■「しんゆり映画祭」実行委員長インタビュー
(1998年10月11日(日)実施)


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 このインタビューは、10/11(日)映画祭最終日に独占で行われたものである。武重氏は、1の質問に対し3や4まで丁寧に答えようとする、とても温かく紳士的な人物であるとの印象をもった。ここでは、映画祭の舞台裏から映画祭のある1つの理想的な姿にいたるまでが語られているような気がしている。だが、私はむしろ、映画祭そのものより、その実行委員長の人柄的な側面が少しでも伝えられればと考えた。小さな規模で行われる映画祭というものは、関わった人達の性格や人間性が映画祭全体に連動する。それが実行委員長となればなおさらだからである。

以下、(A)が武重邦夫氏


(Q) 最終日でお忙しいところ、時間をつくっていただいてありがとうございます。早速ですが、今回で「しんゆり映画祭」は4回目ですね。

(A) はい、そうです。

(Q) パンフレットにも書かれていたのですが、今回は、実行委員長ご自身の念願だった「市民プロデューサー」を立てて運営されている、完全に市民プロジェクトで開催された映画祭ですよね。

(A) はい。

(Q) 毎回つきまとうことではあると思うのですが、今回の苦労話などからまず、お聞かせ願えればと思います。

(A) 今年は4回目。で2回目から市民の人にボランティアとして来ていただいているわけですね。最初の年は、そりゃまぁ、なにもわからない。それから3回目が2年目ですよね。そこで2年やると、大体のことがわかる。私の中では、私達は映画学校(武重氏は日本映画学校の講師である)の人間であって作り手ですから、自分達がつくったものを多くの人達に見てもらうのは当り前ですけど、それを、市民の人達が作ると映画祭の質というものも色々違ってくるんじゃないか、ということもあったのね。専門家や代理店が作るんじゃなくて、市民感覚の中でやれば、市民文化にも反映してくるしね。

 で、市民文化と言ったけれども、実際10年前までは狸や狐がいた町でしてね、なんにもなかった。で、バブルの頃に集まってくるわけだよね。そうやって集合してきた土地というのは、いってみれば都会人は勝手であるし、そこに住みながら、自分は東京の職場に依存してるって感じを持っているんじゃないかと思うんですよ。ところがやはり、自分が住んで子供達が育つ場所はここであるしね。住むんならば、面白くなきゃつまんないだろうと(笑)私はそう思うのね。市民の人達もそう思って集まってくれたんだと思うんですよ。ですから、市民がやっぱり運営していくのが一番良い。これ主催は川崎市ですから、なお行政にやらせないように、なお市民でやるんだと。自分達でつくれば何かが変わってくることも実感できる。どこかの言いなりになったら、何にもできないよね。そこが一番のポイントですが。で、今年開催したところ大成功でね。

(Q) プログラムなども市民プロデューサーが組まれたんですよね。

(A) プログラム・プロデューサーだけじゃないですよ。宣伝から美術から、大変な作業を10人ぐらいのパートでやった。言ってみりゃ食事の関係まで、市民の方がリーダーになってチーム作ってやるわけ。そういう意味では大成功だったかもしれないね。

(Q) 私たちも取材させていただいて、市民の方が一体となって作りあげた映画祭という感じを強く受けました。市民が作る市民のための映画祭。映画を全ての市民の人達に区別なく楽しんでもらおうという部分を強く感じまして、それで企画を拝見した時に「バリアフリーシアター」というのが目に入って来たわけです。今回、2日間行われたわけですが。

(A) バリアフリーに関してはね、去年私たちが映画祭をやった時に、目の見えない人の団体から、私どもに電話があったのね。それで話を聞いてみると「映画が見たい」と。どういう方法があるかといえば、イヤホンでト書きを送る、アクションを送るとか。その表現だって難しい。でも、とにかくわからないけど、一度実験してみようということで、去年やってみたんです。それでまぁ、自信がつきまして、今年本格的に踏み切ってみようかと。それで2日間やりました。たけしさんの「HANA-BI」と「ラジオの時間」。とってもうまくいきました。ただね、途中で後悔したこともあった。

