碑にもなった伝説の報道写真「硫黄島での国旗掲揚」。そこに写っていたのは、摺鉢山の頂上に星条旗を掲げる 6人のアメリカ兵 ─ 5人の海兵隊員と1人の海軍衛生下士官 ─ の姿だった。

日本のほぼ最南端に位置する東西わずか8キロの小さな島、硫黄島を占領するための戦いは、 1カ月以上にもわたる凄惨をきわめた長期戦となった。もし、国を挙げての団結を生み出したこの写真がなければ、アメリカは日本との戦いから撤退を余儀なくされていたかもしれない。長引く戦争にアメリカ国民が背を向け始めていたとき、この1枚がアメリカの心をひとつにまとめたのだ。

しかし、その写真の裏側には、覆い隠された真実があった。すりかえられた山頂の出来事、語られることのなかったもうひとつの星条旗の存在、英雄に祭りあげられた兵士たちの苦悩 ─ 祖国に生還した彼らは誰も自分たちを英雄だとは思わなかった。そのためにひとりは自滅の道を歩み、ひとりはチャンスをつかもうとし、ひとりは生涯沈黙を守り続けた。

そこにあるのは、事実に基づく、ドラマを超えたドラマだ。硫黄島で何が起こったのか。そこで彼らは何を見たのか。なぜ沈黙し、何を忘れようとし、何を守ろうとしたのか ─ 。日米双方の視点から描く硫黄島2部作の先陣を切る『父親たちの星条旗』。 2006年10月28日、アメリカ側の真実が明かされる。日本の命運を決定づけた1枚の写真。その真実が今、明かされる。

原作となった「FLAGS OF OUR FATHERS」(邦題「硫黄島の星条旗」/文春文庫)は、生還した“英雄”の一人、ジョン・“ドク”・ブラッドリーの息子ジェイムズ・ブラッドリーによって書かれた。硫黄島での出来事について何も語らずに逝った父の死後、息子は父親を知るために何年もの歳月を費やし、硫黄島の真実にたどり着く。

この本に惹きつけられたのは、今回、硫黄島2部作の監督を務めることになったクリント・イーストウッドだけではない。原作の映画化権を獲得し、製作に携わるのは、『シンドラーのリスト』『プライベート・ライアン』で2度のアカデミー監督賞を受賞したスティーブン・スピルバーグであり、脚本に参加しているのはアカデミー作品賞/脚本賞受賞の『クラッシュ』で監督・脚本を手がけたポール・ハギスだ。『許されざる者』『ミリオンダラー・ベイビー』の2度のアカデミー賞受賞を含むイーストウッドの監督としての確たるキャリア。それらすべてが、この作品に注がれる。



 


【プロダクションノート】

◆映画『父親たちの星条旗』

クリント・イーストウッドがこのプロジェクトに惹かれたのは、ジェイムズ・ブラッドリーとロン・パワーズによるベストセラー「硫黄島の星条旗」を読んだためだった。「さまざまな物語が詰まっていて、とても興味深い本になっている」とクリント・イーストウッドは言う。「それにもちろん、AP通信のジョー・ローゼンタールが撮影した有名な写真……。あの写真には何か惹かれるところがあった。兵士たちが棒を掲げようとしているということ ─ 写真の6人はおそらくそれしか考えていなかっただろうが ─ 以外に、この写真の背景についてはほとんど知られていない。だが1945年に、あの写真は戦争支援の象徴となった。硫黄島の戦いという、太平洋戦争で最も熾烈な戦いを強調し、そのとき何が危機にさらされているのか、彼らが何のために戦っているのかをあの写真は象徴したんだ。そして、彼らに何が起こり、戦場から祖国へどのように連れ戻され、戦時公債ツアーに駆り出されたかを知ると、とても複雑な感情がわいてくる。特に、20歳前後だった彼らのことを考えるとね」

ジェイムズ・ブラッドリーとロン・パワーズによるベストセラーに基づき、『父親たちの星条旗』では“国旗掲揚者”のひとりの目を通して硫黄島の戦いが明らかにされ、有名なAP通信の写真で父親が果たした役割を知ろうとする息子の旅が語られる。そして、写真が撮影されてから60年以上経った今、彼の父の人物像だけでなく、彼が誰と戦い、何を悼んでいたのかも知ることになる。「私は決して本を書こうと思って調べ始めたのではない」とブラッドリーは言う。「硫黄島の星条旗」はバンタム・ブックスから2000年に出版され、ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラー・リストに46週載り、そのうち6週間は第1位だった。「なぜ父が沈黙を守ったのかを知りたかったんだ。本を書こうと決めたのは、誰もがあの写真を知っているのに、その裏の物語を誰も知らないことがわかったからだ」

やがてイーストウッドは、この本の映画化権をスティーブン・スピルバーグが獲得したことを知った。「スティーブンのドリームワークスが権利を獲得していた」とイーストウッドは思い返す。「私はこの素材が大変気に入ったことを彼に伝え、そのまま成り行きを見守ることにした。そして2年ほど前に、あるイベントで彼と偶然会ったとき、『あのプロジェクト、やったらどうです? あなたが監督して、私が製作すればいい』と彼が言った。それで私は、『わかった、やるよ』と答えたんだ」

第2次世界大戦を舞台にした名作『プライベート・ライアン』(1998)でアカデミー賞監督賞に輝いたスピルバーグは、イーストウッドのすばらしいキャリアと映画製作における信念を考えれば、この素材を彼にゆだねても何も心配することがないと思ったと言う。「クリントと初めて会って35年以上になるが、彼の作品の幅広さ、その内容の確かさ、そしてその優れた演出にはいつも感銘を受けている」とスピルバーグは言う。「彼の作品群はテーマも雰囲気も実にさまざまで、現代の映画界には彼と肩を並べられる者はいない。そして、彼がその作品に対して世界から喝采を浴び、愛され、誰もが彼に芸術性を認めるのを見るのは本当に喜ばしいことだ。彼自身は自分に芸術性があるなんて一度も主張しないけどね。もしかすると、どんなに喝采を浴びてもまったく変わらないクリントを見ていられること、それがいちばんすばらしいことかもしれない。つまり彼は、まったくおごりがないんだ。『より少ないことが最も好ましいこと』というのが彼の口癖なんだが、それは特に、彼が自分のエゴを貫かずに、信頼関係を重視していることに当てはまる。キャスティングにしろ、素材選びにしろ、撮影方法にしろ、キャストやスタッフに対する彼の信頼は、自分自身への、そして自分の直感に対する自信を反映しているんだ」

さて、これが次のプロジェクトに決まると、イーストウッドは硫黄島の戦いについてのリサーチに没頭した。さまざまな関連資料を読み、日米双方の元軍人からも話を聞いた。硫黄島の戦いは、今でも海兵隊史上、最も過酷な戦闘であり、単独の戦闘に与えられた数としては最多(27)の名誉勲章が授与されている。リサーチを進めていくうちに、イーストウッドは『父親たちの星条旗』と並行してもうひとつの映画の準備を始めることにした。日本側の視点で描いた『硫黄島からの手紙』である。「私が観て育った戦争映画のほとんどは、悪玉と善玉がはっきり分かれていた」とイーストウッドは言う。「だが、人生はそんなものではないし、戦争もそんなものではない。この2本の映画は勝ち負けを描いたものではない。あの戦争が人間に与えた影響と、本当ならもっと生きられたはずの命を若くして落とした人々を描いている」




◆星条旗の掲揚

AP通信のカメラマン、ジョー・ローゼンタールが撮ったこの有名な写真は、実は硫黄島での2回目の国旗掲揚の瞬間をとらえたものだ。1945年2月19日に硫黄島に上陸したあと、海兵隊の第5師団国旗掲揚者たちの所属師団 ─ は摺鉢山の占領を目指して進み始めた。5日目までに米軍は多くの死傷者を出したが、その攻撃によって、日本軍は徐々に島の洞窟に退却せざるを得なかった。そしてあの朝、必死に戦っている兵士たちへの激励の証として、山の頂上に国旗の掲揚が命じられた。そのとき、海軍長官はその旗を記念に欲しいと言い出した。しかし、その国旗は幹部将校であるチャンドラー・ジョンソン大佐(ロバート・パトリック)が部隊のために保管したいと思ったため、伝令係レイニー・ギャグノンに代わりに掲げる別の国旗を持って行かせた。

レイニーが頂上に登ると、そこには電話線を引く作業をしていた海兵隊のマイク・ストランク、ハーロン・ブロック、アイラ・ヘイズ、そしてフランクリン・スースリーがいた。国旗を掲げるポールに使うため、彼らはすぐに古い水道管を見つけたが、彼らだけでは支えきれず、海軍衛生下士官ジョン・“ドク”・ブラッドリーに手を貸してくれと頼んだのだった。

何が起こっているかに気づいたローゼンタールはカメラを置くと、よりよい場所から撮影できるように石を積み重ね始めた。そうしているうちに撮影のチャンスを逃しそうになったため、慌ててカメラを手に取り、シャッターを押した。そして400分の1秒後、歴史が作られたのだ。彼は現像のためにフィルムをグアムに送り、AP通信の写真編集者ジョン・ボドキンはその写真を見ると直ちにそれをニューヨークに無線で伝送した。そして、ローゼンタールが撮った17時間半後、その写真はAPから配信された。

写真に写った6人のうち、3人はその後の戦闘で命を落としたが、3人 ─ 海兵隊のレイニーとアイラ、そして海軍衛生下士官のドクはアメリカへ送り返された。そして、戦争公債で戦費調達をするために彼らは政府に利用され、資金集めの担い手として、第7次戦時公債ツアーで祖国のために尽くすことを強いられる。

『ゴスフォード・パーク』(2001)、『クラッシュ』(2005)のライアン・フィリップが演じるドクは、海軍衛生下士官として負傷した兵士たちの応急手当をする。「ドクは複雑な男ではない」とフィリップが説明する。「彼は正直で、素朴で、率直なんだ。彼のような男だと、とても自由に演じられる。彼はウソをつかないし、自分以外の何者かであろうとしないからね。彼はすごい人物だよ。できる限りありのままの彼を表現しなければ、と思うと、大きな責任を感じた」

役作りのために、フィリップはドクの息子であり、原作の著者でもあるジェイムズ・ブラッドリーと話し合った。「息子さんを前にして、『僕はあなたのお父さんを演じるんです』と自己紹介するのはなんだか妙な感じだったけど、彼はとても熱心に話をしてくれて、僕を適任だと思ってくれた」

この役柄に対する思い入れはさておき、フィリップにとって最大の難関は、衛生下士官としてのドクの任務である医療行為を正確に演じることだった。「止血帯や圧迫包帯、三角巾などの使い方を教わった」と彼は思い返す。硫黄島の激戦のなかで、多くの兵士が最期に見たのがドクの顔なのだ。ドクが可愛がった若い兵士、イギー(ジェイミー・ベル)もそのひとりで、ドクは硫黄島から遠く離れても彼の最期が頭から離れない。

「僕の家族は軍と長い付き合いがあるんだ」とフィリップは言う。「父はベトナム戦争中に海軍にいたし、叔父たちも従軍していた。祖父はふたりとも第2次世界大戦に出征している。だから、兵士たちに敬意を払えるのはとても大きな名誉であり、責任も感じるよ」

運命なのか、あるいは単なる偶然か、ドクが配属されたのは新しく作られた少人数の部隊で、そこにはのちに生き残ることになるほかの2人の国旗掲揚者たちもいた。そのひとり、レイニーを演じるのは『チアーズ!』(2000)のジェシー・ブラッドフォード。寡黙なドクに対してレイニーはおしゃべりで、内向的なドクに対してレイニーは社交的。そんな彼は、戦時公債ツアーについてきた名声を享受するが、やがてそのために払う犠牲を深く理解するようになる。「すべてが起こったとき、レイニーは19歳だった」とブラッドフォード。「彼はまだママが恋しくて、戦争に行く覚悟はできていなかったのかもしれない。その反面、自分をよく見せたい男の子でもあったんだ。やれと言われたことは何でもやった」

「彼らはどこへ行っても盛大に歓迎される。パーティが開かれ、人々の注目の的となるんだ」とイーストウッドは説明する。「若い3人にとっては、程度の差はあれ戸惑うことばかりだ。硫黄島でつらい体験をしてきたとはいえ、もっとつらい目に遭っている兵士たちがいることを知っているからね」

