『硫黄島からの手紙』/"LETTERS FROM IWO JIMA"



2006年12月9日より丸の内ピカデリー1ほか全国松竹・東急系にて公開

2006年アメリカ映画/2006年日本公開作品/141分/原題:Letters from Iwo Jima/8巻、3,863m、シネマスコープ・サイズ/SRD/DTS/SDDS/字幕翻訳(部分):戸田奈津子/配給:ワーナー・ブラザース映画

◇監督/製作/音楽:クリント・イーストウッド ◇脚本:アイリス・ヤマシタ ◇製作総指揮/共同原案:ポール・ハギス “「玉砕総指揮官」の絵手紙”(栗林忠道著/吉田津由子編/小学館文庫刊)に基づく ◇製作:スティーブン・スピルバーグ、ロバート・ローレンツ ◇共同製作:ティム・ムーア ◇撮影:トム・スターン ◇美術:ヘンリー・バムステッド、ジェイムズ・J・ムラカミ ◇編集:ジョエル・コックス、ゲイリー・D・ローチ ◇衣装:デボラ・ホッパー

◇キャスト:渡辺謙、二宮和也、伊原剛志、加瀬亮、中村獅童、裕木奈江



| 解説 | プロダクションノート | ストーリー | キャスト&スタッフ |
| オフィシャルサイト | 記者会見 | 『父親たちの星条旗』 | WERDE OFFICE TOP | CINEMA WERDE |



【解説】

東京から南へ1250km。
日本の最南端に近い太平洋上に、その島はあります。
東京都小笠原村硫黄島。
面積22kG、周囲22km、山手線一周ほどもない小さな島です。
その島で、61年前、何があったのか、
あなたは知っていますか?


◆アメリカのきもち、日本のきもち、同じきもち ─ 。

『父親たちの星条旗』に続く「硫黄島」2部作第2弾、
日本から見た硫黄島。
2006年12月9日、世界に先駆けて日本公開。


5日で終わるとされた戦いを、36日間、戦い抜いた男たち。 世界中の誰よりも、強く、愛しく、誇らしく ─ 私たちはいま、彼らと出会う。

1945年2月19日、アメリカ軍の上陸と共に始まった硫黄島をめぐる攻防は、アメリカ側の圧倒的な戦力の前に、5日もあれば終わるとされた。しかし、その硫黄島戦を36日間にも及ぶ長期戦へと変貌させ、戦史に残る戦いへと変えた男たちがいる。

指揮官の名は栗林忠道 ─ 圧倒的な戦力の差を、知略をもって迎え撃ち、太平洋戦争においてアメリカを最も苦しめた指揮官として、今もかの地で畏敬の念をもって語り継がれる日本の陸軍中将。そして、その栗林のもと、一日でも長く祖国を守り抜こうと、死よりも辛い“出血持久戦”を戦い抜いた男たち ─ 。彼らこそ、クリント・イーストウッドがどうしても描かなければならないと思った、日本の男たちだ。「私は、日本だけでなく世界中の人々に彼らがどんな人間であったかをぜひ知ってほしいのです」。

アメリカ留学の経験を持つ栗林中将の、当時の軍人像からは思いもよらない進歩的な発想とおおらかな人柄。自ら陣頭に立って2万余の兵を率いた指揮官は、死地に赴いてなお我が家のお勝手のすきま風を気にかけ、島で生まれたヒヨコの成長を幼い娘に書き送る、愛情豊かなよき家庭人でもあった。負傷したアメリカの青年兵をひっそりと看取ったオリンピックの金メダリスト、生まれてくる我が子の顔も見ぬままに島へ送られてきた若き父親の嘆き……今の私たちと変わることのない同じきもちを抱きながら、戦場という極限の場所に立ち、相手を苦しめてなお畏敬の念を抱かせた日本の男たち。私たちと変わらないその素顔を知るほどに、硫黄島での彼らの日々に、心を震わさずにはいられないのだ。

アメリカ最高の監督、製作者が、最大の敬意のもとに描き出す日本の硫黄島、日本のきもち。「硫黄島」2部作第1弾の『父親たちの星条旗』に続き、本作の監督を務めるのは、2度のアカデミー監督賞(『許されざる者』『ミリオンダラー・ベイビー』)に輝く名匠クリント・イーストウッドだ。イーストウッドにとって、この1本を描かずして「硫黄島」の完成はありえなかった。製作には、やはり2度にわたってアカデミー監督賞(『シンドラーのリスト』『プライベート・ライアン』)を受賞しているスティーブン・スピルバーグ。さらに、アカデミー作品賞/脚本賞受賞の『クラッシュ』で監督・脚本を手がけたポール・ハギスが本作でも原案に参加している。

そして、彼ら世界最高のスタッフが選んだのは、日本を代表する最高の俳優陣。栗林中将を演じるのは、ハリウッド俳優のひとりでもある『ラスト サムライ』の渡辺謙。その栗林と、一兵卒ながら行動を共にすることになる西郷を演じたのは、イーストウッドをして類まれなる才能と言わしめた『青の炎』の二宮和也。硫黄島に散った金メダリスト、バロン西に『半落ち』の伊原剛志。元憲兵隊員の新米兵士・清水に『パッチギ!』の加瀬亮。栗林に反発する厳格な軍人、伊藤中尉には『男たちの大和/YAMATO』の中村獅童。他に『学校』『カンゾー先生』の裕木奈江ら、新鋭からベテランに至るまで日本が誇る実力派俳優がこの作品のもとに集まった。

私たちが忘れてはならないひとつの島。日米双方の視点から硫黄島の真実を描きだす史上初の2部作は、いよいよ日本へと視点を移す。

硫黄島の地中から掘り起こされた、届けられることのなかった数百通もの手紙。妻へ、母へ、子どもたちへ ─ 。彼らの手紙が、それぞれの素顔を、尽きせぬ思いを、鮮やかに照らし出していく。ふたつの「硫黄島」を通して見えてくるのは、ひとつのきもち。国を超え、時を超えて変わることのない、胸を刺す人としての真実。

61年の時を経て、いま、彼らからの手紙が私たちの手もとに届く ─ 。


◆硫黄島の戦いとは?
─ その小さな島が、なぜ激戦の地となったのか ─


洋上の“不沈空母”とも言うべき硫黄島は、日米双方にとって重要な軍事拠点と目されていた。起伏の少ない平坦な地形が、爆撃機の拠点とするのに最適である上に、その位置は、東京とサイパンのほぼ真ん中。アメリカが硫黄島を手に入れれば、サイパンから飛び立つ爆撃機の飛行距離が半分になるばかりか、飛行中に硫黄島からの攻撃を受ける恐れもなくなる。したがって、アメリカにとって硫黄島は、日本本土攻撃のためには欠かせない最大の足がかりと言えた。

一方、日本にとって硫黄島は、本土への攻撃を押しとどめるために守り抜かなければならない防御の拠点。この島が落とされれば、本土への空爆は激化し、一般の人々を空襲が襲う。さらに、太平洋戦争の中で硫黄島を失うことは、サイパンやフィリピンを攻め落とされるのとは違い、初めての外国による国土の喪失を意味した。硫黄島は、なんとしても死守しなければならない日本の島であり、本土を背にした最後の砦だったのである。



 


【プロダクションノート】

61年前、日本軍と米軍は硫黄島で戦った。数十年後、その荒涼とした島の地中から数百通の手紙が掘り出された。それらの手紙で、そこで戦った男たち、そして彼らを率いた優れた指揮官の姿と心が蘇った。

防衛軍を率いるのは栗林忠道中将(渡辺謙)。アメリカに留学経験のある彼は、その体験からこの戦争が望みのないものであることを悟っていたが、同時にその経験を通し、太平洋を越えて襲ってくるアメリカの大軍をどう迎え撃つかについても戦略的なアイデアがひらめいた。

固い意志と、島独特の火山岩以外に防衛としてほとんど頼るものがなかったが、すぐに徹底的に叩き潰されると思われた戦いが、栗林中将の意表をつく戦術により、40日近くにわたる壮絶かつ英雄的な戦いになった。

硫黄島の戦いでは、7千人近くの米兵が命を落とし、2万人以上の日本兵が散った。硫黄島の黒い砂は彼らの血に染まったが、彼らの犠牲、葛藤、勇気、そして愛情は彼らが家族に送った手紙に生き続けている。

『許されざる者』(1992)と『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)でアカデミー賞監督賞に輝いたクリント・イーストウッドが、61年前に硫黄島に侵攻してきた米軍と戦った日本兵と彼らの指揮官の知られざる物語を明らかにする。

日米両国の心に響き続けるこの戦いを調べていくなかで、イーストウッドは『父親たちの星条旗』だけを作るのでは、物語の片面しか伝えていないのではないかという思いに囚われた。続けて公開されるように撮影されたこの前例のないデュアル・プロジェクトで、イーストウッドは硫黄島の戦い ─ そして暗に太平洋戦争 ─ を、武力だけでなく文化のぶつかり合いとして描いている。

別々の物語を異なる視点と異なる言語で伝える一方で、『硫黄島からの手紙』と『父親たちの星条旗』は、この戦いで命を落とした日米両国の人々へのイーストウッドからのトリビュートである。彼はそれぞれの物語を通して、両国が分かち合った歴史上で深い意味を持つこの瞬間を、新しい観点で見てほしいと願っている。 ワーナー・ブラザース映画/ドリームワークス・ピクチャーズ提供、マルパソ/アンブリン・エンターテイメント製作 “Letters From Iwo Jima” ─ 防衛軍を率いた日本軍の栗林忠道中将を『ラスト サムライ』(2003)でアカデミー賞にノミネートされ、『バットマン ビギンズ』『SAYURI』(共に2005)に出演した渡辺謙が演じる。

