『ヒマラヤ杉に降る雪』/"SNOW FALLING ON CEDARS"






ヒマラヤ杉に降る雪 (ユニバーサル・セレクション2008年第10弾) 【初回生産限定】 [DVD]
2000年4月1日より日比谷みゆき座ほかにて公開

1999年/128分/ユニヴァーサル映画/ハリー・J・アフランド=ロン・バス・プロダクション/ケネディ=マーシャル・プロダクション/スコット・ヒックス・フィルム/ビスタ・ビジョン/UIP配給/翻訳:戸田奈津子

◇監督:スコット・ヒックス ◇脚色:ロン・バス、スコット・ヒックス ◇原作:デビッド・グダーソン ◇製作:ハリー・J・アフランド、ロン・バス、キャスリーン・ケネディ、フランク・マーシャル ◇撮影:ロバート・リチャードソン、A.S.C. ◇美術:ジニーン・オプウォール ◇編集:ハンク・コーウィン ◇音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード ◇衣装デザイン:レネ・アーリック・カルフェス ◇キャスト:イーサン・ホーク、工藤夕貴、リーブ・カーニィー、鈴木杏、リック・ユーン、マックス・フォン・シドー、ジェームズ・レブホーン、ジェームズ・クロムウェル、アリジャ・バリキス、エリック・サル、シリア・ウェストン、ダニエル・フォンバーゲン、サム・シェパード





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【解説】

◆降りしきる雪が 全てを包み隠そうとも 真実は埋もれない…
 数々の賞に輝いた世界的ベストセラーの映画化


しんしんと雪が降り積もる。切々と愛が蘇る。これは、一つの裁判をきっかけに再開した、男と女の物語。歳月を経て複雑に重ねられた二人の愛の断層が、ある殺人事件を媒介に、哀感と叙情を込めて描き出される。

数々の賞に輝き、30か国で読まれたベストセラー小説を、あの『シャイン』で世界中を感動させたスコット・ヒックス監督が映画化。戦争という大きな時のうねりの中で引き裂かれた、アメリカ人青年と日系人の娘の心の軌跡を、美しいフラッシュバックで謳い上げていく。男は故郷で新聞記者になった。彼がかつて愛した女は、今は、第一級殺人に問われた被告人の妻だった。一人の漁師の怪死をめぐる裁判を軸に、複雑に絡み合う過去、裁かれる今、守るべき愛が、鮮明にえぐり出されていく。失われた愛のありかを求め、それぞれの孤独と沈黙の中で喘ぐ主人公の姿が、深い感動を呼び起こす。


舞台はワシントン州北西部の小さな湾に浮かぶ、人口5千の移民の島。幼い頃、イシュマエルとハツエは、ヒマラヤ杉の洞で愛を育んだ。だが、青い目に優しい光をたたえた少年と、黒髪の美しい日系人の少女の秘密の時は、太平洋戦争の勃発と共に打ち砕かれた。強制収容所へ送られたハツエは、同じ日本人の血を持つカズオと結婚する。それは、イシュマエルとの永遠の別れを意味していた。その二人が、戦後9年を経た今、ハツエの夫カズオの裁判で再会した。被告席の夫を見守るハツエ。その背中に、傍聴席から見下ろすイシュマエルの視線が突き刺さる。過ぎ去った日々の想い出は美しく、別れの記憶は重くのしかかる。外は、数十年ぶりの猛吹雪。その時、イシュマエルは、ポケットの中で、取材中に見つけた、事件の真相に迫る“あるもの”を握りしめていた。

