【プロダクションノート】
◆映画『父親たちの星条旗』
クリント・イーストウッドがこのプロジェクトに惹かれたのは、ジェイムズ・ブラッドリーとロン・パワーズによるベストセラー「硫黄島の星条旗」を読んだためだった。「さまざまな物語が詰まっていて、とても興味深い本になっている」とクリント・イーストウッドは言う。「それにもちろん、AP通信のジョー・ローゼンタールが撮影した有名な写真……。あの写真には何か惹かれるところがあった。兵士たちが棒を掲げようとしているということ ─ 写真の6人はおそらくそれしか考えていなかっただろうが ─ 以外に、この写真の背景についてはほとんど知られていない。だが1945年に、あの写真は戦争支援の象徴となった。硫黄島の戦いという、太平洋戦争で最も熾烈な戦いを強調し、そのとき何が危機にさらされているのか、彼らが何のために戦っているのかをあの写真は象徴したんだ。そして、彼らに何が起こり、戦場から祖国へどのように連れ戻され、戦時公債ツアーに駆り出されたかを知ると、とても複雑な感情がわいてくる。特に、20歳前後だった彼らのことを考えるとね」
ジェイムズ・ブラッドリーとロン・パワーズによるベストセラーに基づき、『父親たちの星条旗』では“国旗掲揚者”のひとりの目を通して硫黄島の戦いが明らかにされ、有名なAP通信の写真で父親が果たした役割を知ろうとする息子の旅が語られる。そして、写真が撮影されてから60年以上経った今、彼の父の人物像だけでなく、彼が誰と戦い、何を悼んでいたのかも知ることになる。「私は決して本を書こうと思って調べ始めたのではない」とブラッドリーは言う。「硫黄島の星条旗」はバンタム・ブックスから2000年に出版され、ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラー・リストに46週載り、そのうち6週間は第1位だった。「なぜ父が沈黙を守ったのかを知りたかったんだ。本を書こうと決めたのは、誰もがあの写真を知っているのに、その裏の物語を誰も知らないことがわかったからだ」
やがてイーストウッドは、この本の映画化権をスティーブン・スピルバーグが獲得したことを知った。「スティーブンのドリームワークスが権利を獲得していた」とイーストウッドは思い返す。「私はこの素材が大変気に入ったことを彼に伝え、そのまま成り行きを見守ることにした。そして2年ほど前に、あるイベントで彼と偶然会ったとき、『あのプロジェクト、やったらどうです? あなたが監督して、私が製作すればいい』と彼が言った。それで私は、『わかった、やるよ』と答えたんだ」
第2次世界大戦を舞台にした名作『プライベート・ライアン』(1998)でアカデミー賞監督賞に輝いたスピルバーグは、イーストウッドのすばらしいキャリアと映画製作における信念を考えれば、この素材を彼にゆだねても何も心配することがないと思ったと言う。「クリントと初めて会って35年以上になるが、彼の作品の幅広さ、その内容の確かさ、そしてその優れた演出にはいつも感銘を受けている」とスピルバーグは言う。「彼の作品群はテーマも雰囲気も実にさまざまで、現代の映画界には彼と肩を並べられる者はいない。そして、彼がその作品に対して世界から喝采を浴び、愛され、誰もが彼に芸術性を認めるのを見るのは本当に喜ばしいことだ。彼自身は自分に芸術性があるなんて一度も主張しないけどね。もしかすると、どんなに喝采を浴びてもまったく変わらないクリントを見ていられること、それがいちばんすばらしいことかもしれない。つまり彼は、まったくおごりがないんだ。『より少ないことが最も好ましいこと』というのが彼の口癖なんだが、それは特に、彼が自分のエゴを貫かずに、信頼関係を重視していることに当てはまる。キャスティングにしろ、素材選びにしろ、撮影方法にしろ、キャストやスタッフに対する彼の信頼は、自分自身への、そして自分の直感に対する自信を反映しているんだ」
さて、これが次のプロジェクトに決まると、イーストウッドは硫黄島の戦いについてのリサーチに没頭した。さまざまな関連資料を読み、日米双方の元軍人からも話を聞いた。硫黄島の戦いは、今でも海兵隊史上、最も過酷な戦闘であり、単独の戦闘に与えられた数としては最多(27)の名誉勲章が授与されている。リサーチを進めていくうちに、イーストウッドは『父親たちの星条旗』と並行してもうひとつの映画の準備を始めることにした。日本側の視点で描いた『硫黄島からの手紙』である。「私が観て育った戦争映画のほとんどは、悪玉と善玉がはっきり分かれていた」とイーストウッドは言う。「だが、人生はそんなものではないし、戦争もそんなものではない。この2本の映画は勝ち負けを描いたものではない。あの戦争が人間に与えた影響と、本当ならもっと生きられたはずの命を若くして落とした人々を描いている」