(Q) といいますと。

(A) はじめは前売券が売れなくて。もしかしたら「バリアフリー」という名前が一般の人を入れなく入れなくしちゃったんじゃないか、そういう風にも考えたわけですよ。それで来年は「バリアフリー」という名前はやめて、一般の所でやって、その人達も見られるというのが理想かなぁって思いましてね。それで今年は失敗というつもりでフタを開けたら、30〜40人ぐらいの客と思ってたところへ160人ぐらいの人が来て、それで非常によいトークも行われましてね。うれしかったですよ。涙が出るくらい嬉しくて、プロデューサーの女の人なんて、終わったら足、ガクガク来てね。

(Q) この成功というのは非常に意味がありますよね。

(A) 「バリアフリーシアター」というのは、僕が映画活動をやってきた勘なんですけどね、日本映画の業界はやっぱり努力してなかったと思うんです。ハリウッドは随分努力したが…。その1つに、観客というものをどう考えているかといったことを、ものを作る側とか製作サイドはあまり考えていなかったりね。たとえば、車椅子の人とか障害をもった人も、劇場で一緒に見られれば、数百万の人が観客に加わってくるわけだよね、これは。大変なことですよ。これから高齢化社会になっていくしね。

 僕はあまり人助けとかいったことでやりたくないのね。やはり、僕らと同様、彼らには見る権利があるし、僕らだっていつ車椅子が必要になるかわからない。だから、全ての人達が一緒に見られる機会を作っていく。そうすれば、日本映画にとってもいいと思うしね。私はそういう考えでやっているわけですけど、実際に動いてくれるのは市民の人達ですから、生活人とか社会人としての使命感とかモラル、いろいろなものが作用して一生懸命飛び歩くのでね、そりゃあもう、僕なんか頭がさりますね。彼女達の努力があって、はじめてみんなが見にこられる。

 大体ね、障害者っていうのは、1日とか2日とか1ケ月の入院じゃないわけだよね。毎日がそうなんだな。僕なんか3日も痛かったらもう死にたいと思っちゃう。それが一生続くとなるということはね、すごい戦いをしてるわけだよね。だから勇者だと思うんだな。僕なんかより勇者だと。そういう勇者が見たいと思う映画を彼らが見られないのは、我々の怠慢だと思うんだね。それでも今回は、僕が、というよりむしろ障害者の方のほうから接触があって、それを受け手として市民の方々が新感覚でそれを受けとめて、実行に踏みっ切ったと。その線が成功につながったんだけど。でも、まだ150人ぐらいじゃ少ないですよね。だから、僕の思いでは、映画祭の時もやるけど、これを1つのスタートにして、1年間をまわすように、3ケ月に1回とかできるようになればね。マイカルさんともそういう話をしています。日本の興行界よりもずっと反応が早い。彼らはまず、はじめにお客さんですから。スーパーというのは、映画界よりも競争が厳しいですから、客に対する部分でも凄く磨かれているんだ。だから、マイカルさんは今年中に全国の劇場にイヤホンを入れるというように具体的だ。

(Q) それは素晴らしいですね。来年の「バリアフリー」は今年よりも充実しますね。

(A) イヤホン入れただけじゃむろんできないから、それを読む人とかね。そういう手間も掛かる。決して簡単じゃない。ただ、僕らは今年、やったという自信がある。いつでもやれる自信がある。3年後に今ある企画のヤングシネマ部門が独立して「かわさき国際映画祭」となる。それで、「しんゆり映画祭」と二重構造になっていく。「バリアフリーシシター」は「しんゆり映画祭」の1つの特色になるだろうな。それで、これは市民映画祭だから、この「バリアフリー」と今年からの「しんゆり名画座」の2つを軸にして行けばいいかなと。

(Q) なるほど。この「バリアフリー」に関しては、今年は2日間だけでしたけど、来年は日数的にも?

(A) まあ、一緒にね。

(Q) 一緒、といいますと?

