テックス・エイヴリー略歴・フィルモグラフィー
◆1908年2月26日テキサス州ダラス生まれ。本名はフレデリック・ビーン・エイヴリーで“殺し屋判事ロイ・ビーン”の遠縁という。
◆'29年にカリフォルニアへ移り、'30年にフレッド・エイヴリーの名でポール・テリー(フォックス)のアニメーターとなり、「子犬のパディ」シリーズを手がけたのを皮切りに、'32年にはウォルター・ランツ(ユニヴァーサル)のもとで「うさぎのオズワルド」シリーズを、'33年にはチャールズ・ミンツのもとで「クレージー・カット」(Krazy Kat)シリーズなどをアニメートした。
◆'35年にWBの漫画スタジオへ入り、チャック・ジョーンズ、フランク・タシュリン、ボブ・クランペットらと共に(フレッド名義で)演出を担当、「バッグス・バニー」などのキャラクター作りに参加し、シリーズの何本かを演出した。
◆良き理解者レオン・シュレシンガーのプロデュースのもと、後に「カフカを読んだディズニー」と評される鬼才テックスのセンスが最初に開花した時期で、映写機のアパーチャーにゴミがひっかかったような画面を描き、映写技師をうろたえさせるといういたずらギャグも、この時期に生まれた。
◆'42年にMGMを去り、テックス・エイヴリーと改名。「犬のドルーピー」「狂暴リス」などのシリーズを含む65本を演出するが、コチコチのビジネスマンであるプロデューサーのフレッド・クインビー(1886〜1965)が彼の作風を理解しなかったため、WB時代の2倍の予算で作りながらも、気分は愉快ではなかったらしい。そんなせいもあってか、当初は文字に依存した自意識ギャグや楽屋落ちも目立つが、次第にふっ切れて本領を発揮『呪いの黒猫』(49)を頂点に、『太りっこ戦争』など奇想天外のアイディアとギャグの連発でWB時代を凌ぐ活躍を見せた。
◆'54年にMGMを去り、再びユニヴァーサルのウォルター・ランツのもとでペンギンの「チリー・ウィリー」シリーズなどを手がけるが、'56年ついに劇場用カートゥーンから引退。カリフォルニアのカスケードのスタジオでコマーシャル・アニメに専念するが、その間に、テレビで放映された彼の旧作が熱烈なファンや研究家を育てた。
◆'74年にASIFA(国際アニメーションフィルム協会)からアニー賞を受賞。'78年ごろ、コマーシャル・フィルム・スタジオを閉鎖。'79年に、ハナ&バーベラ・プロで二つのテレビ・シリーズを担当。'80年8月26日にガンでこの世を去った。
◆そのあまりに強烈な個性のため、アカデミー賞に何度かノミネートされながらも、一度も受賞しなかったテックス・エイヴリー。自分の私生活までギャグ化して、人をケムにまくという徹底ぶりに狂喜したシュルレアリスム派の評論家たちが、ようやくテックスと対面したとき初めて、彼の片方の眼が視力を失っていたことを知ったという。
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