◆星条旗の掲揚
AP通信のカメラマン、ジョー・ローゼンタールが撮ったこの有名な写真は、実は硫黄島での2回目の国旗掲揚の瞬間をとらえたものだ。1945年2月19日に硫黄島に上陸したあと、海兵隊の第5師団国旗掲揚者たちの所属師団 ─ は摺鉢山の占領を目指して進み始めた。5日目までに米軍は多くの死傷者を出したが、その攻撃によって、日本軍は徐々に島の洞窟に退却せざるを得なかった。そしてあの朝、必死に戦っている兵士たちへの激励の証として、山の頂上に国旗の掲揚が命じられた。そのとき、海軍長官はその旗を記念に欲しいと言い出した。しかし、その国旗は幹部将校であるチャンドラー・ジョンソン大佐(ロバート・パトリック)が部隊のために保管したいと思ったため、伝令係レイニー・ギャグノンに代わりに掲げる別の国旗を持って行かせた。
レイニーが頂上に登ると、そこには電話線を引く作業をしていた海兵隊のマイク・ストランク、ハーロン・ブロック、アイラ・ヘイズ、そしてフランクリン・スースリーがいた。国旗を掲げるポールに使うため、彼らはすぐに古い水道管を見つけたが、彼らだけでは支えきれず、海軍衛生下士官ジョン・“ドク”・ブラッドリーに手を貸してくれと頼んだのだった。
何が起こっているかに気づいたローゼンタールはカメラを置くと、よりよい場所から撮影できるように石を積み重ね始めた。そうしているうちに撮影のチャンスを逃しそうになったため、慌ててカメラを手に取り、シャッターを押した。そして400分の1秒後、歴史が作られたのだ。彼は現像のためにフィルムをグアムに送り、AP通信の写真編集者ジョン・ボドキンはその写真を見ると直ちにそれをニューヨークに無線で伝送した。そして、ローゼンタールが撮った17時間半後、その写真はAPから配信された。
写真に写った6人のうち、3人はその後の戦闘で命を落としたが、3人 ─ 海兵隊のレイニーとアイラ、そして海軍衛生下士官のドクはアメリカへ送り返された。そして、戦争公債で戦費調達をするために彼らは政府に利用され、資金集めの担い手として、第7次戦時公債ツアーで祖国のために尽くすことを強いられる。
『ゴスフォード・パーク』(2001)、『クラッシュ』(2005)のライアン・フィリップが演じるドクは、海軍衛生下士官として負傷した兵士たちの応急手当をする。「ドクは複雑な男ではない」とフィリップが説明する。「彼は正直で、素朴で、率直なんだ。彼のような男だと、とても自由に演じられる。彼はウソをつかないし、自分以外の何者かであろうとしないからね。彼はすごい人物だよ。できる限りありのままの彼を表現しなければ、と思うと、大きな責任を感じた」
役作りのために、フィリップはドクの息子であり、原作の著者でもあるジェイムズ・ブラッドリーと話し合った。「息子さんを前にして、『僕はあなたのお父さんを演じるんです』と自己紹介するのはなんだか妙な感じだったけど、彼はとても熱心に話をしてくれて、僕を適任だと思ってくれた」
この役柄に対する思い入れはさておき、フィリップにとって最大の難関は、衛生下士官としてのドクの任務である医療行為を正確に演じることだった。「止血帯や圧迫包帯、三角巾などの使い方を教わった」と彼は思い返す。硫黄島の激戦のなかで、多くの兵士が最期に見たのがドクの顔なのだ。ドクが可愛がった若い兵士、イギー(ジェイミー・ベル)もそのひとりで、ドクは硫黄島から遠く離れても彼の最期が頭から離れない。
「僕の家族は軍と長い付き合いがあるんだ」とフィリップは言う。「父はベトナム戦争中に海軍にいたし、叔父たちも従軍していた。祖父はふたりとも第2次世界大戦に出征している。だから、兵士たちに敬意を払えるのはとても大きな名誉であり、責任も感じるよ」
運命なのか、あるいは単なる偶然か、ドクが配属されたのは新しく作られた少人数の部隊で、そこにはのちに生き残ることになるほかの2人の国旗掲揚者たちもいた。そのひとり、レイニーを演じるのは『チアーズ!』(2000)のジェシー・ブラッドフォード。寡黙なドクに対してレイニーはおしゃべりで、内向的なドクに対してレイニーは社交的。そんな彼は、戦時公債ツアーについてきた名声を享受するが、やがてそのために払う犠牲を深く理解するようになる。「すべてが起こったとき、レイニーは19歳だった」とブラッドフォード。「彼はまだママが恋しくて、戦争に行く覚悟はできていなかったのかもしれない。その反面、自分をよく見せたい男の子でもあったんだ。やれと言われたことは何でもやった」
「彼らはどこへ行っても盛大に歓迎される。パーティが開かれ、人々の注目の的となるんだ」とイーストウッドは説明する。「若い3人にとっては、程度の差はあれ戸惑うことばかりだ。硫黄島でつらい体験をしてきたとはいえ、もっとつらい目に遭っている兵士たちがいることを知っているからね」