(A) 本当はもう「バリアフリー」って付けなくてもいいかもしれない。この番組はイヤホンで見られますよと。車椅子の人もマイカルさんは入れるし。

(Q) 確かに。一緒に見られる状況があるわけですからね。

(A) つまり、彼らは特別なことはされたくないんだよ。普通にされたい。そこのところ解ってあげて、彼らに答えてあげたいとそれは思いますね。とりあえず、「しんゆり映画祭」では「バリアフリー」は「21ホール」というところでやるんですが、そこでも、来年はいくつかの番組をイヤホンサービスするようになるから、面白い映画祭になるんじゃないかな。

(Q) 先ほど、お話にチラっと出たんですが、今年からもう1つの新しい企画として「しんゆり名画座」も始まったわけですよね。昨日、座談会を取材させていただきまして、その中でも語られていたのが、都内の名画座はどんどん減って本当に数少ない名画座しか残っていないということでした。これは現状ですね。で、名画を上映する劇場が減ってきた状況と、日本映画に客が足を運ばなくなってきた状況、何かこれは連動しているのではないかという気がするんです。もちろん、ビデオに押されてというのもありましたが。それで、今回の企画を見たときにおやと思ったんです。

(A) 時代と逆行したことを、しんゆり映画祭はやる(笑)

(Q) (笑)でも、私はすごく賛同できる試みだと思ったんです。たとえば、映画学校というものがここにある。そこで、毎週、古典映画とかを上映なさってたりもしますよね。

(A) はい。一学期の間、ずっと。

(Q) この名画座と映画学校で上映していることの意味が、なにか重なり合うような気がするのですが。

(A) 面白いこと言うね。あなたが言うように東京の名画座が潰れているよね。原因はいろいろある。その1つとしてフィルムが借りられない。貸さないんだよ。我々は1回だから無理して高い値段で借りるけど、これが名画座なら採算が合わない。そういうことが1つの原因になってるわけ。

 それから、この間、マーチン・スコセッシが今村昌平の『カンゾー先生』に手紙を送ってきたわけ。彼はその中で、映画というものはハリウッド映画だけではなく、そうじゃない映画もあるんだと。そして、若い人は古い映画から学ばなければダメなんだと書いてきた。僕らは「カンゾー先生」上映の日にそれを掲示しましたけれどもね。つまり、映画っていうのは、時代を越えた資産なんだよ。僕が若い時、子供のころ『七人の侍』を見てるわけ。で、大学を過ぎても見たし、今だって見る。アメリカ版の英字スーパーがついてのなんかも見るわけね。そういうふうに、映画っていうのは、時代を越えた共通の資産なんですよ。いくら時代が新しいものに変わったからといって、その世代に、その時代のものしか見せないってのは怠慢なんだよね。あれだけの先輩達が、しかも映画の黄金時代って時に作ったものを、やはり僕は見せていく必要があると思う。見れば面白いんだから。それで、この街の人達に、そういう「ロース」をっていうのかな、地球上には、いろいろな文化のすばらしい「ロース」がまだ一杯あって、それをごちそうしたいと。食卓を共通にすることで、お互いがもう少しいろいろなことを考えたり、寄ったりできるんじゃないかなと。

(Q) そのお話で、映画祭を市民、そして街が一丸となって作っているという部分が、より見えてきますね。

(A) 僕は映画だけだと思ってないわけ。ここは、へたすりゃ都会砂漠になっちゃうっていうことだ。住んで、寝て、ショッピングするだけっていう。それだけじゃ、つまんないものね。もっとこうエキサイティングな、ここにくることが、胸がときめくという街にならないかと思うんだよね。まだヤクザも入ってないしね(笑)。まだ、今なら間に合う。まあ、べつに居てもいいんだけど(笑)。街っていうのはいろんな人が接触して生きてるわけでね。とにかく、そんなことを考えたりしてね。だから、演劇とか、音楽とか、伝統芸能なんかも、この街では小さくやってんだよ。で、そういうものも、オープンにここで公開しようじゃないかと。映画祭にも出てもらおうと。そうやることで面白くしたいんだ。

 文化っていうのは、いろんなヒトが集まってなにかをする。基本的にはそういうものだと思ってるんだ。それがこの街でなら出来るような気がするんだよ。ここにはいろんな人達が居て、心のある人達が多いんだよ。で、そういう人ばかりになれば面白い。