新聞記者イシュマエルには、『大いなる遺産』のイーサン・ホーク。過去に縛られた主人公の苦悩を抑えた、しかし、力強い演技で描き出し、俳優として大きな前進を見せている。イシュマエルの昔の恋人、日系人のハツエには、『ピクチャーブライド』などで国際的に活躍する工藤夕貴。監督の指名でこの大役に抜擢され、アメリカのメジャー作品での本格的初主演を飾った。この若手スターを経験豊かな助演キャストが支える。『ペレ』でアカデミー賞主演男優賞候補に上がったマックス・フォン・シドーが弁護士、『将軍の娘/エリザベス・キャンベル』の将軍役を演じた個性派俳優のジェームズ・クロムウェルが判事約で出演。イシュマエルの父で、島で新聞社を営むアーサーには、俳優・演出家・脚本家として活躍するサム・シェパードが扮している。怪死した漁師の母親エッタ・ハインを、『デッドマン・ウォーキング』などのシリア・ウェストンが演じている他、リチャード・ジェンキンス(『アメリカの災難』)、ジェームズ・レブホーン(『アンカーウーマン』)らが出演。また、ハツエの夫カズオ役で、モデル出身のリック・ユーンがスクリーン・デビューを果たした。

この作品は、回想シーンの中にさらに回想シーンが登場する上、何人もの心象風景が錯綜する複雑な構成になっている。少ない台詞と鮮やかにさばかれた映像が、過去と現在を巧みに結び、製作陣の力量を感じさせる。監督は、オーストラリア出身のスコット・ヒックス。96年、『シャイン』でアカデミー賞の7部門にノミネートされ、一躍、国際舞台に躍り出た。人の心の琴線に触れる映画作りの手法が、本作でも十分に生かされた。原作は94年にデビッド・グターソンが発表し、ベストセラーとなった長編小説「Snow Falling on Cedars」。アメリカで400万部以上を売ったこの小説は、日本では「殺人容疑」というタイトルで発売されている。今回はグターソン自身が、ヒックス監督、そして、『レインマン』でアカデミー賞脚本賞を受賞したロン・バスと共に脚本化した。

製作は、スティーブン・スピルバーグの右腕だったキャスリーン・ケネディ(『シンドラーのリスト』)とフランク・マーシャル(『生きてこそ』の監督)、『母の眠り』のハリー・J・アフランド、そして、脚本も共同執筆したロン・バスの4人。撮影は『JFK』でアカデミー賞撮影賞を受賞したロバート・リチャードソン。編集には新世代を代表するハンク・コーウィン(『モンタナの風に抱かれて』)を起用した。美術は『L.A.コンフィデンシャル』でアカデミー賞美術賞候補に上がったジニーン・オプウェール。音楽は、『ベスト・フレンズ・ウェディング』『素晴らしき日』などで5度アカデミー賞候補に上り、最近は『シックス・センス』も手掛けたジェームズ・ニュートン・ハワードが担当。日本的な曲調を取り入れ、ドラマ性を高めている。愛、戦争、裁判という魅力あるドラマの要素を確実に映像化するため、ロケ地には何よりも詩情が求められた。サン・ピエドロ島の架空の漁村風景には、主に、カナダのブリティッシュ・コロンビア州にある人口800人の小さな町グリーンウッドで撮影された。



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【プロダクションノート】

●ベストセラー小説誕生の背景

原作の「殺人容疑」(講談社刊)は、高校教師だったデビッド・グターソンが、10年の歳月をかけて書き上げた長編小説だ。1994年に出版されると、たちまちベストセラーとなり、権威あるペン/フォークナー賞を受賞した。1941年12月8日、日本はハワイの真珠湾を空襲して米英両国に宣戦し、太平洋戦争に突入した。そんな中、アメリカ国内では、日系移民に対する妄想や疑惑が広がっていった。まもなく、政府の命令で、日系人は収容施設に送られ、終戦までそこに留められることになった。この小説の舞台のモデルとなったのは、グターソンが15年間過ごしたピュージェット湾のベインブリッジ島だ。実際、この島の日系住民は、戦時中、強制収容された。グターソン自身は戦後生まれだが、ある時、「人は他人の不幸に無関心だ。毎日、罪のない人々の身に恐ろしいことが降りかかっている時に、自分たちはどう行動すべきなのか?」という思いを抱いた。この小説は、時代や背景を超えて、そんな疑問を私たちに投げかけている。