ほかのふたりが仕方なく英雄を演じているのとは対照的に、レイニーは厚かましい男に見えるかもしれないが、彼の心情はほかのふたりと同じように複雑だったとブラッドフォードは考える。「僕はレイニーがどんな人物だったか、彼の息子さんといろいろ話した。彼は当時19歳で、正しいことをやろうという気持ちでいっぱいだったんだ。過ちを犯しがちな人間だったかもしれないけど、彼なりのやり方で英雄でもあったんだよ。彼は戦争支援のために自分たちがやっていることは絶対に必要なんだと思っていた。僕は彼を肯定的に表現したかったんだ」
3人の国旗掲揚者たちがタイムズ・スクエアの壇上に導かれると、そこにはものすごい数の人々が集まっていた。そこでレイニーは群集に向かって訴える。本当の英雄は自分たちではなく、硫黄島で眠っている戦友たちだと。「恐ろしく大きな期待をかけられる有名人になることで、彼らが受けたプレッシャーはとてつもなく大きく、それを克服するにはものすごい努力が必要だった。そして、3人のなかにはそれができなかった者もいたんだ」とイーストウッドは言う。
3人目の国旗掲揚者は複雑で胸の内を見せないアイラ・ヘイズ。彼は有名人扱いされることになかなか慣れることができず、いわゆる“通常の生活”に戻ったあとに酒に逃げてしまう。アイラ役にイーストウッドが起用したのは、『スモーク・シグナルズ』(1998)、『ウインドトーカーズ』(2002)などに出演したアダム・ビーチで、彼はアイラの心情をすぐに理解し、力強い演技を見せている。「アダムはアイラの本質をしっかりつかんだと思う」とイーストウッドは褒める。
「アイラは多くの点で昔ながらの戦争の英雄なんだ」とビーチは言う。「彼は南太平洋でおこなわれた最も凄惨な戦いのうち3つに参加し、そのすべてを生き抜いた。帰国後も彼が望んだのは再び戦場に戻り、仲間と共に助け合って戦うことだけ。彼の戦友たちが恐怖の中で戦っているときに、自分だけが安全でいることに彼は耐えられない。彼はその状態とどう折り合いをつければいいかわからないんだ」
ビーチはアイラを理解するうえで、自分を喝采する何千人もの群集の前に立つのはどんな感じか想像してみた。「しかも、たった1週間前まで彼は親しい戦友たちが死んでいくのを見ていたんだ」とビーチは説明する。「このギャップをどうやって埋められる? 僕にはできなかったと思う。でも、彼にはしなければならない仕事があった。彼はそれが自分のすべきことであるならば、全力を尽くそうとしたんだと思う。そして実際、彼らはほかのどのツアーよりも多くの資金を集めたんだ」
この映画では、生還できなかった3人の国旗掲揚者たち、マイク・ストランク、ハーロン・ブロック、そしてフランクリン・スースリーの運命についても描いている。軍曹で隊のリーダーでもあるマイクを演じたのは、『プライベート・ライアン』(1998)、『グリーンマイル』(1999)のバリー・ペッパー。「マイクは、体を張ってほかの兵士たちを奮起させるタイプの男なんだ」とペッパーは言う。マイクがどんな人物だったかを調べた彼は、誰からもこの軍曹に対する賛辞を聞いた。「彼と共に従軍した誰もが彼をすばらしいリーダーだったと褒めるんだ。自ら模範を示すいい奴だったと」「硫黄島で戦ったとき、マイクは25歳で、彼の隊の兵士たちは18歳とか19歳だったんだ」とフィリップは言う。「彼らに比べたら、マイクは戦闘に鍛えられた古参兵だった。面白いことに、バリーがマイク役をすることになったとき、彼はマイクと同じような役割を僕たちに対しても果たすようになったんだ。彼は『プライベート・ライアン』や『ワンス・アンド・フォーエバー』といった戦争映画に出演した経験があるから、僕らのリーダーになり、いろいろアドバイスしてくれたよ」
兵士としての身のこなしを習得するために、主要キャストは戦争映画でよくある俳優用の基礎訓練キャンプに送り込まれる代わりに、4人の軍事アドバイザーたちからみっちりと軍事的指導を受けた。「基礎訓練キャンプをしなかったのは、クリントの考えによるところが大きかったと思う」とバリー・ペッパーは言う。「彼は戦闘シーンで、戦場に送り込まれ、混沌の中に放り込まれた若い兵士たちの姿を生々しく描きたかったんだよ。そんな状況では感情が自然に沸き起こるからね」。あの写真についての当初の報道では、ハーロン・ブロック1等兵は別の海兵隊員(本作ではポール・ウォーカーが演じるハンク・ハンセン)と間違えられていた。ハーロンを演じたベン・ウォーカーはこう語る。「ハーロンは高校のフットボール・チームでランニング・バックだったから、兵役につく前からいい体をしていたんだ」