才能豊かな俳優がそろったアンサンブル・キャストには、二宮和也、伊原剛志、加瀬亮、中村獅童、裕木奈江などがいる。監督はクリント・イーストウッド。日系アメリカ人脚本家のアイリス・ヤマシタと、『クラッシュ』(2004)でアカデミー賞脚本賞に輝いたポール・ハギスによる共同原案から、ヤマシタが脚本を担当。製作はイーストウッドと、『シンドラーのリスト』(1993)、『プライベート・ライアン』(1998)でアカデミー賞監督賞を受賞したスティーブン・スピルバーグ、そして『ミスティック・リバー』(2003)でアカデミー賞にノミネートされたロバート・ローレンツ。

クリエイティブ・チームを率いるのは長年イーストウッドを支えてきたスタッフの面々。撮影はトム・スターン、衣装はデボラ・ホッパー、編集はジョエル・コックス,A.C.E..とゲイリー・D・ローチ、美術は故ヘンリー・バムステッドとジェイムズ・J・ムラカミ、キャスティング・ディレクターは故フィリス・ハフマン。音楽はカイル・イーストウッドとマイケル・スティーブンス。『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』はバムステッドとハフマンの遺作であり、『父親たちの星条旗』は彼らに捧げられている。

『硫黄島からの手紙』はワーナー・ブラザース映画が全世界で配給。


◆同じコインの表と裏

「彼らは祖国のために命を捧げた。軍上層部が考えた、日本本土への侵攻を遅らせる戦略のために」とクリント・イーストウッドは言う。彼は『硫黄島からの手紙』の撮影を、その2部作の第1弾、『父親たちの星条旗』の撮影終了後まもなく始めた。「彼らがどんな人間だったかを知ることは、日本だけでなく、世界中の人々にとって重要だと思う」。

2本の映画を作る上でイーストウッドが意図したのは、何人かの人物に焦点を当て、それぞれの体験を通してあの戦いを明らかにしていくことにより、日米両国の完全な姿を創り出すことだった。「私が観て育ったほとんどの戦争映画では、どちらかが正義で、どちらかが悪だった」と彼は言う。「人生とはそんなものではないし、戦争もそんなものではない。この2本の映画は勝ち負けを描いたものではなく、あの戦争が人間にどんな影響を与えたか、そして戦争がなければもっと長く生きられたであろう人々のことを描いている」。

『父親たちの星条旗』の制作準備をしていたとき、彼は、第二次世界大戦の太平洋戦線が繰り広げられた時期と場所についての調査に没頭した。「調査を進めるにつれ、栗林中将が硫黄島防衛のために採ったユニークな防衛戦術に非常に興味を惹かれた」とイーストウッドは説明する。「米国海軍と海軍航空隊からのあれほどの集中爆撃に日本軍がなぜ耐えることができたのか、米軍は知らなかったんだ」。


戦力で圧倒的に勝る米軍を撃退するのはほとんど不可能だと思われた中で、栗林はこの島の黒い、火山性の土地そのものから防衛戦術を編み出した。約30キロに及ぶトンネル、5千もの洞穴、そしてトーチカを蜂の巣のように結ぶことによって、遥かに数の少ない日本軍がそこから米軍を狙うことができるようにしたのだ。彼は兵士たちに、死ぬ前に敵を10人殺せと命じた。アメリカに対して強い親近感を抱いていた栗林は、アメリカとの戦争に反対だったのだが、それでも情熱と信念をもって戦った。「この島を猛烈な、そして非常に明確な方法で防衛しようとしたこの男は、いったいどんな人物だったのだろうかと私は考えた」とイーストウッド。「彼は島中をトンネルで結び、すべてを地下に装備させたんだが、それは当時の日本軍の防衛戦術とはかなり異なるものだった。日本軍の防衛線のほとんどは海岸の上陸拠点に展開され、海へと大量の砲火を浴びせるものだったからだ。だが、この戦いではその戦術は効果的ではなかった。彼の戦術に対しては、彼自身の部隊の中でも反発が大きく、島中にトンネルを掘るなんてバカげていると思った将校たちも多かった」。

そんな戦術を採った人物についてさらによく知るため、イーストウッドは数多くの日本語の文献を翻訳させようとした。そんな中で、彼は栗林中将自身による書簡集 ─ “「玉砕総指揮官」の絵手紙”(栗林忠道著/吉田津由子編/小学館文庫刊) ─ に出会った。「その手紙は彼の妻、娘、そして息子に書かれたものだった」とイーストウッドは説明する。「その多くは、1920年代後半から1930年代前半にかけて武官として駐在したアメリカから出されたものだ。彼はとても繊細で家庭的な男だったので、祖国の家族がとても恋しかった。それらの手紙から、彼がどんな人物だったのかが感じ取れたよ」。

日系アメリカ人二世の脚本家アイリス・ヤマシタも、その本を研究して、栗林の人柄に同じように感銘を受けた。「クリントは彼の手紙から映画のインスピレーションを得た。そのときに彼が感じたのとおそらく同じ印象を、私も受けたの」と彼女は言う。「この心の優しい、愛すべき父親が硫黄島で日本軍を指揮したなんて、とても信じられなかった。彼の手紙にはイタズラ書きやマンガやユーモラスな愛情が詰まっていたわ。彼が息子を可愛がり、会いたがっていたことがよく伝わってくる手紙なの」。

「栗林中将はユニークな人物だった」とイーストウッド。「どの資料を読んでも、彼は想像力、創造性、そして機知に富んだ男だったことがわかるんだ」。

そして栗林が率いた若い兵士たちについて調べるにつれ、その顔と声が同じように蘇ってきた。「硫黄島に連れて来られた若い兵士たちはアメリカ兵と実によく似ていた」とイーストウッドは言う。「彼らは戦場にいたいわけではなかった。彼らは生きて戻れると思うなと言われて島へ送り込まれたんだ。これはアメリカ人に本気では言えない。ほとんどのアメリカ人は、『きっと危険だろうし、命を落とすかもしれないが、帰って来られるかもしれないし、普通の生活に戻れるかもしれない』と考えながら戦場に行くからね」。

だが、若い日本兵たちにとっては違った。「あの時、彼らは島に残る可能性が高かった」とイーストウッドは続ける。「それは私としては理解するのがとても難しいメンタリティーだが、私はそれをなんとか理解するために、彼らについて、そして彼らにとって戦争とは何だったのかについて、できる限りの資料を読んだんだ」。

同じようにヤマシタも、日本の防衛軍について調べていくなかで、1945年にあの島に運命を置かれた兵士たちをリアルに感じとることができた。彼女はこう思い返す。「まるで彼らがそれぞれのストーリーを語り始めたかのように、その生き様がありありと浮かんだの」。

ヤマシタをこのプロジェクトに引き入れたのは、イーストウッドの良き仕事仲間であるポール・ハギスだ。『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)を書いたハギスは、この「硫黄島」2部作の第1弾である『父親たちの星条旗』の脚本を共同執筆した(本作では彼はヤマシタと原案を共同執筆したのに加え、製作総指揮にも名を連ねている)。彼はこの2部作に対するイーストウッドの情熱について、こう語る。「『硫黄島』2部作について話すとき、クリントの顔はいつも輝いていた。彼はリサーチが大好きなんだ。歴史についていろいろな発見をすることがとても好きなんだよ。歴史の細かい点や、今回は特に日本側の視点について、知られていなかった事実を発見することにとても熱を入れていた。戦闘が始まる前に硫黄島で起こっていた事柄や、戦闘の特異性や、そんな中ででも楽しい出来事などについてだ」。

「ポールがアイリス・ヤマシタを見い出して、脚本を書いてもらうことになったんだ」とイーストウッドは説明する。「彼女は、私たちが伝えようとしている男たちの魂を称え、そしてそれに光を当てる脚本を書いてくれた」。

ヤマシタはこのプロジェクト独特の微妙な問題をよくわかっていた。「このストーリーにかかわる実際の出来事と、微妙な政治的問題の間でバランスをとることにとても気を遣ったわ」と彼女は言う。

イーストウッドと製作のロバート・ローレンツは、ヤマシタの脚本を東京に持ち込んだ。「脚本に書かれている歴史的出来事について正確を期するために、硫黄島に関する専門家数人にアイリスの脚本を検討してもらったんだ」とローレンツは説明する。「ウィリアム・アイアトン(ワーナー エンターテイメント ジャパン 代表取締役社長)に協力してもらい、クリントと私は栗林中将のお孫さん、バロン西の息子さん、そして硫黄島協会の会長と話し合った。彼らはみな、このプロジェクトを熱烈に歓迎してくれ、いろいろなコメントや詳しい情報を提供してくれた。そのおかげで、ストーリーがとても信憑性のあるものになったよ」。

そして、最終的な英語版脚本は数人の日本人翻訳者へ渡され、それぞれのもっともよい部分が一冊の日本語版脚本にまとめられた。「『硫黄島からの手紙』は革新的なプロジェクトよ」とヤマシタは称賛する。「コンセプトの一部はこれまで一度も映画化されなかったものだし、この作品がなければ語られなかったストーリーの中で、登場人物たちを追悼する助けができていればいいな、と私は思ってるの」。

このプロジェクトのために日本へ最初に行ったとき、イーストウッドは東京都知事の石原慎太郎に硫黄島での撮影許可を求めた。硫黄島は東京から約1250キロ離れているが、東京都の一部である。石原都知事は政界へ入る前は俳優、監督、そして数々の文学賞に輝いた小説家として、芸術の分野で広範な経歴を持っており、イーストウッドの2部作『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』の大きな支えとなった。

「石原都知事は、あそこでこの物語を撮影するというアイデアを気に入ってくれたよ。私たちが聖地を避けさえすればね」とイーストウッドは説明する。「撮影のために、島に大量の火薬を持ち込むことには賛成しなかっただろうから、戦闘シーンについては『父親たちの星条旗』の制作中にアイスランドのビーチで撮影したんだ」。

硫黄島への訪問は、ベテラン・フィルムメーカーであるイーストウッドにとっても感動的な旅となった。「あれはすばらしい体験だった」と彼は思い返す。「あの島を実際に歩いてみて、胸がとても熱くなったよ。日米両国の数多くの母親が息子を失った土地だから」。