●原作に魅入られたヒックス監督

スコット・ヒックス監督は、原作の「複雑に絡み合ったストーリーと、濃厚な雰囲気を持つ舞台の組み合わせに心を奪われた」と話す。「グターソンは、なんて驚くべき閉ざされた世界を作り上げたのだろうか。猛吹雪の冷たさに、法廷のむせ返るような熱気。映画なら、そういうものをうまく表現できると思った」という。しかし、ユニヴァーサル・スタジオが先に映画化権を買い取ってしまったため、ヒックスは大いに落胆した。一度はこの作品をあきらめたが、それから一年以上たって、『シャイン』の成功で名を馳せた彼に、ユニヴァーサルから監督依頼の話がまわってきた。ヒックスが、喜んでOKしたことは言うまでもない。


●工藤夕貴、ハツエ役をゲット!

この物語を映画化するには、何よりも実力のあるキャストが必要だった。キャスティングには、実に10か月を要した。中でもハツエ・ミヤモトの役はキーになるだけに、一番難しかった。最初に、工藤夕貴に目を留めたのは、ヒックス監督の妻で、本作でアソシエイツ・プロデューサーを務めたケリー・ヘイセンだった。オーストラリアのブラック・コメディ『Heaven's Burning』に出演していた工藤を見て、これはいけると思い、監督に提案。監督は、すぐに『ピクチャー・ブライド』と『ミステリー・トレイン』を見てみた。そして、ハツエ役は、彼女で決まりだと確信した。「夕貴が、ハツエ役は自分のものだと主張しているように見えた。彼女には独特の感覚があって、役柄の内側に入り込み、正確に奥深く把握する。この才能には目を見張るものがある」とヒックス監督は語っている。


●イーサン・ホークは語る

イーサン・ホークは、原作を読んで、是非、イシュマエル役を演じたいと願った。「過去と未来を描きながら、すべての登場人物の姿を完璧に捉えた作品だし、ミステリアスでロマンティックな物語だと思った」と言う。撮影が始まる少し前、恋人のユマ・サーマンとの間に子供ができることがわかった。彼は撮影中に父親になり、クランク・アップ後に結婚。これはホークにとって、「人生で最も幸せなな時に撮った映画になった」という。ハツエへの思いに苦悩するイシュマエル役は、そんな実人生とは裏腹に、決してハッピーな役柄ではなかったが、ホークは、「撮影中はドラマにどっぷりつかって、それがかえって楽しかった」と語っている。


●謎解明の複雑な構成

ヒックス監督は、「映画全体の謎を明らかにするプロセスを描いている」と語る。「見かけ通りのものはひとつもない。だから、いっぺんにではなく、すこしづつベールをはいでいく。これが、全体の構成上の原則だった」。物語上の“現在”は、1950年代のカズオ・ミヤモトの裁判の時点だが、登場人物それぞれがフラッシュバックの形で、およそ20年の時をさかのぼる。監督は「海で起こったこと、戦争中に起こったこと、ハツエとイシュマエルの間に起きたこと…いくつかのミステリアスな事がらの真相が、次第に解き明かされていく。私は、異なった時間枠を継ぎ目なく、スムーズに動かしたかった。ケーキを切り分ける時、ナイフがケーキの中をすーっと通るように」と言う。そのため、時にフラッシュバックの中に、さらにフラッシュバックが登場するが、名脚本家ロン・バスの腕と、監督のきめ細かい演出、そして編集といったスタッフのチームワークによって、過去と現在がどのように関連し、影響しあっているのか、実に鮮やかに描き出されている。