撮影開始に先立ち、ウォーカーは集中してトレーニングを行い、ハーロンの鍛え抜かれた肉体を作ったのだが、それはあとで役立った。「夜間撮影も2〜3回あったし、気温は氷点下までぐんと落ちた。そのうえ、僕らはビーチで痛いぐらいの風に吹きさらされていたからね」とウォーカー。「できるだけ速く走り抜けようとしたけど、ほとんど前に進まなかった。肉体的にはほんとにつらかったけど、すばらしい体験だったよ」
そして国旗掲揚者の最後のひとり、フランクリン・スースリーを演じたジョゼフ・クロスは、「フランクリンは楽しいことが大好きな、楽天的な男だった」と言う。「たぶん、ほかの兵士たちよりちょっと青くさかったかもしれないね。彼は同じ部隊の仲間をいろんな形で楽しませた。彼らはフランクリンをからかったりもしたけど、それはいつも愛情がこもっていた。ある意味で、彼はみんなの弟分的な存在だったんだ」
クロスはイーストウッドと一緒に仕事をしたことについて、ほかのキャストと同じ感銘を受けた。「僕の人生でいちばんすばらしい経験のひとつになった。彼は、俳優たちがまず何ができるかを見たがる。そして、温かく穏やかに、僕たちに自分なりの解釈で演じさせてくれたんだ。だからこそ、僕たちは彼の考え方を信頼できたし、彼のために最高の演技をしたいと思った」
「当時のアメリカは、世界大恐慌から抜け出して間もなく、やせっぽちの子供たちばかりだったし、アメリカ人の多くにとっても決して楽な時期ではなかった」とイーストウッドは説明する。「彼らの多くは海兵隊に入隊したり、陸軍に徴兵されたりしたんだが、彼らには共通する精神があった。自分たちがやっていることを信じることだ。彼らは信じ、やり抜いた」
キャスティングにあたってイーストウッドが大いに頼りにしたのは、フィリス・ホフマンである。キャスティング・ディレクターの彼女は獅子奮迅の働きをし、本作が編集段階にあるときに亡くなった。「フィリスはクリントのまさに腹心の友だった」と、ベテラン・プロデューサーのロバート・ローレンツは言う。「この映画でセリフがある役は100以上あるんだが、彼女はキャスティングに全精力を傾けていた。彼女はニューヨーク、ロサンゼルス、そのほかあらゆる場所で文字どおり何百人もの俳優をオーディションしたんだ」
そしてすばらしいアンサンブル・キャストが硫黄島に足跡を残した実在の人々を演じることになった。タフで気性の激しいセべランス大尉をニール・マクノドウ、帰国した国旗掲揚者たちが数限りなく参加したイベントに同行した海軍の広報担当官キース・ビーチをジョン・ベンジャミン・ヒッキーが演じた。キース・ビーチは最初は機械的に3人の行動を管理していただけだったが、やがて彼らの苦悩を理解し、同情するようになる。さらに、ペネル中尉にはトム・ベリカ、バド・ガーバー役にジョン・スラッテリー、ウォルター・ガスト役にスターク・サンズが起用された。
硫黄島で命を落とした国旗掲揚者たちの母親役には、ハンク・ハンセンの母マデリン・イベリーをマイラ・ターリー、マイク・ストランクの母をアン・ダウド、フランクリン・スースリーの母をコニー・レイが演じた。最初、写真に写っているのはほかの兵士だと公式に知らされても、それは息子だと信じて疑わなかったハーロンの母をジュディス・アイビーが演じ、彼女の夫エドをクリストファー・カリーが演じている。レイニーの母をべス・グラント、婚約者のポーリーンをメラニー・リンスキーがそれぞれ演じている。また、トルーマン大統領役はデイビッド・パトリック・ケリー、ブーツ・トーマス軍曹役はブライアン・キメット、ベル中尉役はマット・ハフマン。
◆フィルムメイキングの仲間たち
『父親たちの星条旗』に生命を吹き込むため、クリント・イーストウッドは、信頼するベテランの仲間たちを集めた。プロデューサーのロバート・ローレンツはイーストウッドの最近の5作で、製作準備から、製作、編集、宣伝、配給まであらゆる側面を指揮している。そして、イーストウッドとは『スペース・カウボーイ』(2000)で初めて組んだマイケル・オーウェンズが、視覚効果監修とセカンド・ユニット監督として製作チームの中心的な役割を果たした。ほかの主要メンバーは、撮影のトム・スターン(イーストウッド作品では、5本で撮影を、数多くの作品で照明主任などを担当)、衣装デザインのデボラ・ホッパー(イーストウッド作品では、5本で衣装デザイン、9本で別の役割を果たした)、編集のジョエル・コックス(イーストウッド作品20本に参加)、そして美術の故ヘンリー・バムステッド(イーストウッド作品11本を担当)などである。イーストウッドは大切な仕事仲間というだけでなく、友情の証として、本作をキャスティング・ディレクターのフィリス・ホフマンとバムステッドに捧げている。