ほかのふたりが仕方なく英雄を演じているのとは対照的に、レイニーは厚かましい男に見えるかもしれないが、彼の心情はほかのふたりと同じように複雑だったとブラッドフォードは考える。「僕はレイニーがどんな人物だったか、彼の息子さんといろいろ話した。彼は当時19歳で、正しいことをやろうという気持ちでいっぱいだったんだ。過ちを犯しがちな人間だったかもしれないけど、彼なりのやり方で英雄でもあったんだよ。彼は戦争支援のために自分たちがやっていることは絶対に必要なんだと思っていた。僕は彼を肯定的に表現したかったんだ」

3人の国旗掲揚者たちがタイムズ・スクエアの壇上に導かれると、そこにはものすごい数の人々が集まっていた。そこでレイニーは群集に向かって訴える。本当の英雄は自分たちではなく、硫黄島で眠っている戦友たちだと。「恐ろしく大きな期待をかけられる有名人になることで、彼らが受けたプレッシャーはとてつもなく大きく、それを克服するにはものすごい努力が必要だった。そして、3人のなかにはそれができなかった者もいたんだ」とイーストウッドは言う。

3人目の国旗掲揚者は複雑で胸の内を見せないアイラ・ヘイズ。彼は有名人扱いされることになかなか慣れることができず、いわゆる“通常の生活”に戻ったあとに酒に逃げてしまう。アイラ役にイーストウッドが起用したのは、『スモーク・シグナルズ』(1998)、『ウインドトーカーズ』(2002)などに出演したアダム・ビーチで、彼はアイラの心情をすぐに理解し、力強い演技を見せている。「アダムはアイラの本質をしっかりつかんだと思う」とイーストウッドは褒める。

「アイラは多くの点で昔ながらの戦争の英雄なんだ」とビーチは言う。「彼は南太平洋でおこなわれた最も凄惨な戦いのうち3つに参加し、そのすべてを生き抜いた。帰国後も彼が望んだのは再び戦場に戻り、仲間と共に助け合って戦うことだけ。彼の戦友たちが恐怖の中で戦っているときに、自分だけが安全でいることに彼は耐えられない。彼はその状態とどう折り合いをつければいいかわからないんだ」

ビーチはアイラを理解するうえで、自分を喝采する何千人もの群集の前に立つのはどんな感じか想像してみた。「しかも、たった1週間前まで彼は親しい戦友たちが死んでいくのを見ていたんだ」とビーチは説明する。「このギャップをどうやって埋められる? 僕にはできなかったと思う。でも、彼にはしなければならない仕事があった。彼はそれが自分のすべきことであるならば、全力を尽くそうとしたんだと思う。そして実際、彼らはほかのどのツアーよりも多くの資金を集めたんだ」

この映画では、生還できなかった3人の国旗掲揚者たち、マイク・ストランク、ハーロン・ブロック、そしてフランクリン・スースリーの運命についても描いている。軍曹で隊のリーダーでもあるマイクを演じたのは、『プライベート・ライアン』(1998)、『グリーンマイル』(1999)のバリー・ペッパー。「マイクは、体を張ってほかの兵士たちを奮起させるタイプの男なんだ」とペッパーは言う。マイクがどんな人物だったかを調べた彼は、誰からもこの軍曹に対する賛辞を聞いた。「彼と共に従軍した誰もが彼をすばらしいリーダーだったと褒めるんだ。自ら模範を示すいい奴だったと」「硫黄島で戦ったとき、マイクは25歳で、彼の隊の兵士たちは18歳とか19歳だったんだ」とフィリップは言う。「彼らに比べたら、マイクは戦闘に鍛えられた古参兵だった。面白いことに、バリーがマイク役をすることになったとき、彼はマイクと同じような役割を僕たちに対しても果たすようになったんだ。彼は『プライベート・ライアン』や『ワンス・アンド・フォーエバー』といった戦争映画に出演した経験があるから、僕らのリーダーになり、いろいろアドバイスしてくれたよ」

兵士としての身のこなしを習得するために、主要キャストは戦争映画でよくある俳優用の基礎訓練キャンプに送り込まれる代わりに、4人の軍事アドバイザーたちからみっちりと軍事的指導を受けた。「基礎訓練キャンプをしなかったのは、クリントの考えによるところが大きかったと思う」とバリー・ペッパーは言う。「彼は戦闘シーンで、戦場に送り込まれ、混沌の中に放り込まれた若い兵士たちの姿を生々しく描きたかったんだよ。そんな状況では感情が自然に沸き起こるからね」。あの写真についての当初の報道では、ハーロン・ブロック1等兵は別の海兵隊員(本作ではポール・ウォーカーが演じるハンク・ハンセン)と間違えられていた。ハーロンを演じたベン・ウォーカーはこう語る。「ハーロンは高校のフットボール・チームでランニング・バックだったから、兵役につく前からいい体をしていたんだ」

撮影開始に先立ち、ウォーカーは集中してトレーニングを行い、ハーロンの鍛え抜かれた肉体を作ったのだが、それはあとで役立った。「夜間撮影も2〜3回あったし、気温は氷点下までぐんと落ちた。そのうえ、僕らはビーチで痛いぐらいの風に吹きさらされていたからね」とウォーカー。「できるだけ速く走り抜けようとしたけど、ほとんど前に進まなかった。肉体的にはほんとにつらかったけど、すばらしい体験だったよ」

そして国旗掲揚者の最後のひとり、フランクリン・スースリーを演じたジョゼフ・クロスは、「フランクリンは楽しいことが大好きな、楽天的な男だった」と言う。「たぶん、ほかの兵士たちよりちょっと青くさかったかもしれないね。彼は同じ部隊の仲間をいろんな形で楽しませた。彼らはフランクリンをからかったりもしたけど、それはいつも愛情がこもっていた。ある意味で、彼はみんなの弟分的な存在だったんだ」

クロスはイーストウッドと一緒に仕事をしたことについて、ほかのキャストと同じ感銘を受けた。「僕の人生でいちばんすばらしい経験のひとつになった。彼は、俳優たちがまず何ができるかを見たがる。そして、温かく穏やかに、僕たちに自分なりの解釈で演じさせてくれたんだ。だからこそ、僕たちは彼の考え方を信頼できたし、彼のために最高の演技をしたいと思った」

「当時のアメリカは、世界大恐慌から抜け出して間もなく、やせっぽちの子供たちばかりだったし、アメリカ人の多くにとっても決して楽な時期ではなかった」とイーストウッドは説明する。「彼らの多くは海兵隊に入隊したり、陸軍に徴兵されたりしたんだが、彼らには共通する精神があった。自分たちがやっていることを信じることだ。彼らは信じ、やり抜いた」

キャスティングにあたってイーストウッドが大いに頼りにしたのは、フィリス・ホフマンである。キャスティング・ディレクターの彼女は獅子奮迅の働きをし、本作が編集段階にあるときに亡くなった。「フィリスはクリントのまさに腹心の友だった」と、ベテラン・プロデューサーのロバート・ローレンツは言う。「この映画でセリフがある役は100以上あるんだが、彼女はキャスティングに全精力を傾けていた。彼女はニューヨーク、ロサンゼルス、そのほかあらゆる場所で文字どおり何百人もの俳優をオーディションしたんだ」

そしてすばらしいアンサンブル・キャストが硫黄島に足跡を残した実在の人々を演じることになった。タフで気性の激しいセべランス大尉をニール・マクノドウ、帰国した国旗掲揚者たちが数限りなく参加したイベントに同行した海軍の広報担当官キース・ビーチをジョン・ベンジャミン・ヒッキーが演じた。キース・ビーチは最初は機械的に3人の行動を管理していただけだったが、やがて彼らの苦悩を理解し、同情するようになる。さらに、ペネル中尉にはトム・ベリカ、バド・ガーバー役にジョン・スラッテリー、ウォルター・ガスト役にスターク・サンズが起用された。

硫黄島で命を落とした国旗掲揚者たちの母親役には、ハンク・ハンセンの母マデリン・イベリーをマイラ・ターリー、マイク・ストランクの母をアン・ダウド、フランクリン・スースリーの母をコニー・レイが演じた。最初、写真に写っているのはほかの兵士だと公式に知らされても、それは息子だと信じて疑わなかったハーロンの母をジュディス・アイビーが演じ、彼女の夫エドをクリストファー・カリーが演じている。レイニーの母をべス・グラント、婚約者のポーリーンをメラニー・リンスキーがそれぞれ演じている。また、トルーマン大統領役はデイビッド・パトリック・ケリー、ブーツ・トーマス軍曹役はブライアン・キメット、ベル中尉役はマット・ハフマン。



◆フィルムメイキングの仲間たち

『父親たちの星条旗』に生命を吹き込むため、クリント・イーストウッドは、信頼するベテランの仲間たちを集めた。プロデューサーのロバート・ローレンツはイーストウッドの最近の5作で、製作準備から、製作、編集、宣伝、配給まであらゆる側面を指揮している。そして、イーストウッドとは『スペース・カウボーイ』(2000)で初めて組んだマイケル・オーウェンズが、視覚効果監修とセカンド・ユニット監督として製作チームの中心的な役割を果たした。ほかの主要メンバーは、撮影のトム・スターン(イーストウッド作品では、5本で撮影を、数多くの作品で照明主任などを担当)、衣装デザインのデボラ・ホッパー(イーストウッド作品では、5本で衣装デザイン、9本で別の役割を果たした)、編集のジョエル・コックス(イーストウッド作品20本に参加)、そして美術の故ヘンリー・バムステッド(イーストウッド作品11本を担当)などである。イーストウッドは大切な仕事仲間というだけでなく、友情の証として、本作をキャスティング・ディレクターのフィリス・ホフマンとバムステッドに捧げている。

バムステッドは93歳で亡くなる前にこう語っていた。「真っ白な紙を手に腰を下ろし、セットをデザインし、それが作られるのを見るのが今でも楽しい。私の人生すべてがそうだからね。その作業を大いに楽しませてもらってるよ」

バムステッドは亡くなる前に、硫黄島二部作のもうひとつ、『硫黄島からの手紙』のセットのデザインを完成させた。「クリントについてはいくら話しても話し足りないよ」とバムステッドは語った。「彼がセットにカメラを置く様子を見ただけで、うまくやれる気になる。私は彼がどう演出するのが好きか、カメラワークをどうしたいかを知っているから、それに合わせてセットをデザインし、彼は望んだ場所にカメラを置く。私は彼をアメリカで最高の監督だと思っているよ」

そしてトム・スターンは、2002年に撮影監督となる前にも、1982年の『センチメンタル・アドベンチャー』以来、20年以上も照明主任などでイーストウッドの作品にかかわってきた。イーストウッドと長く組んできたことはスターンにとって非常に有益だったようだ。「クリントは、私が知っている誰よりも言語に頼らずに明確に意思を伝える人物なんだ。私には彼の考えていることがかなりはっきりわかる。撮影については、私がまず、あるイメージや自分で選んだ写真付きの本を彼に見せ、それらについてふたりで話し合う。大部分については、クリントは細かく決めてしまわずに、できるだけギリギリまで融通が利くようにしておくんだ。彼がそうであるように、彼は誰に対しても柔軟であること、自然に浮かぶアイデアを大事にしろと言っている」

この『父親たちの星条旗』では、そのスケールの大きさにもかかわらず、イーストウッドは人間を描くことと、ストーリーへの心情的な核心からは決して離れなかったとスターンは語る。「描かれているキャンバスはとても大きいけれど、これはとても個人的なストーリーなんだ。それを映像的に表現する機会がたくさんあった」。

硫黄島の戦闘シーンでは、兵士たちの脳裏に焼きついてはなれない記憶がくっきりと描き出され、アメリカに帰ってからのツアーや人生は、もっと自然のままに描かれている。「この映画では感情面を映像で出そうとしている」とスターンは説明する。「それは、『ミスティック・リバー』と『ミリオンダラー・ベイビー』でもクリントと私が試みたことで、どちらもうまくいった。登場人物たちの心の中で起こっていることを映像で反映させるために、色彩を加減し、ときにはとてもとても深い色、さらには真っ黒など、いろいろ使っている」。