その数か月後、彼はごく少数のスタッフと渡辺謙を連れて再び島へ渡り、島の洞穴、ビーチなどを撮影した。その中には、『父親たちの星条旗』で描かれた、米兵が国旗を掲揚し、有名な写真が撮られた擂鉢山 ─ 硫黄島の荒涼としたランドマーク ─ も含まれている。


◆国家の衝突

1944年6月、戦況がどんどん悪化していく中、硫黄島に新しい指揮官が着任する。帝国陸軍中将栗林忠道(渡辺謙)、太平洋戦争において米軍をもっとも苦しめた日本人指揮官として、日米両国から現在でも敬意を集めている人物である。

アメリカ留学の経験がある栗林は、西洋の軍事力と技術力に精通していた。日本はその彼の手に、国家防衛の最後の砦だと考えられた硫黄島の運命を委ねる。それまでのどの指揮官とも異なり、栗林は硫黄島の戦力の近代化に直ちにとりかかる。この基地で何年も使われてきた一時しのぎの戦法を一新し、部下に対する不当な体罰を減らしたのだ。

焼けつくような暑さと硫黄の臭いが漂うなか、栗林はこの島の黒い火山岩の中に迷路のようなトンネルを張り巡らせた地下要塞の建造の指揮を執る。十分な食糧も水もなく、ひどい条件のもとで作られたトンネルは、迫り来る強力な米軍に対して日本軍にどうしても必要だった戦略上の防衛手段となる。そして1945年2月19日、米軍はついに上陸を始める。

圧倒的な米軍の戦力を考えると、硫黄島での日本軍の抵抗は5日以上はもたないと予測されていた。しかし、栗林の革新的な戦術により、それは1か月以上にわたる歴史に残る戦闘となる。

死が名誉だと考えられた戦争の最中、栗林は部下にこう命ずる。命懸けで戦え、最後の最後まで生き残れ、祖国のため、故郷の愛する者たちのためにできる限り島を守り、米軍を撃退せよ、と。

この硫黄島で複雑かつ鮮やかな戦術を披露した栗林役に、クリント・イーストウッドは『ラスト サムライ』(2003)でアカデミー賞にノミネートされた渡辺謙を起用。イーストウッドは同作や『SAYURI』(2005)での渡辺の演技を高く評価していた。「彼とは数年前のアカデミー賞授賞式で会っていた」と監督は思い返す。「私は彼の演技力だけでなく、その存在感にとても強い印象を受けた。スクリーン上と同じく、実際の彼の存在感はものすごく、それこそ栗林中将を演じるのに必要な資質だと感じたからね」。

国際的な評価も高い渡辺は、栗林がアメリカに関して精通している数少ない日本の軍人のひとりであったことに驚いた。「彼はアメリカとカナダに留学経験があり、アメリカ人の友人も数多くいた親米派だった」と渡辺は説明する。「彼は友人であるアメリカ人たちと戦う苦悩を持ちながら、祖国と家族を守るために死を賭して全力をあげて戦わなくてはならないジレンマにも直面したんだ」。

渡辺は、歴史的な戦いを指揮したこの人物に強く興味を惹かれ、役にどっぷり入り込んだ。そして彼自身もリサーチを行い、脚本のアイリス・ヤマシタにいろいろな提案さえした。「謙は栗林の故郷を訪ね、ご遺族に会い、栗林中将のために硫黄島にある記念碑に水を供えた。それは亡くなった人に敬意を表するための伝統的な日本のしきたりなんだ」とロバート・ローレンツは説明する。

そして、いよいよ硫黄島での撮影が始まろうとしたとき、渡辺は思わず感極まった。「彼は、撮影の大半がロサンゼルスで終了していてよかったと言っていた」とローレンツは話す。「彼はものすごく心を揺さぶられたために、硫黄島での撮影のあとでは栗林を演じられないのではないかと思ったんだ」。

イーストウッドと、彼に長年貢献してきたキャスティング・ディレクターの故フィリス・ハフマンは、ワーナー エンターテイメント ジャパンとアメリカ在住の日本人キャスティング・ディレクター、高田ゆみの協力を得て、才能豊かな俳優たちを本作のために集めた。

「私は日本人俳優たちをあまりよく知らなかったので、彼らがそれまでに出演した映画やオーディションのテープを観たんだ」とイーストウッド。「演技は世界中どこでも同じだ。話されている言語がわからなくても、よい演技はわかる」。

人気グループ“嵐”のメンバーとして絶大な支持を得て、TVドラマや舞台でも活躍している二宮和也は心優しき兵士、西郷を演じる。西郷は、必ず生きて帰ると愛する妻の花子(裕木奈江)に約束し、生まれたばかりの娘に会うために生きたいと切に願う。「僕が演じるのは、生き抜く代償に人間性が奪われるような世界に放り込まれてしまう、ごく普通のパン屋なんだ」と二宮は言う。

西郷は栗林によって、残忍な体罰から救われる兵士のひとりでもある。その栗林の情けは、西郷の生きる意志に大きな影響を与える。二宮はこう語る。「戦争は残酷で何も残してくれない。残ってしまったものは、消えない傷痕だけだと思います」。

栗林中将のしきたりを覆すようなやり方は古参将校の数人を遠ざけるが、それと同時に、強い信頼を寄せる者も出てくる。そのひとりが西竹一中佐で、1932年のロサンゼルス・オリンピック馬術競技で金メダルを獲得した有名な華族である。そのバロン西を演じるのは、『みんなのいえ』(2001)、『半落ち』(2004)などの映画、「浪人街」などの舞台で活躍している伊原剛志。「オリンピックが開催されたころ、バロン西はロサンゼルスの名誉市民になっていた」と伊原は説明する。「当時、多くの日本人外交官をアメリカに行かせるよりも、バロン西ひとりを行かせたほうが外交がうまくいくと言われるほど、アメリカでの人気があったらしい」。

栗林中将と同じく、バロン西もアメリカを友人だと考えていた。それに関して、ローレンツたちはリサーチ中に、ロサンゼルス滞在中のバロン西を知っていたサイ・バートレットというアメリカ人フィルムメーカーの逸話を発見した。「バートレットは、米軍が硫黄島を占拠した後で島に到着し、友人のバロン西がそこにいることを知った」とローレンツは説明する。「それで彼は拡声器を使い、彼に投降するよう呼びかけたんだ」。

「『バロン西、あなたは私たちの友です。出てきてください』というアメリカの呼びかけを耳にしたとき、彼がどんな心境だったかを知りたいよ」と伊原は言う。「この映画を通して、人間はなぜ戦うのかを、考えていただければ幸いです」。

戦争で現実の厳しさに直面する理想家肌の若き元憲兵隊員、清水を演じる加瀬亮は、『アンテナ』(2004)、『パッチギ!』『スクラップ・ヘブン』(共に2005)などの映画で個性豊かな演技を見せ、世界的に注目を集めた。「清水は、自分の理想や信じたものが崩れていく中で、それを信じ抜くでもなく、あきらめるでもなく、変わることを選べた人でした」と加瀬は言う。「彼は、何が自分にとって正しいのかを選ぶことのできた、とても勇気のある人だったと思います」。

撮影が行われている期間中、加瀬はずっと役になりきっていた。「映画の撮影中ずっと、死にたくない、もっともっともっと生きていたい、といままでの何十倍も強く感じました。そのことだけはずっと忘れないでいきたいと思います」。


そして、栗林の型破りな戦術を最初は拒絶する、いわばより伝統的な指揮官タイプの伊藤中尉を演じるのは、『ピンポン』(2002)、『いま、会いにゆきます』(2004)、『男たちの大和/YAMATO』(2005)、ジェット・リーとの共演で世界的な注目を浴びた『SPIRIT』(2006)などで高い評価を受けている中村獅童。彼は有名な歌舞伎役者でもある。「伊藤は陸軍将校として教育され、訓練を受けた厳格な兵士」と中村は伊藤を表現する。「極限状況に追い込まれた中、退却して生き延びるぐらいなら、誇りある軍人として潔く自決すべし、との信念を持っている。伊藤は情けない男に思われがちな役だけど、実はすごく人間らしい人物ではないかと思いました」。

撮影が始まると、アメリカ人監督と日本人キャストの間に言葉の壁はほとんど存在しなかった。彼らのコミュニケーションは話し言葉の枠を超越したようだった。「今回の俳優たちのグループは、これまで私が一緒に仕事をした俳優たちと同じように良かった」とイーストウッドは認める。「私はこれまでかなり優秀な俳優たちと仕事をしてきたが、このグループは、プロ意識の点では間違いなくナンバーワンだ。とても気持ちよく仕事ができたし、楽だったよ」と彼は言い、ジョークを付け加える。「彼らが何を話しているかはまったくわからなかったけどね」。

俳優たちはこの作品により、自分たちにとっても意義深いプロジェクトで名監督と仕事をするというすばらしい機会を得た。「この体験は役者として、いや、私の人生において本当に貴重なすばらしい体験でした」と伊原剛志は言う。「イーストウッド監督とスタッフ全員でいい作品を作るぞ、という空気がずっと現場に流れていました。私たち日本人をやさしく迎えてくれ、自分の仕事に集中できる、集中しないといけない環境がありました。文化や言葉は違っても、役者が芝居することには変わりはないと感じましたし、クリントは私の提案をいくつも受け入れてくれました。今回の体験は私の一生の宝物です」。

中村獅童も同感だ。「雑談の延長で、その空気感のまま撮影に入っていく。ナチュラルな気持ちでいられて、すばらしい現場でした」。

さらに、西郷の妻を演じた裕木奈江はこう付け加える。「『ミリオンダラー・ベイビー』を観たとき、『いつかイーストウッド監督の作品に出演できたらいいな』と思っていたので、とても光栄でした。穏やかで美しい方でした」。

イーストウッドは俳優に自分の役柄を自由にふくらまさせるタイプの監督で、それは彼の才能のひとつだと製作総指揮のポール・ハギスは言う。「クリントは俳句が大好きなんだ。あるシーンがあって、その中でどんな感情のトーンを出すかは彼が考えるんだが、それを実際に創り出すのはそれぞれの俳優に任せる。彼らなりのやり方でね。だから、そのシーンはアーティスト同士の共同作業になる。彼がアーティストから愛されるのはそのためだと思うね。だからこそ俳優は彼を愛し、脚本家は彼を愛する。彼は相手に最高のものを求めるんだ。彼は本当にそれを要求する。ただ、その後で彼はそれを受け入れる。そして先へ進むんだ。それは映画作りの最高の方法だよ」。