バムステッドは93歳で亡くなる前にこう語っていた。「真っ白な紙を手に腰を下ろし、セットをデザインし、それが作られるのを見るのが今でも楽しい。私の人生すべてがそうだからね。その作業を大いに楽しませてもらってるよ」
バムステッドは亡くなる前に、硫黄島二部作のもうひとつ、『硫黄島からの手紙』のセットのデザインを完成させた。「クリントについてはいくら話しても話し足りないよ」とバムステッドは語った。「彼がセットにカメラを置く様子を見ただけで、うまくやれる気になる。私は彼がどう演出するのが好きか、カメラワークをどうしたいかを知っているから、それに合わせてセットをデザインし、彼は望んだ場所にカメラを置く。私は彼をアメリカで最高の監督だと思っているよ」
そしてトム・スターンは、2002年に撮影監督となる前にも、1982年の『センチメンタル・アドベンチャー』以来、20年以上も照明主任などでイーストウッドの作品にかかわってきた。イーストウッドと長く組んできたことはスターンにとって非常に有益だったようだ。「クリントは、私が知っている誰よりも言語に頼らずに明確に意思を伝える人物なんだ。私には彼の考えていることがかなりはっきりわかる。撮影については、私がまず、あるイメージや自分で選んだ写真付きの本を彼に見せ、それらについてふたりで話し合う。大部分については、クリントは細かく決めてしまわずに、できるだけギリギリまで融通が利くようにしておくんだ。彼がそうであるように、彼は誰に対しても柔軟であること、自然に浮かぶアイデアを大事にしろと言っている」
この『父親たちの星条旗』では、そのスケールの大きさにもかかわらず、イーストウッドは人間を描くことと、ストーリーへの心情的な核心からは決して離れなかったとスターンは語る。「描かれているキャンバスはとても大きいけれど、これはとても個人的なストーリーなんだ。それを映像的に表現する機会がたくさんあった」。
硫黄島の戦闘シーンでは、兵士たちの脳裏に焼きついてはなれない記憶がくっきりと描き出され、アメリカに帰ってからのツアーや人生は、もっと自然のままに描かれている。「この映画では感情面を映像で出そうとしている」とスターンは説明する。「それは、『ミスティック・リバー』と『ミリオンダラー・ベイビー』でもクリントと私が試みたことで、どちらもうまくいった。登場人物たちの心の中で起こっていることを映像で反映させるために、色彩を加減し、ときにはとてもとても深い色、さらには真っ黒など、いろいろ使っている」。
デボラ・ホッパーは、エキストラ用の500着以上の軍服を作ることを含め、あの時代に合わせた衣装のデザインを担当した。綾織りという、なかなか手に入らない布地を見つけると、ホッパーはそれを染色し、わざと古びた感じにし、衣装を作っていった。「俳優は自分が演じるのがどんな人物なのかを実感しなければならず、多くの場合、それは衣装を身に着けるところから始まるものなの」と彼女は言う。「ドクは保守的な人だったから、彼の私服はブルックス・ブラザーズを着せたわ。レイニーはある意味、登場人物の中では“映画スター”的存在なので、いつもこぎれいにしていることを洋服にも反映させた。アイラの場合は、その苦悩に満ちた人生に合わせて服も古びていたり、汚かったり、ミスマッチだったりさせたの」。
本作で軍事アドバイザーを務めたジェイムズ・ディバー上級曹長は、スクリーンに映し出されるすべてが時代考証的に間違いないよう、衣装、小道具、そして特殊効果の各チームと協力して当時のことをリサーチした。
イーストウッドのすべての作品と同じく、今回も音楽は非常に重要な要素だ。本作でイーストウッドは自ら作曲し、アービン・バーリン、サミー・カーン、ジュール・スタイン、ジョン・フィリップス・スーザのような音楽家による当時のノスタルジックなスタンダードをそれに融合させた。サウンドトラックでは、ダイナ・ショア、アーティー・ショウ・アンド・ヒズ・グラマシー・ファイブによるオリジナル曲も楽しめる。
また、サウンドトラックに特別なアレンジを提供したのは監督の息子、カイル・イーストウッドと彼の曲作りのパートナーであるマイケル・スティーブンス。さらに、イーストウッド監督との付き合いは『ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場』(1986)、『バード』(1988)までにさかのぼるレニー・ニーハウスが、オーケストラ用の編曲と指揮を担当している。
◆日本とアイスランド:硫黄島の再現
本作の製作準備の初期段階で、クリント・イーストウッドは硫黄島を訪れた。「2000年4月に日本政府が硫黄島の訪問を許してくれたんだ」と彼は説明する。「あの戦争で、日米両国のとても多くの若者たちが命を落とした場所である硫黄島を実際に歩くと、胸が熱くなった」。