(Q) それで様々な国から人が集まって、一緒に映画祭を盛り上げてくれる。

(A) 盛り上げてくれるだけじゃなくて、世界中の若い人たちが出合って一緒に何かを作り上げる。それが一番の目的だよね。街もそりゃエキサイトしますよ。若い連中がアフリカから来たりね。僕が生きてるうちにそこまで持っていけたらいいなって思ってるのね。  今回の映画祭には、昨日、インドの人達が来てインド映画やってましたけど、あの、インド映画の見方は面白いですよ。拍手したり、口笛ふけっていう。やっぱり、そういうの見るとやりたくなるもんね。みんなやるものね。

(Q) 昨日は現に、それが起こりましたものね。あれは、1つの映画祭の本質といいますか、そういったものが劇場中に溢れていたような気がしました。映画祭ってお祭りですからね。

(A) そうそう。都市ではそういう祭りがどんどんなくなってきている。だからといって、古い祭りを今さら持ってきてもしょうがない。だったら自分達で作る。自分たちでやってるうちに出来てくるもんだよ。やってるうちにいろんな人と出会うことが出来る。出会っていい意味で自分が変わったりする。僕はお祭りっていうのは、人と出会えることがお祭りだというふうに思うところがあって。

(Q) そうですね。コミュニケーションからしか生まれないものですものね。そういう意味でもこの「しんゆり映画祭」というのは、市民の方々がベースとなって作り上げた、祭りらしい祭りということでも非常にわかりやすいのですが、1つだけ、他の映画祭に見られない側面があると思うんです。それは、実際に映画を製作している現場の方々、監督さんをはじめ、スタッフの方々も全面的に協力しているということですが。そういう映画祭というのも非常に珍しい。

(A) まあ、小田急線というところは映画のスタッフが多いんですよ。それに、映画屋って映画好きなのよ。映画のために市民が努力してなにかをしてくれてるのを見ると純粋にうれしいのよ。特に映画の技術者ってのは、無類の映画好きだからね。うれしいんだよ。だから市民と同じスタンスで参加している。一緒に同じ方向に向かってるってだけだよ。

(Q) そういう意味では、市民スタッフとなんら変わらないわけですね。

(A) そうです。

(Q) 話は少し変わりますが、映画祭を今まで、今回も含めて4回開催していらしたわけですが、お客さんの数は、前回などと比べて如実に違うわけですか。

(A) 圧倒的ですよ。初回は、日数も少なかったし、私と市役所の人間でやってて、それを映画学校がバックアップしてという感じでね。でも、市民が参加するようになって観客が増えてきたし、ゲストだって、今回、5日間で、50人近くですからね。だから、労はいくら多くても、みんな若いからしのげる。それで見返りになる面白さっていうのかな、お金じゃない見返り、面白さということだけど、それは確実にお客の数にも反映されてるんですよ。楽しそうそうな、面白そうなとこには人が集まるんです。

(Q) そうですね。現に私もここにいます。それで、最終日で、まだ映画祭はクローズしたわけではないんですけれど、最後にお聞きしたいのは、もちろん、来年も開催されると思いますが、来年への抱負と、もしも、新たな企画など実行委員長ご自身の中にありましたら、お願いしたいのですが。

(A) まだまだ、これから(笑)。これから会議開いていくんですけど。だいたいね、ヤングシネマというのは、日本から始まって、東南アジアにいったんですよ。それで、今年はじめてインドの映画が入ってきた。これは、インドの監督さんを呼んだわけではなくて、映画を上映して、インドの若者達に来てもらったりして。で、僕はアジアのメンタリティーっていうところをこの「しんゆり映画祭」でやっていけたらと思う。それで、僕個人の考えとしては、やはり、イラン、イラク。それから上はシベリアあたりまで、ウズベキスタンとかも。そういうところの人たちにも参加してもらって、そういうところの映画を見ていく。実現するかわからないけどね……。

(Q) 是非実現してください。来年の映画祭も期待しています。今日はありがとうございました。

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