●アメリカ、カナダのロケ地に歴史を再現

美術のジニーン・オプウォールは、ロケハンに数カ月を費やした。「非常に詩的で、ビジュアル的に印象に残るようなロケ地を見つけることが重要だった」と言う。架空の漁村、サン・ピエドロには、カナダのブリティッシュ・コロンビア州にあるグリーンウッドの町が選ばれた。人口800人のこの町には古い家が多く、そのほとんどが空家か売りに出されていて好都合だった。そして、何よりもこの町には古い裁判所があった。「裁判所は他の建物から離れていて、印象的な、静かな島の雰囲気を漂わせていた」とオプウォール。港の撮影は、コロンビア川の河口に近い、ワシントン州の小さな町キャメロットで行われた。ここには風雨にさらされた船着き場が作られた。また、日系住民が島から強制退去するシーンは、ピュージェット湾の湾口にある港町ポート・タウンゼンドで撮影された。ファウンデフカ海峡を見おろす絶壁の上に位置するこの町は、魅力的なビクトリア調の街並みを有し、歴史的な波止場があった。もう一つの重要なロケ地は、グリーンウッドから北へ2、3時間のニュー・デンバーだった。近くの日系メモリアルセンター博物館の展示から、オプウォールは当時の日系人の家の様子を詳しく知ることができた。「屋根の下張り用のタール紙の貼り方や、屋根の素材、風化した壁紙などをまねした」。収容所のシーンはカリフォルニアのパールデールで撮影されたが、そこに作られた仏教の礼拝堂も、この博物館の展示からインスピレーションを得たという。


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【ストーリー】

ワシントン州北西部のピュージット湾に浮かぶ小さな島、サン・ピエドロ島。湿った強い風に晒された小さな港町を抱く丘には、ヒマラヤ杉が見事な緑を為し、その間には美しい苺畑が広がっていた。その苺畑で賃仕事をするのは、主に日系の移民たちだった。

1954年の冬。雪が降り始める頃、この島で、第一級殺人をめぐる裁判が開かれ、一人の日系人が裁かれようとしていた。その年の9月。霧の濃い海で、漁師のカール・ハイン(エリック・サル)が溺死した。死体の頭部には、何かで強く打った傷痕があった。そして、翌日、同じ島の漁師、日系二世のカズオ・ミヤモト(リック・ユーン)が殺人容疑で逮捕される。前夜、カズオは確かにカールと同じ場所で漁をしていた。そして、カールの船からは、カズオの常用しているバッテリーが発見され、逆にカズオの船にはカールの血のついた鈎竿が残っていた。弁護士のネルス(マックス・フォン・シドー)は、カールの死因が溺死である以上、頭部の傷は殴られたものとは限らないと主張したが、その傷は日本の“剣道”を連想させた。カズオにとって、いたって不利な状況だった。妻のハツエ(工藤夕貴)は為す術もなく、傍聴席から夫の背中を見つめるだけだった。


そして、もう一人、この裁判を見守る人間がいた。新聞記者のイシュマエル(イーサン・ホーク)だ。取材とはいいながら、彼の視線は、自然とハツエに向いていた。幼い日、イシュマエルとハツエは互いに心を許しあった仲だった。14歳のハツエは、黒髪の美しい少女だった。雨の日、山道を駆け抜け、ヒマラヤ杉の洞に身を隠すハツエを、イシュマエルは追っていった。初めて過ごす二人だけの時。初めて抱き寄せた肩。初めてのキス。だが、ハツエの母は、白人とのつき合いを許さなかった。それから何年も、洞の中での二人の秘密は続き、それは、少しずつ大人の愛に近づいていった。

カズオの家と死んだカールの家の間には、7エーカーの苺畑の土地をめぐって、長年のいざこざがあった。カズオの父が、息子の代になれば土地の所有を認められることを見越して、カールの父親から土地を買う約束をした。しかし、太平洋戦争が勃発し、約束の代金は途中までしか支払われなかった。約束を交わしたカールの父も死んだ。残った母エッタ(シリア・ウエストン)は、頑として土地を譲らなかった。今は、一旦、人手に渡った土地をカールが買い戻していた。その土地を改めて買い入れようと、カズオはカールに交渉を持ちかけていた。裁判では、この交渉の最中に、二人の間に諍いがあったのではないかという点が追求された。