大規模な撮影チームが撮影地に与える衝撃の大きさを知っているイーストウッドは、長期にわたる激しい戦闘シーンの撮影を行うことで、そういう歴史を持つ硫黄島に打撃を与えたくなかった。それでも、彼は硫黄島でいくつかの映像を撮影した。その砂浜に刻み込まれた歴史という店で、この島自体がストーリーの重要な役割を果たすからだ。「あの砂浜に座っているとかなり感傷的になった」とイーストウッドは言う。「硫黄島には日本の自衛隊の小隊が駐屯しているほかは誰も住んでおらず、ほかには米空軍がたまに訪れて活動するだけだ。あの砂浜に座っていると、島に侵攻してくる部隊と激戦の音が今にも聞こえてきそうだった」。
地質学的に、そして地形的に硫黄島の代わりとなる場所は世界でごく限られているが、激しい侵攻シーンを撮影するために、フィルムメイカーたちはそのひとつを見つけた。アイスランドのレイキャビク南西にある火山性の半島、レイキャネスだ。
「硫黄島の砂浜を再現するのはとても難しい。あんな場所を見つけるのは至難の業なんだ」とイーストウッドは言う。「アイスランドは硫黄島とよく似ていて地熱のある火山島で、しょっちゅう小さな地震がある。真っ黒な砂も硫黄島と同じ。どちらも地面から火山性の蒸気が出ている。もちろん、位置的にはまったく違うが、8月のアイスランドは少し涼しく、条件が2月の硫黄島とよく似ているんだ」。
そして、700人余りからなるキャストとスタッフが戦闘シーンの準備と撮影のため、レイキャネスに入った。「アイスランドの地形はまるで月にいるみたいだった」と、ドク役のライアン・フィリップは思い起こす。「あそこでの撮影は大変だったよ。だって、すごく遠いし、世界から取り残されたような気分になった。でも、その結果、ハリウッドで撮影していたら決してありえなかったような感じでキャストの絆が強まったんだ」。
アイスランドのサンドビーク・ビーチを硫黄島の砂浜に似せるため、製作チームはかなりの量の砂を移動させた。アイスランドの砂を大量に移し、侵攻してくる軍に対する防御壁となる土手を作ったのだ。「150万立方ヤード以上の黒砂をアイスランドに持ち込み、硫黄島の日本軍が防御に使った土手を再現した」と、やはりイーストウッド組の常連であるアート・ディレクター、ジャック・テイラーJRは言う。「およそ230メートルにわたり、4.2メートルから4.5メートルの高さに砂を積み上げ、硫黄島に上陸してくる海兵隊員の行く手をはばむ土手を作った。実際のものととてもよく似ているよ」。
侵攻シーン自体も非常に重要なため、各部署がお互いに調整をとりながら撮影準備を進めた。この一連のシーンにおいて、最大限のリアリズムを実現するために、彼らは努力を惜しまなかった。そこで鍵を握ったのが、視覚効果監修のマイケル・オーウェンズ。彼は、主要な部署と親密に連絡を取り合い、中心的なキャラクターから大規模な侵攻そのものを見せていく視覚効果を作り出した。「実際の硫黄島侵攻シーンは、ほとんど想像できないほど大規模なもので、数多くの細かな要素が盛り込まれている」とプロデューサーのロバート・ローレンツは言う。「地上で迫撃砲がひっきりなしに撃たれるだけでなく、空には爆撃機、海上には戦艦、そして膨大な数の兵士たちがいた。とてつもない数の細かい映像を、オーウェンズは実際に撮影された映像に見事に融合させたんだ」。
「これは人間を描いた映画だが、彼らの人生における決定的な瞬間を生々しくとらえた映像なしには彼らの物語は完成しない」とオーウェンズは言う。「侵攻シーンは圧倒的な迫力なので、視覚効果を活用してそれを伝えることが、クリントにとって重要だったんだ」。
特殊効果監修のスティーブン・ライリーは、侵攻現場のさまざまな要素と必要な火薬を手配し、調整した。ライリーは黒砂を利用して、ほかの方法よりもずっとリアルな爆発を作り出すことができた。「クリントは、ガソリンを使って、空中に黒い煙が漂うという標準的な爆発を使いたくなかったんだ」と彼は言う。「彼は、ミサイルが地面に命中したときに地面がどう爆発するかをリアルにとらえたかった。安全面を確保するために何度もテストを繰り返し、時間を費やしたが、上手くいったと思うよ」。
イーストウッドは、特殊効果チームがいつ、どこで爆発を起こすかを俳優たちに知らせないことが多かった。もちろん、危険なことは何もなかったが、彼らは爆発が起こるたびに驚いた。「しょっちゅう、不意をつかれたよ」とフィリップ。「突然、すぐそばで何かが爆発すれば、そりゃあリアルな反応をするよね」。
「とにかくすべてがユニークな体験だった」とフィリップは続ける。「ビーチで左を見ると、500人ぐらいが銃撃してたりする。心臓はバクバクしたし、アドレナリンはあふれ出てきたし、感情が高ぶってきた。あの状況に影響されない人なんていないよ」。