デボラ・ホッパーは、エキストラ用の500着以上の軍服を作ることを含め、あの時代に合わせた衣装のデザインを担当した。綾織りという、なかなか手に入らない布地を見つけると、ホッパーはそれを染色し、わざと古びた感じにし、衣装を作っていった。「俳優は自分が演じるのがどんな人物なのかを実感しなければならず、多くの場合、それは衣装を身に着けるところから始まるものなの」と彼女は言う。「ドクは保守的な人だったから、彼の私服はブルックス・ブラザーズを着せたわ。レイニーはある意味、登場人物の中では“映画スター”的存在なので、いつもこぎれいにしていることを洋服にも反映させた。アイラの場合は、その苦悩に満ちた人生に合わせて服も古びていたり、汚かったり、ミスマッチだったりさせたの」。

本作で軍事アドバイザーを務めたジェイムズ・ディバー上級曹長は、スクリーンに映し出されるすべてが時代考証的に間違いないよう、衣装、小道具、そして特殊効果の各チームと協力して当時のことをリサーチした。

イーストウッドのすべての作品と同じく、今回も音楽は非常に重要な要素だ。本作でイーストウッドは自ら作曲し、アービン・バーリン、サミー・カーン、ジュール・スタイン、ジョン・フィリップス・スーザのような音楽家による当時のノスタルジックなスタンダードをそれに融合させた。サウンドトラックでは、ダイナ・ショア、アーティー・ショウ・アンド・ヒズ・グラマシー・ファイブによるオリジナル曲も楽しめる。

また、サウンドトラックに特別なアレンジを提供したのは監督の息子、カイル・イーストウッドと彼の曲作りのパートナーであるマイケル・スティーブンス。さらに、イーストウッド監督との付き合いは『ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場』(1986)、『バード』(1988)までにさかのぼるレニー・ニーハウスが、オーケストラ用の編曲と指揮を担当している。



◆日本とアイスランド:硫黄島の再現

本作の製作準備の初期段階で、クリント・イーストウッドは硫黄島を訪れた。「2000年4月に日本政府が硫黄島の訪問を許してくれたんだ」と彼は説明する。「あの戦争で、日米両国のとても多くの若者たちが命を落とした場所である硫黄島を実際に歩くと、胸が熱くなった」。

大規模な撮影チームが撮影地に与える衝撃の大きさを知っているイーストウッドは、長期にわたる激しい戦闘シーンの撮影を行うことで、そういう歴史を持つ硫黄島に打撃を与えたくなかった。それでも、彼は硫黄島でいくつかの映像を撮影した。その砂浜に刻み込まれた歴史という店で、この島自体がストーリーの重要な役割を果たすからだ。「あの砂浜に座っているとかなり感傷的になった」とイーストウッドは言う。「硫黄島には日本の自衛隊の小隊が駐屯しているほかは誰も住んでおらず、ほかには米空軍がたまに訪れて活動するだけだ。あの砂浜に座っていると、島に侵攻してくる部隊と激戦の音が今にも聞こえてきそうだった」。

地質学的に、そして地形的に硫黄島の代わりとなる場所は世界でごく限られているが、激しい侵攻シーンを撮影するために、フィルムメイカーたちはそのひとつを見つけた。アイスランドのレイキャビク南西にある火山性の半島、レイキャネスだ。

「硫黄島の砂浜を再現するのはとても難しい。あんな場所を見つけるのは至難の業なんだ」とイーストウッドは言う。「アイスランドは硫黄島とよく似ていて地熱のある火山島で、しょっちゅう小さな地震がある。真っ黒な砂も硫黄島と同じ。どちらも地面から火山性の蒸気が出ている。もちろん、位置的にはまったく違うが、8月のアイスランドは少し涼しく、条件が2月の硫黄島とよく似ているんだ」。

そして、700人余りからなるキャストとスタッフが戦闘シーンの準備と撮影のため、レイキャネスに入った。「アイスランドの地形はまるで月にいるみたいだった」と、ドク役のライアン・フィリップは思い起こす。「あそこでの撮影は大変だったよ。だって、すごく遠いし、世界から取り残されたような気分になった。でも、その結果、ハリウッドで撮影していたら決してありえなかったような感じでキャストの絆が強まったんだ」。

アイスランドのサンドビーク・ビーチを硫黄島の砂浜に似せるため、製作チームはかなりの量の砂を移動させた。アイスランドの砂を大量に移し、侵攻してくる軍に対する防御壁となる土手を作ったのだ。「150万立方ヤード以上の黒砂をアイスランドに持ち込み、硫黄島の日本軍が防御に使った土手を再現した」と、やはりイーストウッド組の常連であるアート・ディレクター、ジャック・テイラーJRは言う。「およそ230メートルにわたり、4.2メートルから4.5メートルの高さに砂を積み上げ、硫黄島に上陸してくる海兵隊員の行く手をはばむ土手を作った。実際のものととてもよく似ているよ」。

侵攻シーン自体も非常に重要なため、各部署がお互いに調整をとりながら撮影準備を進めた。この一連のシーンにおいて、最大限のリアリズムを実現するために、彼らは努力を惜しまなかった。そこで鍵を握ったのが、視覚効果監修のマイケル・オーウェンズ。彼は、主要な部署と親密に連絡を取り合い、中心的なキャラクターから大規模な侵攻そのものを見せていく視覚効果を作り出した。「実際の硫黄島侵攻シーンは、ほとんど想像できないほど大規模なもので、数多くの細かな要素が盛り込まれている」とプロデューサーのロバート・ローレンツは言う。「地上で迫撃砲がひっきりなしに撃たれるだけでなく、空には爆撃機、海上には戦艦、そして膨大な数の兵士たちがいた。とてつもない数の細かい映像を、オーウェンズは実際に撮影された映像に見事に融合させたんだ」。

「これは人間を描いた映画だが、彼らの人生における決定的な瞬間を生々しくとらえた映像なしには彼らの物語は完成しない」とオーウェンズは言う。「侵攻シーンは圧倒的な迫力なので、視覚効果を活用してそれを伝えることが、クリントにとって重要だったんだ」。

特殊効果監修のスティーブン・ライリーは、侵攻現場のさまざまな要素と必要な火薬を手配し、調整した。ライリーは黒砂を利用して、ほかの方法よりもずっとリアルな爆発を作り出すことができた。「クリントは、ガソリンを使って、空中に黒い煙が漂うという標準的な爆発を使いたくなかったんだ」と彼は言う。「彼は、ミサイルが地面に命中したときに地面がどう爆発するかをリアルにとらえたかった。安全面を確保するために何度もテストを繰り返し、時間を費やしたが、上手くいったと思うよ」。

イーストウッドは、特殊効果チームがいつ、どこで爆発を起こすかを俳優たちに知らせないことが多かった。もちろん、危険なことは何もなかったが、彼らは爆発が起こるたびに驚いた。「しょっちゅう、不意をつかれたよ」とフィリップ。「突然、すぐそばで何かが爆発すれば、そりゃあリアルな反応をするよね」。

「とにかくすべてがユニークな体験だった」とフィリップは続ける。「ビーチで左を見ると、500人ぐらいが銃撃してたりする。心臓はバクバクしたし、アドレナリンはあふれ出てきたし、感情が高ぶってきた。あの状況に影響されない人なんていないよ」。

軍事アドバイザーを務めたジェイムズ・デリバー上級曹長は、主要キャストへの指導に加え、硫黄島侵攻のシーンに登場する海兵隊員500人のエキストラの訓練も担当した。そして、彼らが砂浜になだれ込んでいく中、ディバー自身も侵攻シーンの真っ只中に入り込んでしまった。「私たちが装備のかつぎ方や武器の撃ち方を訓練した500人の男たちが、いたるところで爆発が起こっている中を前進していったんだ。もちろん、誰もケガをしないように万全の対策が採られたし、予定どおりにすべてが進んでいった。すばらしかったよ」と彼は思い返す。

本作で海兵隊のコーディネーターを務めたジミー・オコネルは、複数の製造後60年のLVT(水陸両用装軌車) ─ 海から直接海岸へ上陸できるように設計された戦車型の車輌 ─ や、数台の製造後40年のLCVP(揚陸艇:別名“ヒギンズ・ボート”) ─ 海兵隊員をビーチへ送り届けるための揚陸艇 ─ を手に入れた。

米軍が日本へ向かって海を移動していくシーンでは、ロングビーチに停泊している、今でも操作可能な第2次世界大戦時の貨物船S・S・レーン・ビクトリー号を利用した。美術を担当したのはヘンリー・バムステッドのチームである。「船のすべてを第2次世界大戦当時に戻さなければならなかった」とイーストウッドは説明する。「美術チームはとても興奮してたよ」。

「本物の戦艦の上で演じられるなんて夢みたいだった」とハーロン・ブロック役のベンジャミン・ウォーカーは言う。「アメリカを守る任務に就いたことのある船だったし、そこで仕事ができたのは光栄だった。本物の船で本物の水兵に囲まれて、あとは演じるだけなんて最高だよ」。

撮影中、スタッフ、キャストの感情が高揚することが何度かあったが、当然のことながら、国旗掲揚を再現した日もそうだった。誰もがそれを間違いなく ─ つまり、あの有名な写真のとおりに ─ やり遂げたいと強く思っていた。「僕たちが国旗を掲げたとき、その場の全員の感情がどっとあふれるのがはっきりと感じられたんだ。何か特別なことが起こっているという感じで」と、マスク・ストランク役のバリー・ペッパーは思い起こす。「やり終えたとき、僕たちは皆、握手をしてお互いを称え合った。彼らを演じ、彼らのストーリーを伝え、硫黄島での海兵隊のストーリーを伝えることは、僕たち全員にとって意義深いものだったよ」。

「あのとき、クリントは珍しく2テイク以上撮ることを決めた。そんなシーンはごくわずかななんだ」とウォーカーは言う。「4〜5回撮ったかな。きちんと写真どおりにできるようにね。僕たち6人は、その前夜にリハーサルをしたんだ。映像を撮り、それをスローで見直してはリハーサルをし、できるだけ本物に近づけた」。

ディバー上級曹長もこう付け加える。「あの日の海兵隊員を俳優たちが演じる様子はほんとうにすばらしかった」。

『父親たちの星条旗』は、カリフォルニア州ロサンゼルス、バージニア州アーリントン、イリノイ州シカゴ、テキサス州ヒューストン、アイスランドのビーチ数ヶ所、そして硫黄島で、61日間にわたり撮影された。



◆硫黄島の戦い

連合国軍は、硫黄島の戦いを太平洋戦争における日本攻略への必要なステップだと考えていた。当時、連合国軍は毎日マリアナ諸島から日本へ出撃していたのだが、その経路にある日本の領土である硫黄島は、連合国の襲撃を日本本土へいち早く無線で知らせる警告基地としての役割を果たしていた。そのため、連合国軍の爆撃機が日本へ着いたときには、対空防御態勢ができており、基地に戻ろうとしている故障した米軍機は硫黄島周辺の空域にいた日本軍パイロットにとっては格好のターゲットとなった。硫黄島には航空基地としての役割もあり、そこから飛び立つ爆撃機は毎晩のようにサイパンの飛行機に爆撃を加えた。従って、日本への空爆を続行するためには、硫黄島の武力を排除する必要があった。連合国軍は、戦略的な攻撃目標としてはもともと別の複数の地点 ─ 特に沖縄 ─ を考えていたのだが、それらの目標に侵攻できるまでにはまだ数か月かかりそうであり、その時点では硫黄島のほうがより緊急性の高い目標となった。こうして、硫黄島は第2次世界大戦中に日本の領土で初めて戦闘が行われた場所となったのだ。

1945年2月16日、米軍は硫黄島を防衛していた2万2,000人の部隊に空と海から集中砲火を浴びせ始めた。そしてその3日後、米軍は島に侵攻した。

その戦いにおける米軍の第1目標は、島の南部にある標高169メートルの摺鉢山を占領することだった。上陸した3万から成る部隊は、山を包囲しながら激しい砲撃を受けた(その後、さらに4万の海兵隊員が続くことになっていた)。摺鉢山をめぐる攻防は厳しいものになったが、2月23日までに海兵隊は山を占領し、米国国旗を“2回”掲揚した。