俳優たちが演じたシーンには、言葉にできないほどの戦争の残忍さが関わってくるのだが、イーストウッドは、それぞれの俳優に時間をかけてそこに潜む真実を見つけさせた。「彼は僕の意見にも丁寧に耳を傾けてくれ、採用してくれました」と渡辺謙は思い起こす。「そういう意味では、クリントはまさに父親のような存在でした。温かく、強くそして知性的。すべてにおいて心地良い現場でした」。

『父親たちの星条旗』と同じく、『硫黄島からの手紙』は硫黄島の映像と共に、アイスランドの黒い砂のビーチで撮影された戦闘シーンの映像を使っている。映画の一部はワーナー・ブラザース映画のサウンドステージと、ロサンゼルス周辺のロケーションで撮影された。


◆過去の残響

これほどの規模の戦争映画、さらには2部作に取り組んだことのなかったクリント・イーストウッドは、『硫黄島からの手紙』を作ることで、戦争そのものの政治性にまどわされず、極めて個人的な方法で、戦った男たちに敬意を表する機会を得た。

「硫黄島には、まだ遺骨が見つかっていない日本兵が1万2千人いる」とイーストウッドは言う。「彼らには心からの敬意を払うべきだと思う。米軍が敬意を払われて当然なのと同じようにね。私はあの戦闘、そしてすべての戦争における両方の側の人々を思うとつらくてたまらない。戦争という状況では恐ろしい数の罪のない人々が犠牲になる。だから今回、この若者たちを通して彼らの人生を少しでも見せることができるなら、祖国のために命を捧げた人々に対するトリビュートになる」。

「戦争が良くないということは、誰もがみな、頭ではわかっています」と渡辺謙は付け加える。「でも、日々を生きる中で、戦争を心の底から憎む気持ちを持つことはなかなかありません。しかし、戦場で行われたことを見てしまったら、自分の息子や恋人を決してそこに向かわせたくないと思うでしょう」。

第二次世界大戦当時、ティーンエイジャーだったイーストウッドはこう思い返す。「戦争が終わった時、うれしかったことを覚えている。世界中の誰もが平和を待ち望んでいた。私は、誰もが人生を平和に送れることを願うだけだ」。



 


【ストーリー】

◆一日でも長く ─ 。
61年の時を超えて届く男たちの想い。


2006年、硫黄島。 地中から発見された数百通もの手紙。それは、61年前、この島で戦った男たちが、家族に宛てて書き残したものだった。届くことのなかった手紙に、彼らは何を託したのか ─ 。

戦況が悪化の一途をたどる1944年6月、ひとりの指揮官が硫黄島に降り立った。陸軍中将、栗林忠道(渡辺謙) ─ アメリカ留学の経験を持ち、それゆえにアメリカとの戦いの厳しさを誰よりも知り尽くしていた男。本土防衛の最後の砦とも言うべき硫黄島の命運は、この男に託された。

着任早々、長年の場当たり的な作戦を変更し、部下に対する理不尽な体罰をも戒めた栗林に、兵士たちは驚きの目を向ける。今までのどの指揮官とも違う栗林との出会いは、硫黄島での日々に絶望を感じていた西郷(二宮和也)に、新たな希望を抱かせる。従来の常識にとらわれない栗林のやり方は、古参の将校たちの反発も呼んだが、一方で頼もしい理解者もいた。そのひとりが、ロサンゼルス・オリンピック馬術競技の金メダリスト、「バロン西」こと西竹一中佐(伊原剛志)だった。

硫黄の臭気が立ち込める灼熱の島、食べ物も飲み水も満足にない過酷な状況で、栗林の指揮のもと、掘り進められる地下要塞。島中に張りめぐらせたこのトンネルこそ、米軍を迎え撃つ栗林の秘策だったのだ。

1945年2月19日、ついにアメリカ軍が上陸を開始する。その圧倒的な兵力の前に5日で終わるだろうと言われた硫黄島の戦いは、36日間にもおよぶ歴史的な激戦となった。死こそ名誉とされる戦争の真っ只中にあって、栗林中将は兵士たちに「死ぬな」と命じた。最後の最後まで生き延びて、本土にいる家族のために、一日でも長くこの島を守り抜け、と。

栗林の奇策に反発し、軍人らしく玉砕を貫こうとする伊藤中尉(中村獅童)、憲兵隊のエリートから一転、過酷な戦地へと送り込まれた清水(加瀬亮)、戦場にあってなお国際人であり続けたバロン西、まだ見ぬ我が子を胸に抱くため、どんなことをしても生きて帰ると妻に誓った西郷、そして彼らを率いた栗林もまた、軍人である前に、家族思いの夫であり、子煩悩な父であった。

61年ぶりに届く彼らからの手紙。そのひとりひとりの素顔から、硫黄島の心が明かされていく ─ 。





 


【キャスト&スタッフ】

■渡辺謙(栗林忠道中将)

日本軍硫黄島守備隊の総指揮官を務める陸軍中将。アメリカ留学の経験を持ち、アメリカ人の友人もいれば、良い思い出もある。また、勝つための意思と、日本よりは進歩していた米軍に挑むための戦略的手腕も持っている。戦地から家族に宛てた手紙で、妻のためにお勝手のすきま風を心配したり、硫黄島で育てているヒヨコの成長を幼い娘に書き送ったりと、良き家庭人としての一面を覗かせる。

1959年、新潟県出身。トム・クルーズと共演した『ラスト サムライ』(2003)で、第10回俳優組合賞、第61回ゴールデングローブ賞、第76回アカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。その後も『バットマン ビギンズ』『SAYURI』(共に2005)とハリウッド大作に出演を続け、今回ついに、クリント・イーストウッド監督による「硫黄島」2部作のうち、日本側の視点から描いた本作『硫黄島からの手紙』で主人公、栗林忠道という大役を演じ、名実共に日本を代表する俳優のひとりとなっている。

上京後、劇団“円”に参加し、研究生ながら蜷川幸雄演出の舞台「下谷万年町物語」で主役に抜擢され注目を集める。1982年にはドラマ「未知なる反乱」(TBS)でTVデビューを飾り、1987年にはNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」で不動の人気を確立した。映画では『瀬戸内少年野球団』(1984)でデビューを果たした後、『タンポポ』(1985)、『海と毒薬』(1986)、『幕末純情伝』(1991)、『絆 −きずな−』(1998)、『スペーストラベラーズ』(2000)、『溺れる魚』(2001)、『陽はまた昇る』(2002)、『T.R.Y.』(2003)、『新・仁義なき戦い/謀殺』(2003)、『北の零年』(2005)などに出演。また、今年5月に公開され大ヒットとなった『明日の記憶』では主演のみでなくエグゼクティブ・プロデューサーを務める。



■二宮和也(西郷)

かつては妻とふたりで小さなパン屋を営んでいた兵士。妊娠中の妻を残して出征。生まれた娘の顔をまだ知らない。「必ず生きて帰る」と妻に約束し、戦地でもこまめに手紙をしたためている。

1983年、東京都出身。ジャニーズ事務所の人気グループ“嵐”のメンバーとして、1999年にCDシングル「A・RA・SHI」でデビュー、ミリオン・セールスを記録。2000年からは毎年、精力的に全国ツアーを行う一方、俳優、タレントとして映画、TV、ラジオ、舞台、CMなどあらゆるメディアに活躍の場を広げている。

映画では『ピカ☆ンチ LIFE IS HARDだけどHAPPY』(2002)、『青の炎』(2003)、『ピカ☆☆ンチ LIFE IS HARDだからHAPPY』(2004)に出演。TVでは「涙をふいて」(CX)、「ハンドク!!!」「Stand UP!!」(共にTBS)、「熱烈的中華飯店」(CX)、「南くんの恋人」(EX)、「優しい時間」(CX)に出演したほか、今年3月にはユーイング肉腫が発症し1年10ヶ月の闘病生活を送った北原和憲の実話を描いたTVドラマ「少しは、恩返しができたかな」(TBS)で、主人公の北原役を演じ高い評価を受けている。舞台では「Stand by Me」、蜷川幸雄演出作「シブヤから遠く離れて」、「理由なき反抗」に出演している。

現在は「まごまご嵐」(CX)、「嵐の宿題くん」(NTV)やラジオ番組「BAY STORM」(bayfm)にレギュラー出演中。今後は、12月23日より公開のアニメ作『鉄コン筋クリート』で主人公のクロ役で声優に初挑戦しているほか、来春には犬童一心監督作『黄色い涙』の公開が予定されている。



■伊原剛志(バロン西)

1932年ロサンゼルス・オリンピックの馬術競技金メダリストとして歴史に名を刻む人物。戦地でも愛馬をかわいがり、ラジオから聞こえてくるアメリカのジャズに耳を傾ける。

1963年、大阪府出身。1982年にJAC(ジャパンアクションクラブ)に入団。翌年には舞台「真夜中のパーティ」でデビューを果たしている。その後、1996年に放送されたNHKの朝の連続テレビ小説「ふたりっ子」で人気を集める。

主な映画出演作には、『バカヤロー! 私怒ってます』(1988)、『四姉妹物語』(1995)、『あぶない刑事リターンズ』(1996)、『ヒロイン! なにわボンバーズ』(1998)、クリックシネマ『好き』(2000)、『みんなのいえ』(2001)、『半落ち』(2004)『ヒナゴン』(2005)などがある。TVでは「バースデイ こちら椿産婦人科」(TX)、「金曜日の恋人たちへ」(TBS)、「九龍で会いましょう」(EX)、「こちら本池上署」(TBS)、「恋は戦い!」(EX)、「新撰組!」(NHK)、「ラストクリスマス」(CX)、「曲がり角の彼女」(KTV)、「幸せになりたい!」(TBS)、DRAMA COMPLEX「終戦60周年スペシャルドラマ・火垂るの墓」(NTV)、「黒い太陽」(EX)など多数の作品にレギュラー出演を果たした。さらに、1993年以降はコンスタントに舞台にも出演しており、「香港ラプソディー」では宮本亜門、「ダァ!ダァ!ダァ!」「オケピ」「彦馬がゆく」では三谷幸喜、「虎 野田秀樹の国性爺合戦」では野田秀樹、「浪人街」では山田和也と、錚々たる演出家の人気舞台に立っている。