軍事アドバイザーを務めたジェイムズ・デリバー上級曹長は、主要キャストへの指導に加え、硫黄島侵攻のシーンに登場する海兵隊員500人のエキストラの訓練も担当した。そして、彼らが砂浜になだれ込んでいく中、ディバー自身も侵攻シーンの真っ只中に入り込んでしまった。「私たちが装備のかつぎ方や武器の撃ち方を訓練した500人の男たちが、いたるところで爆発が起こっている中を前進していったんだ。もちろん、誰もケガをしないように万全の対策が採られたし、予定どおりにすべてが進んでいった。すばらしかったよ」と彼は思い返す。
本作で海兵隊のコーディネーターを務めたジミー・オコネルは、複数の製造後60年のLVT(水陸両用装軌車) ─ 海から直接海岸へ上陸できるように設計された戦車型の車輌 ─ や、数台の製造後40年のLCVP(揚陸艇:別名“ヒギンズ・ボート”) ─ 海兵隊員をビーチへ送り届けるための揚陸艇 ─ を手に入れた。
米軍が日本へ向かって海を移動していくシーンでは、ロングビーチに停泊している、今でも操作可能な第2次世界大戦時の貨物船S・S・レーン・ビクトリー号を利用した。美術を担当したのはヘンリー・バムステッドのチームである。「船のすべてを第2次世界大戦当時に戻さなければならなかった」とイーストウッドは説明する。「美術チームはとても興奮してたよ」。
「本物の戦艦の上で演じられるなんて夢みたいだった」とハーロン・ブロック役のベンジャミン・ウォーカーは言う。「アメリカを守る任務に就いたことのある船だったし、そこで仕事ができたのは光栄だった。本物の船で本物の水兵に囲まれて、あとは演じるだけなんて最高だよ」。
撮影中、スタッフ、キャストの感情が高揚することが何度かあったが、当然のことながら、国旗掲揚を再現した日もそうだった。誰もがそれを間違いなく ─ つまり、あの有名な写真のとおりに ─ やり遂げたいと強く思っていた。「僕たちが国旗を掲げたとき、その場の全員の感情がどっとあふれるのがはっきりと感じられたんだ。何か特別なことが起こっているという感じで」と、マスク・ストランク役のバリー・ペッパーは思い起こす。「やり終えたとき、僕たちは皆、握手をしてお互いを称え合った。彼らを演じ、彼らのストーリーを伝え、硫黄島での海兵隊のストーリーを伝えることは、僕たち全員にとって意義深いものだったよ」。
「あのとき、クリントは珍しく2テイク以上撮ることを決めた。そんなシーンはごくわずかななんだ」とウォーカーは言う。「4〜5回撮ったかな。きちんと写真どおりにできるようにね。僕たち6人は、その前夜にリハーサルをしたんだ。映像を撮り、それをスローで見直してはリハーサルをし、できるだけ本物に近づけた」。
ディバー上級曹長もこう付け加える。「あの日の海兵隊員を俳優たちが演じる様子はほんとうにすばらしかった」。
『父親たちの星条旗』は、カリフォルニア州ロサンゼルス、バージニア州アーリントン、イリノイ州シカゴ、テキサス州ヒューストン、アイスランドのビーチ数ヶ所、そして硫黄島で、61日間にわたり撮影された。
◆硫黄島の戦い
連合国軍は、硫黄島の戦いを太平洋戦争における日本攻略への必要なステップだと考えていた。当時、連合国軍は毎日マリアナ諸島から日本へ出撃していたのだが、その経路にある日本の領土である硫黄島は、連合国の襲撃を日本本土へいち早く無線で知らせる警告基地としての役割を果たしていた。そのため、連合国軍の爆撃機が日本へ着いたときには、対空防御態勢ができており、基地に戻ろうとしている故障した米軍機は硫黄島周辺の空域にいた日本軍パイロットにとっては格好のターゲットとなった。硫黄島には航空基地としての役割もあり、そこから飛び立つ爆撃機は毎晩のようにサイパンの飛行機に爆撃を加えた。従って、日本への空爆を続行するためには、硫黄島の武力を排除する必要があった。連合国軍は、戦略的な攻撃目標としてはもともと別の複数の地点 ─ 特に沖縄 ─ を考えていたのだが、それらの目標に侵攻できるまでにはまだ数か月かかりそうであり、その時点では硫黄島のほうがより緊急性の高い目標となった。こうして、硫黄島は第2次世界大戦中に日本の領土で初めて戦闘が行われた場所となったのだ。
1945年2月16日、米軍は硫黄島を防衛していた2万2,000人の部隊に空と海から集中砲火を浴びせ始めた。そしてその3日後、米軍は島に侵攻した。
その戦いにおける米軍の第1目標は、島の南部にある標高169メートルの摺鉢山を占領することだった。上陸した3万から成る部隊は、山を包囲しながら激しい砲撃を受けた(その後、さらに4万の海兵隊員が続くことになっていた)。摺鉢山をめぐる攻防は厳しいものになったが、2月23日までに海兵隊は山を占領し、米国国旗を“2回”掲揚した。