その後31日間にわたり、日米両軍は激しい戦いを続けた。海兵隊員は飛行場を確保するために北へ向かい、日本軍は島を渡すまいと必死の抗戦を展開。その結果、3月26日までに、特に日本側には大きな犠牲が出た。およそ2万2,000の兵士の中で、生き残ったのはわずか1000名程度だった。米国側は、国旗を掲揚した3人(マイク・ストランク軍曹、ハーロン・ブロック、フランクリン・スースリー)も含む6821名が戦死し、約2万が負傷した。

この硫黄島侵攻における戦功に対し、27個の名誉勲章が授与された。それは単独の戦闘に対して与えられた数としては史上最多であり、第2次世界大戦中に授与された総数の4分の1以上を占める。

「この映画は、祖国のために極限までの犠牲を払った全世代の人々と、それが彼らに与えた影響を描いている」とクリント・イーストウッドは説明する。彼は監督として、映画に登場する1人ひとりに敬意を表したいと願っており、当時を知っている人々や、関係者を直接知っている人々からできるだけ詳しい情報を得るために最大限の努力を払った。

「クリントは、映画で描いた人々のためにも、この物語を忠実かつ正確に伝える義務があるという雰囲気を作ったんだと思う」と言うのは、セべランス大尉を演じたニール・マクドノウ。「僕たちはその一員として、彼らにとってそれがどれほど悲惨だったか、真実を伝えたかった」

音響効果スタッフのアラン・マリーの父は硫黄島で戦い、それについて決して話そうとしなかった。それは硫黄島で戦った兵士たちの共通点だ。

「私は、サンフランシスコで行われた60周年記念式典に行き、退役軍人たちとじっくり話をした」とイーストウッドは言う。「彼らはいろんな話をしてくれたよ。その中には原作に登場するダニー・トーマスという人物もいた。彼も衛生兵で、ドクのような役割を果たしていた。そして彼もまた、ドクのように硫黄島について決して何も語らなかったし、戦争自体について何も語らなかった。帰国してからは静かに暮らしていたんだ。そして、年を取ってからやっと、彼は話してもいいと思えるようになった」。

「その彼とは2時間ほど話をしたが、当時の心境について、とても感傷的に話していた。式典に集まっていたのはすごい人たちばかりだったよ」とイーストウッドは締めくくった。




◆AP通信カメラマン、ジョー・ローゼンタール

ジョー・ローゼンタールが撮ったその写真はピューリツァー賞を獲得し、写真史の中でも最も複製されたイメージのひとつである。それは記念写真の図柄やポスターとなり、無数の雑誌の表紙や新聞の一面を飾り、さらには、バージニア州アーリントンの海兵隊記念碑にもなった。

ローゼンタールも生還した3人と同じく有名人になった。視力が弱かったために、当初、徴兵検査で4-F(軍務には不適格)に分類されていた彼は、2-AF(徴兵猶予)に分類し直された。当時のタイム誌によれば、あの写真のおかげで彼は「4-Fよりも有利な分類」に組み込まれることができたという。

彼の写真は物議をかもした。あの写真が全国の新聞の一面を飾った数日後、ある記者が、「あれは演出したんじゃないのか」とローゼンタールに尋ねた。彼は記者が言っている写真が別のもの ─ 星条旗を囲んで喜んでいる海兵隊員たちの写真 ─ だと思い込み、「もちろん」と答えた。さらに、あの写真が2回目の国旗掲揚を撮ったものだという事実も混乱を招き、その後50年間にわたり、ローゼンタールは非難されたのだ。

AP通信は、彼が殺到する取材に対応しやすいように “ローゼンタール担当デスク”を設置した。ローゼンタールはトルーマン大統領に会い、AP通信から戦時公債で1年分の給料に当たるボーナスを支給され、ピューリツァー賞も獲得した。

ローゼンタールは2006年8月に94歳で亡くなった。ニューヨーク・タイムズ紙の死亡記事で、同紙のリチャード・ゴールドスタインはこのカメラマンの最も功名な業績を称え、こう書いた。「日本の領土を米軍が初めて占領したことを示す勝利を予感させる写真は、米国民の感情を激しく揺さぶり、(写っている兵士たちが、それぞれ異なる人種的、文化的背景をもつことから)米国の多様性の象徴として共鳴を呼び起こした」。

ローゼンタールにとって、誰が英雄かは明白だった。彼はコリアーズ誌にこう寄稿している。「あの写真で私が果たした役割は、取るに足りないものだ。あの旗をあそこで掲げるために、アメリカの兵士たちはあの島で、別の島で、海で、そして空で死んでいったのだ。誰が写真を撮ったかはどうでもいいではないか。あの写真は確かに私が撮った。だが、硫黄島を“獲った”のは海兵隊員なのだ」。



 


【ストーリー】

◆父が最後まで語らなかった硫黄島 息子がたどり着いた、その真実とは?

ウィスコンシン州で葬儀社を営むひとりの老人が、長い人生に別れを告げ、最期の時を迎えようとしている。彼の名前は、ジョン・“ドク”・ブラッドリー(ライアン・フィリップ) ─ 1945年、海軍の衛生兵として硫黄島の戦いに赴き、海兵隊員たちとともに激戦を戦い、そこで撮られた1枚の写真によってアメリカ中から“英雄”と讃えられた男。しかし、彼は、その後の人生の中で、硫黄島について家族にひと言も語ろうとせず、アメリカ中に知れ渡った写真についてもひたすら沈黙を押し通した。硫黄島で何があったのか。父はなぜ沈黙を続けたのか。父親の人生を知るために、彼の息子が硫黄島の真実をたどり始める ─ 。

太平洋戦争末期、硫黄島に上陸を果たしたアメリカ軍は、予想をはるかに上回る日本軍の防戦に苦戦を強いられ、姿の見えない敵の脅威にさらされていた。壮絶を極める戦闘の中、摺鉢山の頂上に翻った星条旗。その1枚の写真がアメリカ中を熱狂させ、6人の英雄を生み出した。星条旗を掲げた6人の英雄たちの名前は、マイク(バリー・ペッパー)、フランクリン(ジョセフ・クロス)、ハンク(ポール・ウォーカー)、レイニー(ジェシー・ブラッドフォード)、アイラ(アダム・ビーチ)、そしてドク。しかし、硫黄島での勝利を宣言するはずの写真に写っていた6人のうち3人は、硫黄島から帰ることはなかった。生還できたのは3人だけ ─ 衛生兵のドク、アメリカン・インディアンの出自を持つアイラ、伝令係のレイニー。祖国に帰還した彼らは、戦費を調達するために、アメリカ全土をめぐる戦時国債キャンペーン・ツアーに駆り出されることになった。どこへ行っても熱烈な喝采を浴び、国民的英雄として祭り上げられる3人の生還者。派手な演出が施された歓迎パーティが催され、戦死した仲間たちの母親をも巻き込んだセレモニーが続く……。

しかし、英雄扱いされればされるほど、彼らの苦悩は深くなっていく。その写真の真実は、人々の熱狂とは程遠いものだった。語られることのないもうひとつの星条旗、入れ替わったままの6人目の名前、そして、何より彼らを苦しめたのは、脳裏から決して離れることのない戦場での体験だった。1枚の写真が3人の運命をも変えていく。現実から逃れようと酒びたりになっていくアイラ、千載一遇のチャンスをつかもうとするレイニー、そして黙したままのドクには、どうしても忘れられないひとりの戦友がいた。 6人の英雄の最後の生き残りとなったドク。沈黙に包まれていた硫黄島の真実が、少しずつ解き明かされていく ─ 。





 


【キャスト&スタッフ】

■ライアン・フィリップ(ジョン・“ドク”・ブラッドリー)

ジョン・ブラッドリー、通称“ドク”は、海軍の衛生下士官として、21歳で硫黄島戦に参加。摺鉢山の山頂に星条旗を掲げる海兵隊員たちに手を貸したところを写真に収められ、硫黄島の“6人の英雄”のひとりとなった。戦場では身を呈して負傷兵の手当てに当たり、帰国後は、国旗掲揚の“英雄”として全米をめぐる戦費調達ツアーに駆り出される。自らに課せられた役割を寡黙に果たし続け、任務から解放されたあとは、硫黄島についていっさい黙して語らなかった。生還した3人の中で唯一、戦後をうまく生き抜いたドクだが、彼もまた、硫黄島の悪夢にさいなまれ続けていた ─ 。

ドクを演じるライアン・フィリップは、ドクについて「彼は嘘をつかないし、自分でない何かであろうとしない。できる限りありのままの彼を表現しなければ、と思うと、大きな責任を感じたよ」と語る。原作者である“ドクの息子”ジェイムズ・ブラッドリーにも会った。「『あなたのお父さんを演じます』と自己紹介するのはなんだか妙な感じだったけど、彼はとても熱心に話をしてくれて、僕を適役だと思ってくれたんだ」

俳優、プロデューサー、脚本家の肩書きを持つライアン・フィリップは、ハリウッドの若手俳優の中でも最も多才な才能の持ち主のひとりとしての地位を確立している。

近年では、アカデミー賞作品賞を受賞したポール・ハギス監督作『クラッシュ』(2004)、ローレンス・フィッシュバーン共演のインディペンデント作『Five Fingers』(2006)に出演している。また、最近では『ニュースの天才』(2003)を手がけたビリー・レイ監督作『Breach』(2007)に出演。来年初頭に公開が予定されているこの作品は、二重スパイのロバート・ハッセンとパワーゲームを繰り広げる若手FBI捜査官を描いた実話を基にしている。さらに現在は、ボーイズ・ドント・クライ』のキンバリー・ピアース監督のタイトル未定作品の製作に取り組んでいる。同作は、イラク戦争での任務後の愚かなアメリカ陸軍の軍曹に焦点を当てた作品となっている。

リドリー・スコット監督作『白い嵐』(1996)で映画初出演を果たしたのを機に、さまざまなジャンルの主演映画で幅広い役柄を演じている。

キャリアの初期には、『ザ・タブー/暴かれた衝撃』(1997/未)でナスターシャ・キンスキーと共演したほか、グレッグ・アラキ監督が手掛けて話題を読んだ3部作の3作目『ノーウェア』(1997)に出演。さらに、『ワイルド・スモーカーズ』(1998)ではビリー・ボブ・ソーントンと、『マイ・ハート、マイ・ラブ』(1999)ではショーン・コネリー、アンジェリーナ・ジョリー、ジーナ・ローランズをはじめとしたアンサンブルキャストと共演している。また、コロンビア製作のスマッシュヒット作『ラストサマー』(1997)に出演後は、リース・ウィザースプーン、サー・ミシェル・ゲラー共演作『クルーエル・インテンションズ』(1999)、マイク・マイヤーズ共演作『54 フィフティ★フォー』(1998)など主演作が続いている。このほかにも、パラマウント・クラシックス製作、シガニー・ウィーバー共演作『CIAの男』(2000/未)、アーチザン製作『誘拐犯』(2000)、アカデミー賞ノミネートを果たしたロバート・アルトマン監督作『ゴスフォード・パーク』(2001)、スーザン・サランドン、キーラン・カルキン共演作『17歳の処方箋』(2002)、MGM製作、ティム・ロビンス共演作『サーベイランス ─ 監視 ─ 』(2001)、ミラマックス製作『Re:リプレイ』(2003)など。さらに、デヴィッド・シーガルと共にインターメディア・フィルム社系列の製作会社Lucid Filmを設立している。あらゆる媒体の作品の製作を手がける同社の初制作作品は『White Boy Shuffle』(2006)。



■ジェシー・ブラッドフォード(レイニー・ギャグノン)

19歳で硫黄島戦に参加した若き海兵隊員。戦闘能力に自信が持てず、戦地では伝令係を命じられていた。その日、摺鉢山の頂上まで星条旗を運ぶ役目を仰せつかったことから、彼も“6人の英雄”に加わることに。3人の生還者のひとりとして帰国したレイニーは、ドクやアイラと違い、“英雄”に対する賛辞や喝采をごく素直に受け入れ、突然手にした名声を利用しようと試みる。やがて、戦場の現実とあまりに違う戦費調達ツアーのまやかしぶりに幻滅を覚えるが、彼には政財界の大物が約束してくれた輝かしい未来があるはずだった ─ 。