来春には、本作でも共演した加瀬亮も出演する、黒沢清監督作『叫』が控えている。



■加瀬 亮(清水)

硫黄島に配属された新入り。元憲兵隊のエリート士官。理想主義に燃えるが、自分と同年代のアメリカ兵の死を目の当りにして、気持ちに変化が生じ始める。

1974年、神奈川県出身。『五条霊戦記』(2000)でスクリーンデビュー。以降これまでに40作の映画に出演しているほか、TV、CMと意欲的な活動を続けている。主な映画出演作に、『ロックンロールミシン』『カクト』(共に2002)、『アカルイミライ』(2003)、『キューティーハニー』『69 sixty nine』『茶の味』『誰も知らない』『ニワトリはハダシだ』(いずれも2004)、『パッチギ!』『female フィーメイル〜「玉虫」〜』『アバウト・ラブ/関於愛』(いずれも2005)など。主演作に『アンテナ』(2004)、『スクラップ・ヘブン』(2005)などがあり、『アンテナ』では2005年日本映画プロフェッショナル大賞主演男優賞を受賞した。

2006年、初の単行本「Bellevue Ryo Kase 加瀬亮 写真+言葉+全作品」(メディアファクトリー刊)を発売し話題となる。

今年は、本作を含め『好きだ、』『ナイスの森 The First Contact』『ストロベリーショートケイクス』『花よりもなほ』『ハチミツとクローバー』『パッセンジャー』と、7本もの公開作があり、最新作には、ヴェネチア国際映画祭に正式出品された『叫』がある。来年は、舞台「哀しい予感」(吉本ばなな原作/塚本晋也演出)に出演、映画公開作に周防正行監督作『それでもボクはやってない』『オリヲン座からの招待状』と主演作が続く。



■中村獅童(伊藤中尉)

従来のやり方を変えていく栗林中将に反発する厳格な軍人。栗林の奇策を拒み、退却して生き延びるくらいなら、誇りある軍人として潔く自決すべし、との信念を持つ。

1972年、東京都出身。祖父は歌舞伎界の名門である、昭和の花形と謳われた三世中村時蔵。父はその三男、三喜雄。8歳で歌舞伎座にて初舞台を踏み、二代目中村獅童を襲名した。歌舞伎という伝統と格式の世界に生まれながらも、その活躍は映画、TV、舞台、バンド活動とさまざまな広がりを見せている。

2002年、オーディションを受けて出演を手にした『ピンポン』のドラゴン役で強烈なインパクトを放ち、第45回ブルーリボン賞を含めた国内映画賞の新人賞を総ナメに。その後は、『阿修羅のごとく』(2003)で第27回日本アカデミー賞助演男優賞を受賞。『いま、会いにゆきます』(2004)では日刊スポーツ映画大賞助演男優賞に輝いている。主な映画出演作には『アイデン&ティティ』(2003)、『いぬのえいが』『隣人13号』(共に2004)、『あらしのよるに』『男たちの大和/YAMATO』(共に2005)、『SPIRIT』『DEATH NOTE デスノート』『DEATH NOTE デスノート the Last name』『ハチミツとクローバー』(いずれも2006)などがある。『SPIRIT』ではジェット・リーと共演し、世界進出を果たした。TVでは「木更津キャッツアイ」(TBS)、「新撰組!」(NHK)、「丹下左膳」(NTV)、「HR」「実録・小野田少尉」(共にCX)、「天下騒乱 徳川三代の陰謀」(TX)、アニメ「DEATH NOTE デスノート」(NTV)などに出演。舞台では2004年に「浪人街」で赤牛弥五右衛門役を好演して高い評価を受けたほか、新橋演舞場「丹下左膳」で初座長をつとめ、今年は「獅童流 森の石松」で座長をつとめた。



■裕木奈江(花子)

西郷の妻。戦争で立ち行かなくなった小さなパン屋を夫婦で切り盛りしていたが、子供を身ごもっていた時に、夫への召集令状が届く。「生きて帰る」という言葉だけを頼りに、子供とふたりで夫を待ち続けている。

1970年、神奈川県出身。1990年に歌手としてデビュー以来、さまざまな分野で女優として活躍。主な映画出演作には、『曖・昧・Me』(1990)、『あさってDANCE』(1991)、『学校』『獅子王たちの最后』(共に1993)、『サラリーマン専科』『日本一短い「母」への手紙』(1995)、『時雨の記』『カンゾー先生』『アートフル・ドヂャース』(いずれも1998)、『おしまいの日』(2000)、『光の雨』(2001)、『ピカレスク 人間失格』(2002)、『理由』『ULTRAMAN』(共に2004)、デビッド・リンチ監督作『Inland Empire(原題)』(2006)などに出演している。

主なTV出演作は、「ふぞろいの林檎たち」(TBS)、「北の国から 巣立ち」(CX)、「ポケベルが鳴らなくて」(NTV)、「陽のあたる場所」(CX)、「告別」(BS-i)、「青き復讐の花」「ちょっと待って、神様」(共にNHK)など数多く出演。舞台出演作は、鴨下信一演出作「8人で探すリア王」、富田稔英演出作「ジンジャーブレッド・レディー」、松本修演出作「AMERIKA」、坂手洋二演出作「ポッシブル・ワールド」、松本祐子演出作「てのひらのこびと」、堤泰之演出作「無頼の女房」などに出演。

平成16年度文化庁在外研修員としてギリシャに1年間留学し、ギリシャ悲劇を中心に演劇を学ぶ。



■クリント・イーストウッド(監督/製作/音楽)

2005年、クリント・イーストウッドは、『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)でアカデミー賞作品賞および、自身2度目となる監督賞を受賞した。さらに同作では、ヒラリー・スワンクが主演女優賞、モーガン・フリーマンが助演男優賞を受賞したほか、3部門(主演男優賞、編集賞、脚色賞)にノミネートを果たした。2003年、イーストウッドが監督と製作を手がけて高い評価を受けた『ミスティック・リバー』はカンヌ映画祭に出品され、パルムドールおよびGolden Coach賞にノミネートされた。『ミスティック・リバー』はアカデミー賞6部門(作品賞、監督賞、主演男優賞、助演男優賞、助演女優賞、脚本賞)にノミネートを果たし、2部門(主演男優賞、助演男優賞)を受賞した。1993年、監督、製作、出演を手がけた西部劇『許されざる者』(1992)はアカデミー賞9部門(作品賞、監督賞、主演男優賞、助演男優賞、脚本賞、撮影賞、美術賞、編集賞、音響賞)にノミネートされ、4部門受賞(作品賞、監督賞、助演男優賞、編集賞)に輝いた。さらに同年、イーストウッドは映画芸術科学アカデミーから栄えあるアービング・G・サルバーグ記念賞を授与されている。

イーストウッドが初めてゴールデングローブ賞を受賞したのは1971年で、世界の好きな男性映画スターに贈られるヘンリエッタ賞を受賞した。1988年には、ハリウッド外国人記者協会セシル・B・デミル功労賞を受賞している。さらに同年に発表した『バード』と1992年の『許されざる者』で、ゴールデングローブ賞監督賞に輝いている。2004年には『ミスティック・リバー』で同賞にノミネートされ、翌年、『ミリオンダラー・ベイビー』では3度目のゴールデングローブ賞監督賞を受賞した。さらに同作は、ゴールデングローブ音楽賞にもノミネートされた。

イーストウッドは、サルバーグ記念賞やセシル・B・デミル功労賞に加えて、数多くの生涯功労賞を受賞している。その中には、全米監督組合、全米製作者組合(ゴールデンローレル生涯功労賞)、全米脚本家組合、アメリカン・フィルム・インスティチュート、リンカーン・センター映画協会、フランス映画協会、ナショナル・ボード・オブ・レビュー、ヘンリー・マンシーニ・インスティチュート(アメリカンミュージックに対する際立った貢献者に授与されるハンク賞)、ハンブルク映画祭(ダグラス・サーク賞)などからの受賞がある。さらにケネディ・センター栄誉賞、ウェズリアン大学から芸術の名誉博士号をそれぞれ授与され、ピープルズチョイス賞の“Favorite Motion Picture Actor”を5度受賞し、1999年には“Favorite All-Time Movie Star”にノミネートされた。1991年にはハーバード大学演劇部主催のヘイスティ・プディング賞のマン・オブ・ザ・イヤーに輝き、翌年にはカリフォルニア州知事芸術賞を受賞している。

また、カンヌ映画祭とも縁が深く、1994年には審査員長を務めた。1985年には『ペイルライダー』が、1988年には『バード』が、1990年には『ホワイトハンター ブラックハート』がそれぞれ最高賞パルムドールにノミネートされた(『バード』は主演男優賞と音響賞を受賞)。