その後31日間にわたり、日米両軍は激しい戦いを続けた。海兵隊員は飛行場を確保するために北へ向かい、日本軍は島を渡すまいと必死の抗戦を展開。その結果、3月26日までに、特に日本側には大きな犠牲が出た。およそ2万2,000の兵士の中で、生き残ったのはわずか1000名程度だった。米国側は、国旗を掲揚した3人(マイク・ストランク軍曹、ハーロン・ブロック、フランクリン・スースリー)も含む6821名が戦死し、約2万が負傷した。
この硫黄島侵攻における戦功に対し、27個の名誉勲章が授与された。それは単独の戦闘に対して与えられた数としては史上最多であり、第2次世界大戦中に授与された総数の4分の1以上を占める。
「この映画は、祖国のために極限までの犠牲を払った全世代の人々と、それが彼らに与えた影響を描いている」とクリント・イーストウッドは説明する。彼は監督として、映画に登場する1人ひとりに敬意を表したいと願っており、当時を知っている人々や、関係者を直接知っている人々からできるだけ詳しい情報を得るために最大限の努力を払った。
「クリントは、映画で描いた人々のためにも、この物語を忠実かつ正確に伝える義務があるという雰囲気を作ったんだと思う」と言うのは、セべランス大尉を演じたニール・マクドノウ。「僕たちはその一員として、彼らにとってそれがどれほど悲惨だったか、真実を伝えたかった」
音響効果スタッフのアラン・マリーの父は硫黄島で戦い、それについて決して話そうとしなかった。それは硫黄島で戦った兵士たちの共通点だ。
「私は、サンフランシスコで行われた60周年記念式典に行き、退役軍人たちとじっくり話をした」とイーストウッドは言う。「彼らはいろんな話をしてくれたよ。その中には原作に登場するダニー・トーマスという人物もいた。彼も衛生兵で、ドクのような役割を果たしていた。そして彼もまた、ドクのように硫黄島について決して何も語らなかったし、戦争自体について何も語らなかった。帰国してからは静かに暮らしていたんだ。そして、年を取ってからやっと、彼は話してもいいと思えるようになった」。
「その彼とは2時間ほど話をしたが、当時の心境について、とても感傷的に話していた。式典に集まっていたのはすごい人たちばかりだったよ」とイーストウッドは締めくくった。
◆AP通信カメラマン、ジョー・ローゼンタール
ジョー・ローゼンタールが撮ったその写真はピューリツァー賞を獲得し、写真史の中でも最も複製されたイメージのひとつである。それは記念写真の図柄やポスターとなり、無数の雑誌の表紙や新聞の一面を飾り、さらには、バージニア州アーリントンの海兵隊記念碑にもなった。
ローゼンタールも生還した3人と同じく有名人になった。視力が弱かったために、当初、徴兵検査で4-F(軍務には不適格)に分類されていた彼は、2-AF(徴兵猶予)に分類し直された。当時のタイム誌によれば、あの写真のおかげで彼は「4-Fよりも有利な分類」に組み込まれることができたという。
彼の写真は物議をかもした。あの写真が全国の新聞の一面を飾った数日後、ある記者が、「あれは演出したんじゃないのか」とローゼンタールに尋ねた。彼は記者が言っている写真が別のもの ─ 星条旗を囲んで喜んでいる海兵隊員たちの写真 ─ だと思い込み、「もちろん」と答えた。さらに、あの写真が2回目の国旗掲揚を撮ったものだという事実も混乱を招き、その後50年間にわたり、ローゼンタールは非難されたのだ。
AP通信は、彼が殺到する取材に対応しやすいように “ローゼンタール担当デスク”を設置した。ローゼンタールはトルーマン大統領に会い、AP通信から戦時公債で1年分の給料に当たるボーナスを支給され、ピューリツァー賞も獲得した。
ローゼンタールは2006年8月に94歳で亡くなった。ニューヨーク・タイムズ紙の死亡記事で、同紙のリチャード・ゴールドスタインはこのカメラマンの最も功名な業績を称え、こう書いた。「日本の領土を米軍が初めて占領したことを示す勝利を予感させる写真は、米国民の感情を激しく揺さぶり、(写っている兵士たちが、それぞれ異なる人種的、文化的背景をもつことから)米国の多様性の象徴として共鳴を呼び起こした」。
ローゼンタールにとって、誰が英雄かは明白だった。彼はコリアーズ誌にこう寄稿している。「あの写真で私が果たした役割は、取るに足りないものだ。あの旗をあそこで掲げるために、アメリカの兵士たちはあの島で、別の島で、海で、そして空で死んでいったのだ。誰が写真を撮ったかはどうでもいいではないか。あの写真は確かに私が撮った。だが、硫黄島を“獲った”のは海兵隊員なのだ」。
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