「すべてが起こったとき、レイニーは19歳だった。彼はまだママが恋しくて、戦争に行く覚悟はできていなかったのかもしれない。その反面、自分をよく見せたい男の子でもあったんだ」。実際のレイニーと驚くほど外見が似ているというジェシー・ブラッドフォードは、この役を演じるにあたってレイニーの息子と語り合い、この人物のあらゆる面を見せたいと思ったという。「彼は、確かに過ちを犯しがちな人間だったかもしれない。でも、英雄でもあったんだ。僕は彼を肯定的に表現したかったんだよ」

20代の若手俳優世代の中でも、最も才能のある役者のひとりであるジェシー・ブラッドフォードは、幅広い役柄を演じ、常に挑戦を続けている。

最近の出演作には、グレン・クローズ、ジェームズ・マーズデン、エリザベス・バンクスと共演した、マーチャント/アイヴォリー製作の『Heights』(2004)がある。それ以前には、ドン・ルース監督・脚本、リサ・クードロー共演作『ハッピー・エンディング』(2005/未)がある。ブラッドフォードの次回作は、韓国映画『猟奇的な彼女』をリメイクしたヤン・サミュエル監督のロマンチックコメディ作『My Sassy Girl』(2007)で、エリシャ・カスバートと共演する。

ブラッドフォードの名が広く認知されるきっかけとなったのは、ペイトン・リード監督、キルスティン・ダンスト主演作『チアーズ!』(2000)やジョン・ポルソン監督、エリカ・クリステンセン共演のスリラー作『プール』(2002)で、両作品共にそれぞれ2000年8月と2002年9月にボックスオフィス初登場ナンバーワンに輝いた。

スティーヴン・ソダーバーグ監督作「わが街 セントルイス」(1993/未)で特筆すべき演技を披露したブラッドフォードは、この演技でシカゴ批評家協会最優秀主演男優賞にノミネートを果たした。

そのほかの出演作には、イアン・ソフトリー監督作『サイバーネット』(1995/未)、バズ・ラーマン監督作『ロミオ&ジュリエット』(1996)、ジェームズ・アイヴォリー監督作『ジャンヌのパリ、そしてアメリカ』(1998)、ニコラス・ペリー監督作『スピードウェイ・ジャンキー』(1999/未)、マイケル・ラドフォード監督作『ブルー・イグアナの夜』(2000)などがある。一方、TV作品では、エミー賞受賞のドラマ「ザ・ホワイトハウス」(1999〜2006)にブラッドリー・ウィットフォードが演じるジョシュ・ライマン次席補佐官のもとで実習生として働くライアン・ピアース役でゲスト出演している。ニューヨークにあるコロンビア大学を卒業したブラッドフォードは、現在ロサンゼルス在住。



■アダム・ビーチ(アイラ・ヘイズ)

ピマ・インディアン出身の22歳の海兵隊員。通称チーフ。彼は、“6人の英雄”に名を連ねることを最後まで拒んでいた。結局、レイニーによって国旗掲揚者6人の名前が明かされ、“英雄”として祖国に戻ることになったアイラは、戦費調達ツアーへの参加を余儀なくされる。しかし、戦地で倒れた戦友たちをよそに自分が英雄扱いされることも、真実を隠したまま嘘がまかり通っていることも、彼には耐えられないことだった。次第にアルコールの力に頼るようになっていったアイラは、泥酔と失態を繰り返し、自滅の道を歩み始める ─ 。

「何千人もの国民が彼に歓声を浴びせている。でも、たった1週間前まで、彼は親しい戦友たちが死んでいくのを見ていたんだ。このギャップをどうやって埋められる?」アイラを演じるアダム・ビーチは、そう疑問を投げかける。アイラの役は、本当のノース・アメリカン・インディアンに演じてほしいというイーストウッド監督の切望によって起用されたビーチは、アイラを「よく描かれる“無表情なインディアン”とは違う」という。「さまざまな感情を持つ複雑な人物、それがアイラなんだ」

アダム・ビーチは、サンダンス映画祭で観客賞と映像作家トロフィー賞を受賞した『スモーク・シグナルズ』(1998)で演じたビクター・ジョセフ役で高い評価を受け、一躍有名になる。さらにはニコラス・ケイジ共演作『ウィンド・トーカーズ』(2002)では、第2次世界大戦中、ナバホ族の言葉を暗号として操った通信兵役を演じている。

最近では、『ブロークバック・マウンテン』(2005)でアカデミー賞脚色賞を受賞したダイアナ・オサナとラリー・マクマートリーが脚本を手がけるCBS製作の6時間ミニシリーズ、「Comanche Moon」(2006)でブルー・ダック役を演じ、バル・キルマー、スティーブ・ザーンらと共演している。また待機作としては、世界的名作小説「我が魂を聖地に埋めよ」を映像化したHBOのTV映画、「Bury My Heart at Wounded Knee」に主演しチャールズ・イーストマン役を演じている。ビーチはこの作品で、エイダン・クイン、イーストマンと結婚した若き宣教師役アンナ・パキンらと共演している。

数多くのメジャー作およびインディペンデント作に出演を続けるビーチの代表作には、ファースト・アメリカン・イン・ジ・アーツの映画部門最優秀男優賞を受賞した「My Indian Summer」(1995)、『A Boy Called Hate』(1995)、『ミステリー、アラスカ』(1999/未)、『スノー・ステーション』(2000)、『The Art of Woo』(2001)、デヴィッド・スペード共演作『The Adventures of Joe Dirt』(2001)、『Posers』(2002)、『Now and Forever』(2002)、『The Big Empty』(2003)、などがある。

さらにTVでは、「Spirit Rider」(1993)、「Skinwalkers」(2002)、「Johnny Tootall」(2005)をはじめとした数多くの作品に出演している。加えて、「ロンサム・ダブ」(1989)、「Touched By An Angel」(1994〜2003)、「テキサス・レンジャー」(1993)、「Madison」(1993〜1997)、「犯罪捜査官ネイビーファイルズ」(1995〜2005)、「サードウォッチ」(1999〜2005)、「Dead Man's Gun」(1997〜1999)、「デッドゾーン」(2002〜)、などの数エピソードに出演したほか、CBC製作「The Rez」(1996〜1997)ではチャーリー役を演じ、「ファースト・ウェイブ/最終予告1999」(1998〜2001)にゲスト出演を果たしている。

カナダのマニトバ州に生まれ、10代にウィニペグで演技をスタートしたビーチは、16歳でエキストラキャスティングディレクターに紹介されたことをきっかけに、「Lost in the Barrens」(1990)でグレアム・グリーンのカヌー仲間に抜擢される。その後の4年間はマニトバ州の小劇場で舞台に立っている。

1994年には「スクワント 伝説の勇者」(1994/未)の主役に抜擢され、マンディ・パティンキンと共演している。同じくカナダ出身のブルース・マクドナルドによって才能を見出され、W.P. キンセラ原作小説を映画化した「Dance Me Outside」(1995)でフランク・フェンスポスト役を演じている。同作はカナダとアメリカの両国で高い評価を受け、ビーチはアメリカン・インディアン・フェスティバルで最優秀男優賞に輝いた。ビーチの作品群は、どれも先住民としての自身のルーツに深く根ざしているところが多く、そのどれにも独特で多様性を備えた観点が見られる。伝統的なグラスダンスを介した精神的成長は、さらにビーチの作品の幅を広げている。オフの時間にはホッケーを楽しみ、若い世代の先住民のために積極的に活動を行っている。また、自らのバンドであるジーザス・マーフィーではギターと歌を担当している。



■バリー・ペッパー(マイク・ストランク)

若い兵士たちのまとめ役として人望を集める25歳の軍曹。星条旗を掲げた“6人の英雄”のひとり。

短期間で瞬く間にハリウッドで最も人気のある役者のひとりに躍り出たバリー・ペッパーは、アカデミー賞およびゴールデングローブ賞受賞作『プライベート・ライアン』(1998)で印象的な演技を披露し注目を浴びている。最近では、カンヌ映画祭のコンペティション部門で上映されたほか、昨年のAFI映画祭で特別上映されたトミー・リー・ジョーンズ監督作『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』(2005)に出演している。ペッパーは、同作で2006年度インディペンデント・スピリット賞の最優秀助演男優賞にノミネートを果たした。さらに、ESPN製作の伝記映画「The Dale Earnhardt Story」(2004)では製作総指揮兼出演を務めている。2001年のデイトナ500の最終ラップで衝突死したNASCARのスタードライバーを描いた同作で、ペッパーは、全米俳優組合賞TV映画&ミニシリーズ部門の主演男優賞にノミネートされた。2003年には、インディペンデント映画『The Snow Walker』でも製作総指揮兼出演を果たしている。胸に焼きつくような美しい北極を舞台に、愛と生還の苦悩を描いた叙事詩的映画の同作は、トロント、バンクーバー映画祭をはじめ世界各国の映画祭で上映されている。この映画はジニー賞にペッパー自身の主演男優賞ノミネートを含む9部門にノミネートされたほか、ブリティッシュ・コロムビア・フィルム・アンド・テレビジョンのレオ賞では、ペッパーの主演男優賞を含む6部門を受賞した。このほかの代表作には、『エネミー・オブ・アメリカ』(1998)、『グリーンマイル』(1999)、スパイク・リー監督作『25時』(2002)、メル・ギブソン主演作『ワンス・アンド・フォーエバー』、『ノックアラウンド・ガイズ』(共に2002)など多数ある。HBO製作の『61*』(2001/未)では、ゴールデングローブ賞、エミー賞、批評家協会賞にノミネートされた。

カナダの西海岸で育ったペッパーは、非常にユニークな成長過程を過ごした。5歳のとき、ペッパー一家は自宅の倉庫で父親が設計した50フィートのヨット“ムーンライト”号を進水させる。それから5年間、一家は“ムーンライト”号に乗り込み、南太平洋の島々を航海。昔の探検家たちのように六分儀と天測航法を用いて、フィジー、タヒチ、ハワイ、マルケサス諸島を航海した。旅の間、ペッパーは通信教育を通じて両親から教育を受け、可能な場合はラタゴニアやニュージーランドなどで公立学校に入学して学業に励んだ。その中で、笑いや踊り、そして音楽で自己表現するポリネシアの人々に出会ったことがペッパーの演技に対する愛情を刺激したのだった。テレビもなく、時には3週間もヨットの中で生活する日々を経験したおかげで、ペッパーの創造力やクリエイティブスキルが鋭く磨かれたといえる。

カナダに戻ったペッパー一家は、その後、本土とヴァンクーヴァー島の間にあるデンマン島という小島に移る。そこは、農民、ヒッピー、詩人、芸術家、音楽家といったさまざまな人々が集まっていた島だった。大学に入ってマーケティングとグラフィック・デザインを学びだしてから2年後、ヴァンクーヴァー・アクターズ・スタジオへの参加をきっかけに演技への情熱に再度目覚めたペッパーは、役者としての道を進むことを決意した。



■ジョン・ベンジャミン・ヒッキー(キース・ビーチ)

海軍のPR担当者。3人の兵士の戦費調達ツアーに同行。政府が“英雄”の人気を利用しようとするなか、兵士たちの苦悩をやわらげようと尽力する。

テレビの視聴者や映画ファンにはお馴染みの存在。最近では、「ロー&オーダー」(1990〜)のアダム・ソロモン役をはじめ、「NYPDブルー」(1993〜2005)「CSI:科学捜査班」(2000〜)、「エイリアス」(2001〜2006)などにゲスト出演している。さらに映画では、『ボーン・コレクター』(1999)、『将軍の娘 エリザベス・キャンベル』(1999)、『フライトプラン』(2005)などに出演。また『Infamous』(2006)では、トゥルーマン・カポーティを演じるトビー・ジョーンズとトジャック・ダンフィー役で共演している。2007年1月には、ヒラリー・スワンク共演作『Freedom Writers』が公開される。現在は、ヘレン・ハント監督・主演、ベット・ミドラーと共演する『Then She Found Me』(2007)の撮影に参加している。



■ジョン・スラッテリー(バド・ガーバー)