フィルモグラフィー

『硫黄島からの手紙』(2007/米公開年) 監督・製作
『父親たちの星条旗』(2006) 監督・製作
『ミリオンダラー・ベイビー』(2004) 監督・製作・出演
『ミスティック・リバー』(2003)     監督・製作
『ブラッド・ワーク』(2002) 監督・製作・出演
『スペース・カウボーイ』(2000) 監督・製作・出演
『トゥルー・クライム』(1999) 監督・製作・出演
『真夜中のサバナ』(1997) 監督・製作
『目撃』(1997) 監督・製作・出演
『ヘンリエッタに降る星』(95/未) 製作
『マディソン郡の橋』(1995) 監督・製作・出演
『パーフェクト・ワールド』(1993) 監督・製作・出演
『ザ・シークレット・サービス』(1993) 出演
『許されざる者』(1992) 監督・製作・出演
『ルーキー』(1990) 監督・出演
『ホワイトハンター ブラックハート』(1990)監督・製作・出演
『ピンク・キャデラック』(1989) 出演
『セロニアス・モンク/ストレート・ノー・チェイサー』(1988/未) 製作総指揮
『バード』(1988) 監督・製作
『ダーティハリー5』(1988) 出演
『ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場』(1986)監督・製作・出演
『ペイルライダー』(1985) 監督・製作・出演
『シティヒート』(1984) 出演
『タイトロープ』(1984) 製作・出演
『ダーティハリー4』(1983) 監督・製作・出演
『センチメンタル・アドベンチャー』(1982)監督・製作・出演
『ファイヤーフォックス』(1982) 監督・製作・出演
『ダーティファイター 燃えよ鉄拳』(1980)出演
『ブロンコ・ビリー』(1980) 監督・出演
『アルカトラズからの脱出』(1979) 出演
『ダーティファイター』(1978) 出演
『ガントレット』(1977) 監督・出演
『ダーティハリー3』(1976) 出演
『アウトロー』(1976) 監督・出演
『アイガー・サンクション』(1975) 監督・出演
『サンダーボルト』(1974) 出演
『ダーティハリー2』(1973) 出演
『愛のそよ風』(1973/未) 監督
『荒野のストレンジャー』(1973) 監督・出演
『シノーラ』(1972) 出演
『ダーティハリー』(1971) 出演
『恐怖のメロディ』(1971) 監督・出演

主演作品

『白い肌の異常な夜』(1971)
『戦略大作戦』(1970)
『真昼の死闘』(1970)
『ペンチャー・ワゴン』(1969)
『荒鷲の要塞』(1968)
『マンハッタン無宿』(1968)
『奴らを高く吊るせ!』(1968)
『華やかな魔女たち』(1967)
『続・夕陽のガンマン』(1966)
『夕陽のガンマン』(1965)
『荒野の用心棒』(1964)

出演作品

『Ambush at Cimarron Pass』(1958)
『壮烈!外人部隊』(1958/未)
『二人の可愛い逃亡者』(1957)
『Star in the Dust』(1956)
『最初の女セールスマン』(1956/未)
『全艦発進せよ』(1956)
『Never Say Goodbye』(1956)
『世紀の怪物/タランチュラの襲撃』(1955)
『Lady Godiva of Coventry』(1955)
『Francis in the Navy』(1955)
『半魚人の逆襲』(1955)

テレビ作品

「世にも不思議なアメージング・ストーリー」(1985)
 ※「亡き妻の肖像・・・魂が棲む画」エピソードの監督
「ローハイド」(1959〜1966)主演
「ミスター・エド」(1962)ゲスト出演
「マーベリック」(1959)ゲスト出演
「ハイウェイ・パトロール」(1958)ゲスト出演
「West Point」(1957)ゲスト出演



■アイリス・ヤマシタ(脚本)

日系アメリカ人二世のアイリス・ヤマシタは、CAAのエージェントであるキャシー・ターが審査員を務めたビッグ・ベア・レイク・スクリーンライティング・コンペティションで、脚本作「Traveler in Tokyo」が第1位に輝いたことを機に、CAAを通じて、本作の製作総指揮を手がけているポール・ハギスの目に留まった。ヤマシタにとって、本作が初の映画脚本作となっている。


■ポール・ハギス(製作総指揮/共同原案)

2006年3月5日、ポール・ハギスは『クラッシュ』(2004)と前年の『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)でアカデミー賞作品賞を受賞した作品の脚本を2年連続して執筆した史上初の脚本家となった。

ハギスが共同脚本、監督、製作を手がけた『クラッシュ』はアカデミー賞6部門にノミネートされ、作品賞と脚本賞を受賞。その数週間前には、同作のキャスト陣が全米俳優組合賞最優秀アンサンブル賞を受賞している。ほかにもハギスとボビー・モレスコは、全米脚本家組合賞、英国アカデミー賞、批評家協会賞それぞれの脚本賞を獲得。同作は、ゴールデングローブ賞ノミネート、ドービル映画祭のグランプリにも輝いている。2005年3月に公開された『クラッシュ』は、同年度に公開されたインディペンデント映画の中でも650万ドルの予算で、アメリカ国内だけで5500万ドルの興行収入をあげた数少ない作品のひとつとなった。

ハギスの映画界でのキャリアは2000年にスタートした。数年間にわたってテレビ作品の脚本を手がけて成功を収めた後、短編の脚本権を得て、駄目元で『ミリオンダラー・ベイビー』の脚本を書き上げるが、それがプロダクションパートナーを通じてクリント・イーストウッドの手にわたり、同作の映画化が実現したのだった。『ミリオンダラー・ベイビー』は、アメリカ国内で1億ドルの興行収入をあげ、アカデミー賞4部門を受賞している。

ハギスは本作の共同原案に加えて、『父親たちの星条旗』(2006)の共同脚本を手がけている。

最近では、ガブリエル・ムッチーノ脚本のイタリア映画『L'Ultimo Bacio』(2001)を脚色した『The Last Kiss』(2006)の脚本を執筆している。さらに2006年11月に全米公開が予定されているボンド最新作『007/カジノ・ロワイヤル』(2006)の脚本も手がけている。

現在、ハギスはソニー・ピクチャーズ製作によるリチャード・Aの原作小説の映画化『Against All Enemies』(2008)、ジャーナリストのマーク・ボールの記事を基にしたワーナー・ブラザース製作作品『Death and Dishonor』(2007)、ニューライン製作によるバート・ベイカー原作の小説の映画化『Honeymoon with Harry』(2008)、今秋放映されるNBC製作の新ドラマシリーズ「The Black Donnellys」(2006)など、数多くの作品の脚本に携わっている。

さまざまなTVドラマの脚本も手がけてきたハギスにとっても、お気に入りのドラマ作がCBSで製作された「EZ Street」(1996)だった。番組は短命で終わったものの、現在でも批評家たちの間のトップ10リストに名を連ねている。ニューヨークタイムズは、同作をテレビシリーズの歴史において最も影響力のある作品のひとつとしてあげ、『「EZ Street」がなければ、「ザ・ソプラノズ」は存在しなっただろう』と評している。

2003年、「Razor」誌は“命令に背く非協調主義者、独自の発想に固執する因習打破主義者、順守を拒む急進主義者 ─ 我々はためらうが、こうして伝説となった人々”というテーマのリストを作成。その中には、サム・シェパード、ジュリアン・シュナーベル、バズ・ラーマン、ランス・アームストロング、リチャード・ブランソン、ロバート・シャピロ、ジョン・アービング、ビル・クリントンと並び、“今年の25人の専門家たち”のひとりにポール・ハギスを選出した。

ハギスの受賞歴は2度のアカデミー賞を筆頭に、全米脚本家組合賞、英国アカデミー賞、2度のエミー賞、ヒューマニタス賞、テレビ・クリティクス・アソシエーション・プログラム・オブ・ザ・イヤー、ビューワーズ・フォー・クオリティ・テレビジョン賞のファウンダーズ賞、バンフ・テレビ賞、コロンビア・ミステリー・ライターズ賞、6度のジェミニ賞、2度のヒューストン・ワールドフェスト・ゴールド賞、プリズム賞がある。

さらには、EMA賞、ジェネシス賞、Ethel Levitt Memorial Award for Humanitarian Service、ハリウッド賞ブレイクスルー監督賞を獲得したほか、『世界中の執筆家に名誉と尊厳をもたらした』として、全米脚本家組合のバレンタイン・デイビス賞を授与されている。

ハギスは、Artists for Peace and Justice、Board of Directors of The Hollywood Education and Literacy Project、 For the Arts‐For Every Child、the Environmental Media Associationの共同創立者であり Earth Communications Office(ECO)の創立メンバーのひとりでもある。さらに、米国大統領野生動物保護委員会、Advisory Board of the Center for the Advancement of Non‐Violenceのメンバーである。



■スティーブン・スピルバーグ(製作)

スティーブン・スピルバーグは、主要パートナーのひとりとして1994年10月、ジェフリー・カッツェンバーグ、デビッド・ゲフィンとドリームワークスSKGを設立。2006年初頭にパラマウント・ピクチャーズに売却している。3人の指導の下、ドリームワークスは批評的にも商業的にも成功を収め、アカデミー賞作品賞3年連続受賞を果たした『アメリカン・ビューティー』(1999)、『グラディエーター』(2000)、『ビューティフル・マインド』(2001)(後2作はユニバーサルと共同製作)を含めた名作を作り出している。

映画界で最も成功を収めている影響力のあるフィルムメーカーのひとりとして、スピルバーグは、『E.T.』(1982)、『ジュラシック・パーク』(1993)など歴代興行成績を記録した作品の監督、製作、製作総指揮を手がけている。数え切れないほどの受賞歴の中でも、アカデミー賞受賞は3度におよび、『シンドラーのリスト』(1993)で作品賞および監督賞、『プライベート・ライアン』(1998)で監督賞を受賞している。

第二次世界大戦が舞台で高い評価を受けた、トム・ハンクス主演、ドリームワークス/パラマウントの共同製作作品『プライベート・ライアン』は、1998年のアメリカ国内興行収入第1位を記録。同作はさらにアカデミー賞5部門(スピルバーグの監督賞を含む)、ゴールデングローブ賞2部門(ドラマ部門作品賞、監督賞)を受賞している。また全米監督組合賞、全米製作者組合賞のダリル・F・ザナック賞を受賞している。同年、全米製作者組合はさらに、スピルバークの映画界での功績を讃えるマイルストン賞を授与した。

『プライベート・ライアン』は、ニューヨーク、ロサンゼルス、シカゴ、トロント、イギリスの批評家協会賞の作品賞を受賞、英国アカデミー賞2部門受賞、放送映画批評家協会賞では作品賞、監督賞、作曲賞に輝いた。