財務省のPR担当官。ドクたちを戦時公債ツアーに駆り出す。アイラから星条旗にまつわる真実を告げられるが、耳を貸さない。

映画、TV、舞台で高い評価を受けているジョン・スラッテリーは、最近ではシンシア・ニクソンと共にトニー賞ノミネートの舞台「Rabbit Hole」に出演した。また今秋には、イラクに駐留するアメリカ人たちのドラマを描いたフィリップ・ハース監督のインディペンデント作『The Situation』(2006)の公開が控えている。そのほかの映画出演作には、『スリーパーズ』(1996)、『訣別の時』(1996)、『トラフィック』(2000)、サンダンス映画祭で3部門を受賞した『The Station Agent』(2003)、『モナリザ・スマイル』(2003)などがある。最近では、ディズニー製作『Underdog』(2007)やトニー賞に輝いたリチャード・グリーンバーグ脚本の舞台を映画化した『The Extra Man』に出演したほか、現在は、マイク・ニコルズ監督作『Charlie Wilson's War』とテリー・ジョージ監督・脚本作『Reservation Road』の撮影に入っている。ジョン・スラッテリーは、ニューヨークに拠点を構えている。



■ポール・ウォーカー(ハンク・ハンセン)

ガダルカナルでも日本兵と戦った経験を持つ兵士。写真に写った“6人の英雄”のひとりとされるが……。アイラいわく「“もうひとつの星条旗”を掲げた兵士」。

スクリーンでの圧倒的な存在感と演技力で、過去数年間に大ヒット作に出演し主演俳優として頭角を現した。今回は、クリント・イーストウッド監督作品出演のチャンスに、すぐに出演を決意した。最近では、『Running Scared』(2006)や『南極物語』(2006)で批評家からも高い評価を受けている。その前には、ジョン・ストックウェル監督作『イントゥ・ザ・ブルー』に出演している。2003年、ジョン・シングルトン監督作『ワイルド・スピード×2』(2003)に主演。同作は、1億2700万ドルの興行成績をあげた。2001年には、同じくヒットを記録した『ワイルド・スピード』にも主演していたウォーカーは、前作に引き続き、ブライアン・オコナー役を演じ、警察バッチを剥奪されたのち、起死回生のためにマイアミのレースサーキットに潜入する囮捜査官役を好演した。このほかの出演作は、『カラー・オブ・ハート』(1998)、『シーズ・オール・ザット』、『バーシティ・ブルース』、『ブロークダウン・パレス』(いずれも1999)、『ザ・スカルズ 髑髏の誓い』(2000)、『ロードキラー』(2001)、『NOEL』(2004)などがある。現在、映画の撮影期間以外は、ロサンゼルスに在住している。



■ジェイミー・ベル(ラルフ・“イギー”・イグナトウスキー)

ドクの親友。通称イギ−。小柄な海兵隊員で、常にドクと行動を共にしていたが、ある夜の戦闘で、ドクは彼を見失う……。

スティーブン・ダルトリー監督作『リトル・ダンサー』(2000)で、英国アカデミー賞主演男優賞ならびに英国インディペンデント映画賞最優秀新人賞に輝き、一躍有名になる。その後も映画出演を続け、ダグラス・マクグラス監督作『ディケンズのニコラス・ニックルビー』(2002/未)のスマイク役でアンサンブルキャストのひとりとして出演を果たし、デヴィッド・ゴードン・グリーン監督作『アンダートウ 決死の逃亡』(2004/未)では主演を務め、ダーモット・マルロニー、ジョシュ・ルーカスらと共演した。2005年はベルにとって飛躍の年となった。主演を務めた『The Chumscrubber』では、レイフ・ファインズ、キャリー=アン・モスと共演。同作は、2005年のサンダンス映画祭で上映された後、2005年8月5日に公開された。これに続き、同じく2005年のサンダンス映画祭で上映されたトマス・ウィンターベア監督の『DEAR WENDY ディア・ウェンディ』でも主演を務めている。同作は2005年9月に公開されている。さらに2005年末には、ピーター・ジャクソン監督作『キング・コング』にアンサンブルキャストのひとりとして出演を果たした。次回作『Hallam Foe』(2007)でも主演を務める予定となっている。さらに現在は、ダグ・リーマン監督のSFアドベンチャー作『Jumper』(2007)の撮影に入っている。



■クリント・イーストウッド(監督/製作/音楽)

2005年、クリント・イーストウッドは、『ミリオンダラー・ベイビー』でアカデミー賞作品賞および、自身2度目となる監督賞を受賞した。さらに同作では、ヒラリー・スワンクが主演女優賞、モーガン・フリーマンが助演男優賞を受賞したほか、3部門(主演男優賞:クリント・イーストウッド、編集賞、脚色賞)にノミネートを果たした。2003年、イーストウッドが監督と製作を手がけて高い評価を受けた『ミスティック・リバー』はカンヌ映画祭に出品され、パルムドールおよびGolden Coach賞にノミネートされた。『ミスティック・リバー』は、アカデミー賞6部門(作品賞、監督賞、主演男優賞、助演男優賞、助演女優賞、脚本賞)にノミネートを果たし、2部門(主演男優賞、助演男優賞)を受賞した。1993年、クリント・イーストウッドの西部劇「許されざる者」(1992)はアカデミー賞9部門(作品賞、監督賞、主演男優賞、助演男優賞、脚本賞、撮影賞、美術賞、編集賞、音響賞)にノミネートされ、4部門受賞(作品賞、監督賞、助演男優賞、編集賞)に輝いた。さらに同年、イーストウッドは、映画芸術科学アカデミーから栄えあるアービング・G・タールバーグ記念賞を授与されている。

イーストウッドが初めてゴールデングローブ賞を受賞したのは1971年で、世界の好きな男性映画スターに贈られるヘンリエッタ・アワード賞を受賞した。1988年にハリウッド外国人記者協会セシル・B・デミル功労賞を受賞している。さらに、同年に発表した『バード』と1993年の『許されざる者』で、ゴールデングローブ賞監督賞に輝いている。2004年には『ミスティック・リバー』で同賞にノミネートされ、翌年『ミリオンダラー・ベイビー』では3度目のゴールデングローブ賞監督賞を受賞した。さらに同作は、ゴールデングローブ音楽賞にもノミネートされた。

イーストウッドは、サルバーグ記念賞やセシル・B・デミル功労賞に加えて、数多くの生涯功労賞を受賞している。その中には、全米製作者組合のゴールデンローレル生涯功労賞、全米脚本家組合賞、アメリカン・フィルム・インスティチュートとリンカーン・センター映画協会、フランス映画協会、ナショナル・ボード・オブ・レビュー、ヘンリー・マンシーニ・インスティテュート(アメリカンミュージックに対する際立った貢献者に授与されるハンク賞)、ハンブルク映画祭(ダグラス・サーク賞)などがある。さらにケネディ・センターの栄誉賞、ウェズリアン大学から芸術の名誉博士号を授与され、ピープルズチョイス賞の“Favorite Motion Picture Actor”を5度受賞し、1999年には“Favorite All-Time Movie Star”にノミネートされた。1991年にはハーバード大学演劇部主催のヘイスティ・プディング賞のマン・オブ・ザ・イヤーに輝き、翌年にはカリフォルニア州知事芸術賞を受賞している。

また、カンヌ映画祭とも縁が深く、1994年には審査員長を務めた。1990年には『ホワイトハンター ブラックハート』が、1988年には『バード』が、1985年には『ペイルライダー』がそれぞれ最高賞パルムドールにノミネートされた(『バード』は主演男優賞と音響賞を受賞)。


フィルモグラフィー

『硫黄島からの手紙』(2007)監督・製作
『父親たちの星条旗』(2006)監督・製作
『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)監督・製作・出演
『ミスティック・リバー』(2003)監督・製作
『ブラッド・ワーク』(2002)監督・製作・出演
『スペース・カウボーイ』(2000)監督・製作・出演
『トゥルー・クライム』(1999)監督・製作・出演
『真夜中のサバナ』(1997)監督・製作
『目撃』(1997)監督・製作・出演
『ヘンリエッタに振る星』(1995/未)製作
『マディソン郡の橋』(1995)監督・製作・出演
『パーフェクト・ワールド』(1993)監督・製作・出演
『ザ・シークレット・サービス』(1993)出演
『許されざる者』(1992)監督・製作・出演
『ルーキー』(1990)監督・出演
『ホワイトハンター ブラックハート』(1990)監督・製作・出演
『ピンク・キャデラック』(89)出演
『セロニアス・モンク/ストレート・ノー・チェイサー』(1988/未)製作総指揮
『バード』(1988)監督・製作
『ダーティハリー5』(1988)出演
『ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場』(1986)監督・製作・出演
『ペイルライダー』(1985)監督・製作・出演
『シティヒート』(1984)出演
『タイトロープ』(1984)製作・出演
『ダーティハリー4』(1983)監督・製作・出演
『センチメンタル・アドベンチャー』(1982)監督・製作・出演
『ファイヤーフォックス』(1982)監督・製作・出演
『ダーティファイター 燃えよ鉄拳』(1980)出演
『ブロンコ・ビリー』(1980)監督・出演
『アルカトラズからの脱出』(1979)出演
『ダーティファイター』(1978)出演
『ガントレット』監督・出演
『ダーティハリー3』出演
『アウトロー』(1976)監督・出演
『アイガー・サンクション』(1975)監督・出演
『サンダーボルト』(1974)出演
『ダーティハリー2』(1973)出演
『愛のそよ風』(1973/未)監督
『荒野のストレンジャー』(1973)監督・出演
『シノーラ』(1972)出演
『ダーティハリー』(1971)出演
『恐怖のメロディ』(1971)監督・出演


主演作品

『白い肌の異常な夜』(1971)
『戦略大作戦』(1970)
『真昼の死闘』(1970)
『ペンチャー・ワゴン』(1969)
『荒鷲の要塞』(1968)
『マンハッタン無宿』(1968)
『奴らを高く吊るせ!』(1968)
『華やかな魔女たち』(1966)
『続・夕陽のガンマン』(1966)
『夕陽のガンマン』(1965)
『荒野の用心棒』(1964)


ユニバーサル・ピクチャーズ契約時代の出演作

『Ambush at Cimarron Pass』(1958)
『Lafayette Escadrille』(1957)
『二人の可愛い逃亡者』(1957)
『Star in the Dust』(1956)
『最初の女セールスマン』(1956/未)
『The First Traveling Saleslady』(1956)
『全艦発進せよ』(1956)
『Never Say Goodbye』(1956)
『世紀の怪物/タランチュラの襲撃』(1955)
『Lady Godiva of Coventry』(1955)
『Francis in the Navy』(1955)
『半魚人の逆襲』(1955)


TV作品

「世にも不思議なアメージング・ストーリー」(1985)
※「亡き妻の肖像・・・魂が棲む画」エピソードの監督

「ローハイド」(1959〜1966)
「ミスター・エド」(1962)
「マーベリック」(1959)
「West Point」(1957)
「ハイウェイ・パトロール」(1956)



■ウィリアム・ブロイレス JR. (脚本)

最近では、アンソニー・スオフォードの原作を映画化した『ジャーヘッド』(2005)の脚本を執筆している。それ以前には、ワーナーブラザース製作、ロバート・ゼメキス監督、トム・ハンクスが製作/声の出演を果たしたヒットアニメ『ポーラー・エクスプレス』(2004)の脚本を担当した。1996年には『アポロ13』(1995)でアカデミー賞および全米脚本家組合賞にノミネートされたほか、2001年度のショウウエストコンヴェンションではスクリーンライター・オブ・ザ・イヤーに選出されている。

ブロイレスの手がけた脚色を手がけた脚本作には、エイドリアン・ライン監督作『運命の女』(2002)、ティム・バートン監督作『PLANET OF THE APES 猿の惑星』(2001)、TVのミニシリーズ「J.F.K.: Reckless Youth」(2003)がある。また、オリジナル脚本作にはロバート・ゼメキス、トム・ハンクスと初のコラボレート作となった『キャスト・アウェイ』(2000)、ショーン・コネリー、キャサリン・ゼタ・ジョーンズ主演作『エントラップメント』(1999)、クリエーターを務めたTVシリーズ「China Beach」(1988〜1991)などがある。