1994年、スピルバーグは国際的にも絶賛された『シンドラーのリスト』で、アカデミー賞監督賞、作品賞を受賞し、トータルで7部門のアカデミー賞受賞を果たした。同作は主要の映画賞で軒並み作品賞を受賞し、英国アカデミー賞ではスピルバーグ自身の2部門受賞を筆頭に7部門を制覇。ゴールデングローブ賞と2度目の全米監督協会賞受賞に輝いた。

1度目の全米監督協会賞受賞作となった作品は、『カラーパープル』(1985)だった。『未知との遭遇』(1977)、『レイダース/失われたアーク≪聖櫃≫』(1981)、『E.T.』(1985)、『ミュンヘン』(2005)ではアカデミー賞作品賞にノミネートを果たしている。さらには、上記の作品に加えて『ジョーズ』(1975)、『太陽の帝国』(1987)、『アミスタッド』(1997)では全米監督組合賞にノミネートされている。同賞には、映画監督史上最多となる10度のノミネートを果たし、2000年には全米監督組合生涯功労賞を受賞している。さらに、アメリカン・フィルム・インスティテュートの生涯功労賞を受賞し、映画芸術科学アカデミーからは誉れ高いアービング・G・サルバーグ賞を授与された。

2005年、スピルバーグは『宇宙戦争』と『ミュンヘン』を監督。『SAYURI』の製作も手がけている。『宇宙戦争』はトム・クルーズが主演を務め、H.G.ウェルズ原作の未来小説を現代風にアレンジした1作。『ミュンヘン』は1972年にミュンヘンオリンピックに参加した11人のイスラエル代表選手の殺害事件のその後を描いた歴史ドラマ作で、アカデミー賞作品賞、監督賞をはじめ5部門にノミネートされた。同作は、エリック・バナ、ダニエル・クレイグ、ジェフリー・ラッシュらが主演したユニバーサル/ドリームワークス共同製作作品。『SAYURI』はアーサー・ゴールデンのベストセラー小説をロブ・マーシャル監督が映画化し、アカデミー賞撮影賞、美術賞、衣装デザイン賞を受賞した。それ以外にも、最近ではトム・ハンクス、キャサリン=ゼタ・ジョーンズ主演作『ターミナル』(2004)、レオナルド・ディカプリオ、トム・ハンクス主演作『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』(2002)、監督、脚本、製作を務め、故スタンリー・キューブリック監督の企画を映画化した『A.I.』(2001)を手がけている。2000年、スピルバーグはロサンゼルスにある英国アカデミー協会のスタンリー・キューブリック・ブリタニア賞に輝いた。

1946年12月8日、オハイオ州シンシナティに生まれたスピルバーグは、ニュージャージー州ハドンフィールドとアリゾナ州スコッツデールで育つ。10代でアマチュア映画の制作をはじめ、後にロングビーチのカリフォルニア州立大学で映画を学ぶ。そして1968年、22分の短編作品『Amblin』がアトランタ映画祭で上映されたことがきっかけとなり、ハリウッドの大手スタジオと最年少監督として長期契約を結ぶことになる。

その4年後、スピルバーグが監督を務めたテレビ映画『激突!』が話題となり、視聴者の注目を集める。その後、共同脚本も手がけた『続・激突!カージャック』(1974)で長編映画監督デビューを果たしている。このほかの監督作には、『レイダース/失われたアーク≪聖櫃≫』(1981)の続編となる『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』(1984)、『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』『オールウェイズ』(共に1989)、『フック』(1991)などがある。

1984年、スピルバーグは自身の製作会社アンブリン・エンターテイメントを設立。同社のもとでスピルバーグは、『アメリカ物語』(1986)、『グレムリン』(1984)、『グーニーズ』(1985)、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズ、『ロジャー・ラビット』『リトルフットの大冒険/謎の恐竜大陸』(共に1988)、『フリントストーン/モダン石器時代』(1994)、『キャスパー』(1995)、『ツイスター』(1996)、『マスク・オブ・ゾロ』(1998)、「メン・イン・ブラック」シリーズなど12作以上の作品の製作、製作総指揮を手がけ成功を収めている。さらに同社はワーナー・ブラザーステレビとともに「ER 緊急救命室」(1994〜)の製作も務めている。

スピルバーグはこのほかにも、HBOとドリームワークス・テレビジョンで、ミニシリーズ「バンド・オブ・ブラザース」(2001)を含めたTV作品の製作総指揮を手がけている。故スティーブン・アンブローズの同名原作を映画化、史実に基づくこの第二次世界大戦プロジェクトは、エミー賞とゴールデングローブ賞の最優秀ミニシリーズ賞を獲得した。2002年の製作総指揮を手がけた、ドリームワークス・テレビジョンとSci-Fiチャンネル製作の「TAKEN テイクン」(2002)も同じくエミー賞を受賞している。2005年、スピルバーグとドリームワークス・テレビジョンはTNTと組んで12時間のシリーズ作「Into the West」を製作総指揮している。これは、アメリカ人とネイティブアメリカ人の数世代にわたる家族のメンバーたちが、西部開拓の劇的なストーリーをそれぞれの観点から語る番組だった。2007年には、監督やフィルムメーカーを目指す人たちがドリームワークスでの企画契約を競い合う「On the Lot」という台本なしのシリーズ作が待機している。さらにFOXで放送されるリアリティ番組では、スピルバーグとマーク・バーネットが製作総指揮を務めている。

さらにスピルバーグは、慈善活動にも惜しみなく時間を費やしている。『シンドラーのリスト』製作の衝撃を機に、スピルバーグは自身の映画から得る利益を使ってライチャス・パーソンズ基金を設立。加えてサバイバーズ・オブ・ザ・ショア・ビジュアル・ヒストリー・ファウンデーションを設立。同基金は5万2千人以上のホロコースト生存者の証言を記録してきた。スピルバーグは同基金のドキュメンタリー第3作目『The Last Days』(1998)の製作総指揮を務めた。同作は、1999年度アカデミー賞のドキュメンタリー賞を獲得した。2005年、同基金の集めた記録が南カリフォルニア大学に委譲された。そして新たに設立されたUSC・ショア・ファウンデーション・フォー・ビジュアル・ヒストリー・アンド・エデュケーションは、人文科学と社会科学の研究を行っている。加えて、スピルバーグは、小児医療施設、テクノロジー、病に苦しむ子供たちを勇気付けるためのエンターテイメントを兼ね備えた基金、スターライト・スターブライト・チルドレンズ・ファウンデーションの名誉会長を務めている。



■ロバート・ローレンツ(製作)

クリント・イーストウッドとは、ローレンツ自身がアカデミー賞にノミネートされた『ミスティック・リバー』(2003)を含めて、12年以上の間に10作以上でタッグを組んでいる。

最近では、クリント・イーストウッドのアカデミー賞ノミネート作『ミスティック・リバー』(2003)の製作とアカデミー賞作品賞に輝いた『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)、『ブラッド・ワーク』(2002)の製作総指揮を務めている。本作に加え、イーストウッドとスピルバーグと共に『父親たちの星条旗』(2006)の製作も手がけている。

ローレンツはイーストウッドの製作会社、マルパソ・プロダクションズでプロダクション、ポスト・プロダクション、マーケティング、配給などあらゆる部門の管理を担当している。現在は、アリソン・イーストウッドが監督を手がける『Rails and Ties』の企画を手がけている。同作はワーナー・インディペンデント・ピクチャー製作で2007年初頭の撮影を予定しており、ローレンツは製作を務めている。

ローレンツはイーストウッドと共に、映画制作における魅力的な人間ドラマ、現実性といったアプローチを共有し、イーストウッド作品の成功に貢献。効率的で円滑といわれるマルパソ・プロダクションズの映画製作の評判に一役買っている。

シカゴ郊外で育ったローレンツは、その後ロサンゼルスに移り、1989年に映画界でのキャリアをスタート。助監督として20作以上の作品にクレジットされ、その手腕を買われて1994年からイーストウッド作品に参加している。さらに、1993年から全米監督組合、2005年から全米製作者組合のメンバーを務めている。現在は『マディソン郡の橋』(1995)で知り合った妻メリッサと2人の子供と共にロサンゼルスに在住している。



■ティム・ムーア(共同製作)

ティム・ムーアは、本作と『父親たちの星条旗』(2006)、アカデミー賞ノミネート作『ミスティック・リバー』(2003)、アカデミー賞受賞作『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)のクリント・イーストウッド監督最新作4作の実務製作を監督している。少ないテイク数、低予算、効率の良い撮影スケジュールといったイーストウッドの映画製作スタイルを実現するために卓越した手腕を発揮し、この分野では最も高い評価を受けている。

さらにムーアは、イーストウッド以外にも、ローディー・ヘリントン監督ともコラボレートして、『殺しのナイフ/ジャック・ザ・リッパー』(1988)、『ロードハウス/孤独の街』(1989)、『コンフェッション』(1998)の製作も手がけた。

さらには、フランチャイズ・ピクチャーズ製作のスティーブ・ブシェミ監督・出演作『アニマル・ファクトリー』(2000/未)の製作や、エリー・サマハ製作『バウンティ・キッド』(1999/未)の共同製作を務めている。また、ドリームワークス/NBC製作で、アメリカ海兵隊を描いたアクションスリラー作『センパー・ファイ!海兵隊の誇りを胸に』(2001/未)のプロダクション・マネージャーやCBS製作レオナルド・ヒル製作総指揮作品「Stolen from the Heart」(2000)を手がけている。

ムーアは、UCLAでマネージメントを学んでいた当時に、ジョン・シェパードと出会い親交を深めた。その後、ふたりは『アイ・オブ・ザ・ストーム』(1991)、『The Ride』(1997)、『バーティカル・ハンガー』(2002/未)や昨年ESPYにノミネートされた『ボビー・ジョーンズ〜球聖とよばれた男〜』(2004/未)といった映画賞に輝いたインディペンデント作品の製作を手がけている。

現在ムーアは、妻のボビーと2匹の犬と共にヘルモサビーチで暮らしている。ふたりは、アメリカ国内の飼い主のいないペットに引き取り先を斡旋するアマンダ基金に積極的に取り組んでいる。



■トム・スターン(撮影監督)