ライス大学を卒業したブロイレスは、有名な「テキサス・マンスリー」誌の創設編集者であり、「ニューズウィーク」誌の元編集者でもある。アメリカ海軍の戦闘機パイロットとしてベトナム戦争に従軍し、15年後に、ジャーナリストとしてベトナムを再訪した自身の体験を基にした「Brother in Arms」を執筆している。



■ポール・ハギス(脚本)

2006年3月5日、ポール・ハギスは『クラッシュ』(2004)と前年の『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)とアカデミー賞作品賞を受賞した作品の脚本を2年連続して執筆した史上初の脚本家となった。

ハギスが共同脚本、監督、製作を手がけた『クラッシュ』(2004)はアカデミー賞6部門にノミネートされ、作品賞と脚本賞を受賞した。その数週間前には、同作のキャスト陣が全米俳優組合賞の最優秀アンサンブル賞を受賞している。ほかにもハギスとボビー・モレスコは、全米脚本家組合賞、英国アカデミー賞、批評家協会賞それぞれの脚本賞を獲得。同作は、ゴールデングローブ賞ノミネート、ドーヴィル映画祭のグランプリにも輝いている。2005年3月に公開された『クラッシュ』は、同年度に公開されたインディペンデント映画の中でも、650万ドルの予算でアメリカ国内だけで5500万ドルを獲得した数少ない作品のひとつとなった。

ハギスの映画界でのキャリアは2000年にスタートした。数年間にわたってTV作品の脚本を手がけて成功を収めた後、短編の脚本権を得て、駄目元で『ミリオンダラー・ベイビー』の脚本を書き上げるが、それがプロダクションパートナーを通じてクリント・イーストウッドの手にわたり、同作の映画化が実現したのだった。『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)は、アメリカ国内で1億ドルの興行収入をあげアカデミー賞4部門を受賞している。

最近では、ガブリエル・ムッチーノ脚本のイタリア映画『L'Ultimo Bacio』(2001)を脚色した『The Last Kiss』(2006)の脚本を執筆している。

ハギスは本作の脚本に加えて、『硫黄島からの手紙』(2006)に原案として協力している。さらにハギスは、2006年11月に公開が予定されているボンド最新作『007/カジノ・ロワイヤル』(2006)の脚本も手がけている。

現在ハギスは、コロンビア・ピクチャーズ製作によるリチャード・クラークの原作小説「爆弾証言 全ての敵に向かって」の映画化『Against All Enemies』(2008)、ワーナーブラザース製作でジャーナリストのマーク・ボールの記事「Death and Dishonor」を基にした『The Garden of Elah』(2007)、ニューライン製作でバート・ベイカー原作の小説の映画化『Honey moon With Harry』(2008)、今秋放映されるNBC製作の新ドラマシリーズ「The Black Donnellys」(2006)など、数多くの作品の脚本に携わっている。

さまざまなTVドラマの脚本も手がけてきたハギスにとっても、お気に入りのドラマ作がCBSで製作された「EZ Street」(1996)だった。番組は短命で終わったものの、現在でも批評家たちの間のトップ10リストに名を連ねている。ニューヨークタイムズは、同作をTVシリーズの歴史において最も影響力のある作品のひとつとしてあげ、『「EZ Street」がなければ、「ザ・ソプラノズ」は存在しなっただろう』と評している。

2003年、Razor誌は“命令に背く非協調主義者、独自の発想に固執する因習打破主義者、順守を拒む急進主義者 ─ 我々はためらうが、こうして伝説となった人々”というテーマでリストをあげている。その中には、サム・シェパード、ジュリアン・シュナーベル、バズ・ラーマン、ランス・アームストロング、リチャード・ブランソン、ロバート・シャピロ、ジョン・アーヴィング、ビル・クリントンに並び、同誌は“今年の25人の専門家たち”のひとりにポール・ハギスを選出した。

ハギスの受賞歴は、2度のアカデミー賞を筆頭に、全米脚本家組合賞、英国アカデミー賞、2度のエミー賞、ヒューマニタス賞、テレビ・クリティクス・アソシエーション・プログラム・オブ・ザ・イヤー、ビューワーズ・フォー・クオリティ・テレビジョン賞のファウンダーズ賞、バンフ・テレビ賞、コロンビア・ミステリー・ライターズ賞、6度のジェミニ賞、2度のヒューストン・ワールドフェスト・ゴールド賞、プリズム賞がある。

さらには、EMA賞、ジェネシス賞、Ethel Levitt Memorial Award for Humanitarian Service、ハリウッド賞、ブレイクスルー監督賞を獲得したほか、『世界中の執筆家に名誉と尊厳をもたらした』として、全米脚本家組合のバレンタイン・デイヴィス賞を授与されている。

ハギスは、Artists for Piece and Justice、Board of Directors of The Hollywood Education and Literacy Project、 For the Arts?For Every Child、the Environmental Media Associationの共同創立者であり Earth Communications Office(ECO)の創立メンバーのひとりでもある。さらに、米国大統領野生動物保護委員会、Advisory Board of the Center for the Advancement of Non-Violenceのメンバーである。



■スティーブン・スピルバーグ(製作)

スティーブン・スピルバーグは、主要パートナーのひとりとして1994年10月、ジェフリー・カッツェンバーグ、デヴィッド・ゲフィンとドリームワークスSKGを設立。2006年初頭にパラマウント・ピクチャーズに売却している。3人の指導の下、ドリームワークスは批評的にも商業的にも成功を収め、アカデミー賞作品賞3年連続受賞を果たした『アメリカン・ビューティ』(1999)、『グラディエーター』(2000)、『ビューティフル・マインド』(2001)(『アメリカン〜』以外はユニバーサルと共同製作)を含めた名作を作り出している。

映画界で最も成功を収めている影響力のあるフィルムメーカーのひとりとして、スピルバーグは、『E.T.』(1982)、『ジュラシック・パーク』(1993)など歴代興行成績を記録した作品の監督、製作、製作総指揮を手がけている。数え切れないほどの受賞歴の中でも、アカデミー賞受賞は3度にもおよび、『シンドラーのリスト』(1993)で作品賞および監督賞、『プライベート・ライアン』(1998)で監督賞を受賞している。

第2次世界大戦を舞台で高い評価を受けた、トム・ハンクス主演、ドリームワークス/パラマウントの共同製作作品『プライベート・ライアン』は、1998年のアメリカ国内興行収入第1位を記録。同作はさらにアカデミー賞5部門(スピルバーグの監督賞を含む)、ゴールデングローブ賞2部門(ドラマ部門作品賞、監督賞)を受賞している。また全米監督組合賞、全米製作者組合賞のダリル・F・ザナック賞を受賞している。同年、全米製作者組合はさらに、スピルバークの映画界での功績を讃えるマイルストン賞を授与した。

『プライベート・ライアン』(1998)は、ニューヨーク、ロサンゼルス、シカゴ、トロント、イギリスの批評家協会賞の作品賞を受賞、英国アカデミー賞2部門受賞、放送映画批評家協会賞では作品賞以外に監督賞と作曲賞にも輝いた。

1994年、スピルバーグは国際的にも絶賛された『シンドラーのリスト』(1993)で、アカデミー賞監督賞、作品賞を受賞し、トータルで7度のアカデミー賞受賞を果たした。同作は主要の映画賞で軒並み作品賞を受賞し、スピルバーグ自身の2部門受賞をはじめ英国アカデミー賞7部門を制覇。ゴールデングローブ賞と2度目の全米監督協会賞受賞に輝いた。

1度目の全米監督協会賞受賞作となった作品は『カラーパープル』(1985)だった。『未知との遭遇』(1977)、『レイダース/失われたアーク≪聖櫃≫』(1981)、『E.T.』(1985)、『ミュンヘン』(2005)ではアカデミー賞作品賞にノミネートを果たしている。さらには、上記の作品に加えて『ジョーズ』(1975)、『太陽の帝国』(1987)、『アミスタッド』(1997)でも全米監督組合賞にノミネートされている。同賞では、映画監督史上最多となる10回目のノミネートを果たし、2000年には全米監督組合生涯功績賞を受賞している。さらに、アメリカン・フィルム・インスティテュートからも生涯功績賞を受賞し、映画芸術科学アカデミーからは誉れ高いアーヴィング・G・サルバーグ賞を授与された。

2005年、スピルバーグは『宇宙戦争』と『ミュンヘン』を監督。『SAYURI』の製作も手がけている。『宇宙戦争』はトム・クルーズが主演を務め、H.G.ウェルズ原作の未来小説を現代風にアレンジした1作。『ミュンヘン』は1972年にミュンヘンオリンピックに参加した11人のイスラエル代表選手の殺害事件のその後を描いた歴史スリラー作で、作品賞、監督賞をはじめアカデミー賞5部門にノミネートされた。同作はエリック・バナ、ダニエル・クレイグ、ジェフリー・ラッシュらが主演したユニバーサル/ドリームワークス共同製作作品。『SAYURI』はアーサー・ゴールデンのベストセラー小説をロブ・マーシャル監督が映画化し、アカデミー賞撮影賞、美術賞、衣装デザイン賞を受賞した。それ以外にも、最近ではトム・ハンクス、キャサリン・ゼタ=ジョーンズ主演作『ターミナル』(2004)、レオナルド・ディカプリオ、トム・ハンクス主演作『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』(2002)、監督、脚本、製作を務め、故スタンリー・キューブリック監督の企画を映画化した『A.I.』.(2001)を手がけている。2000年、スピルバーグはロサンゼルスにある英国アカデミー協会のスタンリー・キューブリック・ブリタニア賞に輝いた。

1946年12月8日、オハイオ州シンシナティに生まれたスピルバーグは、ニュージャージー州ハドンフィールドとアリゾナ州スコッツデールで育つ。10代でアマチュア映画の制作をはじめ、後にロングビーチのカリフォルニア州立大学で映画を学ぶ。そして1968年、22分の短編作品『Amblin』がアトランタ映画祭で上映されたことがきっかけとなり、ハリウッドの大手スタジオと最年少監督として長期契約を結ぶことになる。

その4年後、スピルバーグが監督を務めたTV映画『激突!』が話題となり、観客の注目を集める。その後、共同脚本も手がけた『続・激突!カージャック』で長編映画監督デビューを果たしている。このほかの監督作には、『レイダース/失われたアーク≪聖櫃≫』(1981)の続編となる『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』(1984)、『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』(1989)、『オールウェイズ』(1989)、『フック』(1991)などがある。

1984年、スピルバーグは自身の製作会社アンブリン・エンターテインメントを設立。同社のもとでスピルバーグは、『アメリカ物語』(1986)、『グレムリン』(1984)、『グーニーズ』(1985)、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズ、『ロジャー・ラビット』(1988)、『リトルフットの大冒険/謎の恐竜大陸』(1988)、『フリントストーン/モダン石器時代』(1994)、『キャスパー』(1995)、『ツイスター』(1996)、『マスク・オブ・ゾロ』(1998)、「メン・イン・ブラック」シリーズなど12作以上の作品の製作、製作総指揮を手がけ成功を収めている。さらに同社は、ワーナーブラザーステレビと共に「ER 緊急救命室」(1994〜)の製作も務めている。

スピルバーグはこのほかにも、HBOとドリームワークス・テレビジョンで、ミニシリーズ「バンド・オブ・ブラザース」(2001)を含めたTV作品の製作総指揮を手がけている。故スティーブン・アンブローズの同名原作を映画化、史実に基づくこの第2次世界大戦プロジェクトは、エミー賞とゴールデングローブ賞の最優秀ミニシリーズ賞を獲得した。2002年の製作総指揮を手がけた、ドリームワークス・テレビジョンとSciFiチャンネル製作の「TAKEN テイクン」(2002)も同じくエミー賞を受賞している。2005年、スピルバーグとドリームワークス・テレビジョンはTNTと組んで12時間のシリーズ作「Into the West」を製作総指揮している。これは、アメリカ人とネイティブアメリカ人の数世代にわたる家族のメンバーたちが、西部開拓の劇的なストーリーをそれぞれの観点から語る番組だった。2007年には、監督やフィルムメーカーを目指す人たちがドリームワークスでの企画契約を奪い合う「On the Lot」という台本なしのシリーズ作が待機している。さらにFOXで放送されるリアリティ番組で、スピルバーグとマーク・バーネットが製作総指揮を務めている。

さらにスピルバーグは、慈善活動にも惜しみなく時間を費やしている。『シンドラーのリスト』製作の衝撃を機に、スピルバーグは自身の映画から得る利益を使ってライチャス・パーソンズ基金を設立。加えてサバイバーズ・オブ・ザ・ショア・ヴィジュアル・ヒストリー・ファウンデーションを設立。同基金は5万2千人以上のホロコースト生存者の証言を記録してきた。スピルバーグは同基金のドキュメンタリー第3作目、『The Last Days』(1998)の製作総指揮を務めた。同作は1999年度アカデミー賞のドキュメンタリー賞を獲得した。2005年、同基金の集めた記録が南カリフォルニア大学に委譲された。そして新たに設立されたUSC・ショア・ファウンデーション・フォー・ヴィジュアル・ヒストリー・アンド・エジュケーションは、人文科学と社会科学の研究を行っている。加えて、スピルバーグは、小児医療施設、テクノロジー、病に苦しむ子供たちを勇気付けるためのエンターテインメントを兼ね備えた基金、スターライト・スターブライト・チルドレンズ・ファウンデーションの名誉会長を務めている。



■ロバート・ローレンツ(製作)

クリント・イーストウッドとは、ローレンツ自身がアカデミー賞にノミネートされた『ミスティック・リバー』(2003)を含めて、12年以上の間に10作以上でタッグを組んでいる。

最近では、クリント・イーストウッドのアカデミー賞ノミネート作『ミスティック・リバー』(2003)の製作とアカデミー賞作品賞に輝いた『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)の製作総指揮を務めている。現在は、本作に続きイーストウッドとスピルバーグと共に『硫黄島からの手紙』の製作を手がけている。

ローレンツはイーストウッドの製作会社、マルパソ・プロダクションズでプロダクション、ポスト・プロダクション、マーケティング、配給などあらゆる部門の管理を担当している。現在は、アリソン・イーストウッドが監督を手がける『Rails and Ties』の企画を手がけている。同作はワーナー・インディペンデント・ピクチャー製作で2007年初頭の撮影を予定しており、ローレンツは製作を務めている。

ローレンツはイーストウッドと共に、映画製作における魅力的な人間ドラマ、現実性といったアプローチを共有し、イーストウッド作品の成功に貢献。効率的で円滑といわれるマルパソ・プロダクションズの映画製作の評判に一役買っている。

シカゴ郊外で育ったローレンツは、その後ロサンゼルスに移り、1989年に映画界でのキャリアをスタート。助監督として20作以上の作品にクレジットされ、その手腕を買われて1994年からイーストウッド作品に参加している。さらに、1993年から全米監督組合、2005年から全米製作者組合のメンバーを務めている。現在は、『マディソン郡の橋』(1995)で知り合った妻メリッサと2人の子供と共にロサンゼルスに在住している。



■ティム・ムーア(共同製作)

本作と『硫黄島からの手紙』(2006)、アカデミー賞ノミネート作『ミスティック・リバー』(2003)、アカデミー賞受賞作『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)のクリント・イーストウッド監督最新作4作の実務製作を担当している。少ないテイク数、低予算、効率の良い撮影スケジュールといったイーストウッドの映画製作スタイルを実現するために卓越した手腕を発揮し、この分野では最も高い評価を受けている。

さらには、フランチャイズ・ピクチャーズ製作のスティーブ・ブシェミ監督・出演作『アニマル・ファクトリー』(2000/未)の製作や、エリー・サマハ製作『バウンティ・キッド』(1999/未)の共同製作を務めている。また、ドリームワークス/NBC製作で、アメリカ海兵隊を描いたアクションスリラー作『センパー・ファイ!海兵隊の誇りを胸に』(2001/未)のプロダクション・マネージャーやCBS製作レオナルド・ヒル製作総指揮作品「Stolen from the Heart」(2000)を手がけている。

ムーアは、カリフォルニア大学ロサンゼルス校でマネージメントを学んでいた当時に、ジョン・シェパードと出会い親交を深めた。その後、ふたりは『Eye of the Storm』(1992)、『The Ride』(1997)、『バーティカル・ハンガー』(2002/未)や昨年ESPYにノミネートされた『ボビー・ジョーンズ 〜球聖と呼ばれた男〜』(2004/未)といった映画賞に輝いたインディペンデント作品の製作を手がけている。

現在は、妻のボビーと2匹の犬と共にヘルモサビーチで暮らしている。ふたりは、アメリカ国内の飼い主のいないペットに引き取り先を斡旋するアマンダ基金に積極的に取り組んでいる。



■トム・スターン(撮影監督)

『ブラッド・ワーク』(2002)に続いて、アカデミー賞ノミネート作『ミスティック・リバー』(2003)、アカデミー賞受賞作『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)の撮影監督を務めている。マルパソ・プロダクションズで20年間以上チーフ照明技師を務めた後、クリント・イーストウッド自身によって撮影監督に昇格した。スターンの最近の撮影監督作品には、『ボビー・ジョーンズ 〜球聖と呼ばれた男〜』(2004/未)、ジョン・タトゥーロ監督作『Romance & Cigarettes』(2005)、『エミリー・ローズ』(2005)、『The Last Kiss』(2006)などがある。

イーストウッド作品でスターンがクレジットされているのは、『スペース・カウボーイ』(2000)、『パーフェクト・ワールド』(1993)、『許されざる者』(1992)、『ルーキー』(1990)(いずれもチーフ照明技師として)、『バード』(1988)(照明コンサルタント)、『ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場』(1986)、『ペイルライダー』(1985)、『タイトロープ』(1984)、『ダーティハリー4』(1983)、『センチメンタル・アドベンチャー』(1982)(いずれも照明係として)などがある。

さらにチーフ照明技師として、イーストウッド監督作品のほかにも、『訴訟』(1990)、『インパルス』(1990/未)、『デンジャラス・マインド 卒業の日まで』(1995)、『The Phantom』(1996/ロサンゼルス・ユニット)、『アメリカン・ビューティー』(1999)、『ロード・トゥ・パーディション』(2002)などを手がけている。

照明係を務めた作品に、『Harper Valley P. T. A.』(1978)、『ホワイト・ドッグ/魔犬』(1982)、『トム・クルーズ 栄光の彼方に』(1983/未)、『燃えてふたたび』(1985/未)、『スペースボール』(1987)がある。そしてセカンドユニット・カメラオペレーターを務めた作品に、『シカゴ・コネクション 夢みて走れ』(1986)がある。『Running Scared』(2006)では、セカンドユニット・オペレーターを担当している。



■ヘンリー・バムステッド(美術)

2度のアカデミー賞受賞に輝く美術監督(プロダクションデザイナー)である。『スティング』(1973)と『アラバマ物語』(1962)でアカデミー賞美術賞を獲得したほか、ハリウッドの歴史に残る作品を含む数々の作品の美術を手がけてきた。初期にアートディレクターを務めた作品には、『愛しのシバよ帰れ』(1952)、『トコリの橋』(1954)、『知りすぎていた男』(1956)、『めまい』(1958/アカデミー賞美術賞ノミネート)などがある。これらの作品は、バムステッドのその後の仕事のスタイルを確立した。

2度のアカデミー賞受賞のほかに、バムステッドが美術を手がけた作品には、『トパーズ』(1969)、『シノーラ』(1972)、『荒野のストレンジャー』(1972)、『スローターハウス5』(1972)、『華麗なるヒコーキ野郎』(1975)、『フロント・ページ』(1974)、『ヒッチコックのファミリー・プロット』(1976)、『スラップ・ショット』(1977)、『がちょうのおやじ』(1964)、『セイム・タイム、ネクスト・イヤー』(1978/未)、『リトル・ロマンス』(1979)、『ガープの世界』(1982)、『リトル・ドラマー・ガール』(1984)、『Knock on Wood』、『デスティニー 愛は果てしなく』(1988)、『ファニー・ファーム 勝手にユートピア』(1988/未)、『彼女のアリバイ』(1989/未)、『ゴースト・パパ』(1990)、『House Calls』、マーティン・スコセッシ監督『ケープ・フィアー』(1991)などがある。

イーストウッドのマルパソ・プロダクションズとの共同で、バムステッドが美術を手がけた作品には、『許されざる者』(1992/アカデミー賞美術賞ノミネート)、『パーフェクト・ワールド』(1993)、『ヘンリエッタに降る星』(1995/未)、『目撃』(1997)、『真夜中のサバナ』(1997)、『トゥルー・クライム』(1999)、『スペース・カウボーイ』(2000)、『ブラッド・ワーク』(2002)、『ミスティック・リバー』(2003)、『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)がある。

バムステッドは本作に続いて『硫黄島からの手紙』の美術も手がけている。



■ジョエル・コックス(編集)

30年以上にわたり、『ミリオンダラー・ホテル』(2004)、『ミスティック・リバー』(2003)、『ブラッド・ワーク』(2002)、『スペース・カウボーイ』(2000)、『トゥルー・クライム』(1999)、『真夜中のサバナ』(1997)、『目撃』(1997)、『マディソン郡の橋』(1995)、『パーフェクト・ワールド』(1993)、アカデミー賞編集賞受賞作『許されざる者』(1992)といったクリント・イーストウッド作品の編集を担当している。

コックスはキャリアの全期間にわたって、ワーナー・ブラザース・ピクチャーズ作品、特にイーストウッド作品に関わってきた。イーストウッドとのつながりは、コックスが『アウトロー』(1976)の編集助手を務めた1975年に始まった。それ以来、クリント・イーストウッドが主演、製作、監督のさまざまな組み合わせでかかわった作品20本の編集を手がけてきた。

コックスが師と仰ぐ著名な映画編集者フェリス・ウェブスターとの共同編集を手がけた作品には、『ダーティハリー3』(1976)、『ガントレット』(1977)、『ダーティファイター』(1978)、『アルカトラズからの脱出』(1979)、『ブロンコ・ビリー』(1980)、『センチメンタル・アドベンチャー』(1982)がある。

『ダーティハリー4』(1983)で1本立ちの映画編集者となり、それ以来ずっとそのタイトルを保って、『タイトロープ』(1984)、『ペイルライダー』(1985)、『ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場』(1986)、『バード』(1988)、『ダーティハリー5』(1988)、『ピンク・キャデラック』(1989)、『ホワイトハンター ブラックハート』(1990)、『ルーキー』(1990)の編集を手がけた。



■デボラ・ホッパー (衣装)

『タイトロープ』(1984)で女性キャストの衣装スーパーバイザーを担当して以来、クリント・イーストウッドとは20年以上の親交を温めている。その後も『ペイルライダー』(1985)、『ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場』(1986)、『ルーキー』(1990)の女性キャスト用衣装デザイナーを手がけている。その後は、衣装スーパーバイザーとして『目撃』、『真夜中のサバナ』(共に1997)、『トゥルー・クライム』(1999)を担当し、衣装デザイナーとしては本作に加えて、『ブラッド・ワーク』(2002)、『ミスティック・リバー』(2003)、『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)、『硫黄島からの手紙』(2006)など。

また1950年代を舞台にしたTV映画「Shakedown on the Sunset Strip」(1988)の衣装でエミー賞を受賞。衣装スーパーバイザーとして手がけたほかの作品に、『氷の微笑』(1992)、『チャーリー』(1992)、『ショーガール』(1995)、『狼たちの街』(1996)など。

地元シンシナティで、舞台、アイスショー、オペラの衣装デザインでキャリアをスタートさせた。その後、サンフランシスコへ写ったホッパーはサンフランシスコ・オペラに参加し、ビバリー・ヒルズ、ルチアーノ・パバロッティといった国際オペラスターやサンフランシスコ・バレエ団をはじめ、「Nutcracker」などの舞台の衣装を手がけるようになる。一旦故郷に戻ったあと、TVのミニシリーズ「遥かなる西部 わが町センテニアル」(1978〜1979)で、映画界に進出する。その後、程なくしてユニバーサルスタジオの衣装部門に参加し、TVを経て映画の衣装を担当するようになった。また、同輩のグレン・ライトからオープンポジションの情報を機にイーストウッド作品に参加するようになった。