『ブラッド・ワーク』(2002)に続いて、アカデミー賞ノミネート作『ミスティック・リバー』(2003)、アカデミー賞受賞作『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)の撮影監督を務めている。マルパソ・プロダクションズで20年以上チーフ照明技師を務めた後、クリント・イーストウッド自身によって撮影監督に昇格した。スターンの最近の撮影監督作品には、『ボビー・ジョーンズ〜球聖と呼ばれた男〜』(2004/未)、ジョン・タトゥーロ監督作『Romance & Cigarettes』『エミリー・ローズ』(共に2005)、『The Last Kiss』(2006)などがある。

イーストウッド作品の中でスターンがクレジットされている作品には、『スペース・カウボーイ』(2000)、『パーフェクト・ワールド』(1993)、『許されざる者』(1992)、『ルーキー』(1990)(いずれもチーフ照明技師として)、『バード』(1988)(照明コンサルタントとして)、『ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場』(1986)、『ペイルライダー』(1985)、『タイトロープ』(1984)、『ダーティハリー4』(1983)、『センチメンタル・アドベンチャー』(1982)(いずれも照明係として)などがある。

さらにチーフ照明技師として、イーストウッド監督作品のほかにも、『訴訟』(1990)、『インパルス』(1990/未)、『デンジャラス・マインド 卒業の日まで』(1995)、『The Phantom』(1996/ロサンゼルス・ユニット)、『アメリカン・ビューティー』(1999)、『ロード・トゥ・パーディション』(2002)などを手がけている。

照明係を務めた作品に、『Harper Valley P.T.A.』(1978)、『ホワイト・ドッグ/魔犬』(1982)、『トム・クルーズ 栄光の彼方に』(1983/未)、『燃えてふたたび』(1985/未)、『スペースボール』(1987)がある。そしてセカンドユニット・カメラオペレーターを務めた作品に、『シカゴ・コネクション 夢みて走れ』(1986)がある。『Running Scared』(2006)では、セカンドユニット・オペレーターを担当している。



■ヘンリー・バムステッド(美術)

2度のアカデミー賞受賞に輝いた美術監督の故ヘンリー・バムステッドは、『スティング』(1973)と『アラバマ物語』(1962)でアカデミー賞美術賞を獲得したほか、ハリウッドの歴史に残る作品を含む数々の作品の美術を手がけてきた。初期にアートディレクターを務めた作品には、『愛しのシバよ帰れ』(1952)、『トコリの橋』(1954)、『知りすぎていた男』(1956)、『めまい』(1958/アカデミー賞美術賞ノミネート)などがある。これらの作品は、バムステッドのその後の仕事のスタイルを確立した。

2度のアカデミー賞受賞作のほかに、バムステッドが美術を手がけた作品には、『Knock on Wood』(1954)、『がちょうのおやじ』(1964)、『トパーズ』(1969)、『シノーラ』『荒野のストレンジャー』『スローターハウス5』(いずれも1972)、『フロント・ページ』(1974)、『華麗なるヒコーキ野郎』(1975)、『ヒッチコックのファミリー・プロット』(1976)、『スラップ・ショット』(1977)、『セイム・タイム、ネクスト・イヤー』(1978/未)、『House Calls』(1978)、『リトル・ロマンス』(1979)、『ガープの世界』(1982)、『リトル・ドラマー・ガール』(1984)、『デスティニー 愛は果てしなく』(1988)、『ファニー・ファーム 勝手にユートピア』(1988/未)、『彼女のアリバイ』(1989/未)、『ゴースト・パパ』(1990)、マーティン・スコセッシ監督作『ケープ・フィアー』(1991)など多数にのぼる。

イーストウッドのマルパソ・プロダクションズとの共同で、バムステッドが美術を手がけた作品には、『許されざる者』(1992/アカデミー賞美術賞ノミネート)、『パーフェクト・ワールド』(1993)、『ヘンリエッタに降る星』(1995/未)、『目撃』(1997)、『真夜中のサバナ』(1997)、『トゥルー・クライム』(1999)、『スペース・カウボーイ』(2000)、『ブラッド・ワーク』(2002)、『ミスティック・リバー』(2003)、『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)、『父親たちの星条旗』(2006)があった。

本作が、バムステッドの遺作となった。



■ジェイムズ・J・ムラカミ(美術)

クリント・イーストウッド監督作『真夜中のサバナ』(1997)では名美術監督ヘンリー・バムステッドと組み、同じくイーストウッドの名作『許されざる者』(1992)にはセット・ディレクターとして参加した。

デビッド・フィンチャー監督の『ゲーム』(1997)ではスーパーバイジング・アート・ディレクターを務め、人気TVシリーズ「Deadwood」(2005)ではアート・ディレクターを務めている。伝説的な作品『カムズ・ア・ホースマン』(1978/未)、『地獄の黙示録』(1979)でアシスタント・アート・ディレクターとしてキャリアをスタートさせたムラカミがアート・ディレクターを務めたそのほかの作品には、『ウォー・ゲーム』(1983)、『ビバリーヒルズ・コップ』(1984)、『ミッドナイト・ラン』(1988)、『レリック』『ナッシング・トゥ・ルーズ』(共に1997)、『エネミー・オブ・アメリカ』(1998)などがある。また、『アイ・ラブ・トラブル』(1994)、『真夜中の出来事』『ポストマン』(共に1997)、『プリティ・プリンセス』(2001)、『スコーピオン・キング』(2002)、さらにTVシリーズ「チャームド〜魔女3姉妹」(2000)などでセット・ディレクターを担当した。



■ジョエル・コックス(編集)

30年以上にわたり、『父親たちの星条旗』(2006)、『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)、『ミスティック・リバー』(2003)、『ブラッド・ワーク』(2002)、『スペース・カウボーイ』(2000)、『トゥルー・クライム』(1999)、『真夜中のサバナ』『目撃』(共に1997)、『マディソン郡の橋』(1995)、『パーフェクト・ワールド』(1993)、アカデミー賞編集賞受賞作『許されざる者』(1992)といったクリント・イーストウッド作品の編集を担当している。

コックスはキャリアの全期間にわたって、ワーナー・ブラザース映画作品、特にイーストウッド作品にかかわってきた。イーストウッドとのつながりは、コックスが『アウトロー』(1976)の編集助手を務めた1975年に始まった。それ以来、クリント・イーストウッドが主演、製作、監督のさまざまな組み合わせでかかわった作品20本の編集を手がけてきた。

コックスが師と仰ぐ著名な映画編集者フェリス・ウェブスターとの共同編集を手がけた作品には、『ダーティハリー3』(1976)、『ガントレット』(1977)、『ダーティファイター』(1978)、『アルカトラズからの脱出』(1979)、『ブロンコ・ビリー』(1980)、『センチメンタル・アドベンチャー』(1982)がある。

『ダーティハリー4』(1983)で1本立ちの映画編集者となり、以降は独自のタイトルを保って、『タイトロープ』(1984)、『ペイルライダー』(1985)、『ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場』(1986)、『バード』『ダーティハリー5』(共に1988)、『ピンク・キャデラック』(1989)、『ホワイトハンター ブラックハート』『ルーキー』(共に1990)の編集を手がけている。



■ゲイリー・D・ローチ(編集)

名映画編集者ジョエル・コックスのもとで、『真夜中のサバナ』(1997)、『トゥルー・クライム』(1999)、『スペース・カウボーイ』(2000)、『ミスティック・リバー』(2003)、『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)などのクリント・イーストウッド監督作に編集助手として参加。さらに、『キャットウーマン』(2004)、ドキュメンタリー「Monterey Jazz Festival: 40 Legendary Years」(1998)、TVの「Eastwood After Hours: Live at Carnegie Hall」(1998)、ミニシリーズ「The Blues」(2003)などでも編集助手を担当。TVの「Budd Boetticher: A Man Can Do That」(2005)、短編映画『Fuhgeddaboutit』(2006)などでは編集を担当している。


■デボラ・ホッパー(衣装)

『タイトロープ』(1984)で女性キャストの衣装スーパーバイザーを担当して以来、クリント・イーストウッドとは20年以上の親交を温めている。その後も、『ペイルライダー』(1985)、『ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場』(1986)、『バード』『ダーティハリー5』(共に1988)、『ピンク・キャデラック』(1989)、『ルーキー』(1990)の女性キャスト用衣装デザイナーを手がけている。その後は、衣装スーパーバイザーとして『目撃』『真夜中のサバナ』(共に1997)、『トゥルー・クライム』(1999)を担当し、衣装デザイナーとしては本作に加えて、『ブラッド・ワーク』(2002)、『ミスティック・リバー』(2003)、『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)、『父親たちの星条旗』(2006)を手がけている。

また、1950年代を舞台にしたテレビ映画「Shakedown on the Sunset Strip」(1988)の衣装でエミー賞を受賞している。衣装スーパーバイザー、女性用衣装スーパーバイザーとしてのクレジット作には、『氷の微笑』『チャーリー』(共に1992)、『Exit to Eden』(1994)、『わかれ路』(1994)、『ショーガール』『ストレンジ・デイズ 1999年12月31日』(共に1995)、『狼たちの街』(1996)、『ゴッド・エージェント』(1996/未)、『ホーンティング』(1999)、ほか多数ある。

ホッパーは、ブロードウェイ巡業作品、アイスショー、シンシナティ・オペラ、シンシナティ・バレエ・カンパニーの衣装デザインでキャリアをスタートさせた。その後、地元シンシナティからサンフランシスコへ移ったホッパーは、サンフランシスコ・オペラ・アンド・バレエ・カンパニーの衣装部門に参加。4年間の在籍期間中には、ビバリー・シルズ、ルチアーノ・パヴァロッティといった国際オペラスターやサンフランシスコバレエ団をはじめ、ミハイル・バリシニコフ、スザンヌ・ファレルといった有名バレエダンサーの衣装を手がけた。故郷に戻ったホッパーは、テレビのミニシリーズ「遥かなる西部 わが町センテニアル」(1978〜1979)のロケーション裁縫師をした後、程なくしてイーストウッドのマルパソ・プロダクションズに参加し、現在に至っている。