戦争が残した傷痕は、それだけではなかった。1941年、12月。日本による真珠湾攻撃を境に、イシュマエルとハツエの関係も変わってしまった。数か月後、ハツエたち日系の住民は、全員、島を去り、強制収容所に入れられた。苦しい生活の中で、母の言う「肌の色の違い」を痛いほど感じたハツエは、イシュマエルに「あなたを愛していなかった」と書いた手紙を送る。そして、同じ色の肌を持つカズオと結婚した。一方、イシュマエルは、傷心を抱いて戦地に赴き、左腕を失った。復員後も、戦地で惨たらしく死んだ仲間たちの姿がまぶたに焼きついてはなれない。虚無感から抜け出せないままに、彼は亡き父(サム・シェパード)の残した新聞社を継いで記者になった。同じく、アメリカ人の一人として出征したカズオも、今、凍りつくような独房で、自分が殺した若いドイツ兵のことを回想する。カズオには、因果が、こうして自分の身に巡ってきたかのように思われた…。 雪はやがて吹雪となり、ヒマラヤ杉をなぎ倒す勢いだった。イシュマエルは、1929年の猛吹雪の時の記録を見ようと、灯台へと向かう。そこで、彼は、無線の通信記録から、カールが死んだのとほぼ同じ時刻に、沖合いを大型の貨物船が通過したことを知る。大型船にあおられて、カールの小さな漁船が転覆したとすれば、すべてつじつまが合う。イシュマエルはその無線記録を、そっとポケットに入れる。

この無線記録があれば、カズオの無実が証明できる。そう知りながら、イシュマエルの心は揺らいでいた。自分の愛を裏切ったハツエの夫を、今、自分が救うのか。彼の中でハツエに対する愛と憎しみが複雑に交錯した。イシュマエルは、昔、父と一緒に過ごした家に足を向ける。父は、正義の人だった。あの真珠湾攻撃の後、島じゅうにはびこった日系人に対する偏見と、一人で闘った。自分にも、そんな父の血が流れているのだろうか。 裁判は、いよいよ大詰め。カズオ自身が証言台に立ち、身の潔白を訴えた。しかし、陪審員の目には、カズオの顔は、10年前の戦争で自分たちを苦しめた、憎い“日本人”としてしか写らなかった。閉廷後、人のいなくなった傍聴席には、必死で祈るハツエの姿があった。イシュマエルは外に出ると、雪は止んでいた。深く積もった雪が、足元でザクザクと音を立てる。そして、イシュマエルは、まっすぐに歩きはじめた…。





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【キャスト&スタッフ】

■イーサン・ホーク(イシュマエル・チェンバース)

1970年11月6日、米・テキサス州オースティンに生まれ、ニュージャージー州プリンストンで成長した。地元のマッカーシー劇場で演技の勉強を開始。1985年、14歳の時に、『エクスプローラーズ』で故リバー・フェニックスと共演し、映画デビューを果たす。その後、学業にもどり、高校時代は「ロミオとジュリエット」のロミオ役をこなすなど、学生劇の舞台経験を重ねる。1989年、ニューヨーク大学入学を機に、『いまを生きる』でスクリーンにカムバックし、一躍、ティーンのアイドルになる。1990年代前半は、『ホワイトファング』(1992)『生きてこそ』(1993)『リアリティ・バイツ』(1994)などの良質な作品で、存在感をアピールした。ベルリン映画祭で監督賞を受賞した『恋人までの距離(ディスタンス)』(1995)では、若々しい演技で好評を博す。どの作品も、清潔で繊細な容姿と確かな演技力で等身大の青年を演じている。最近は、異色の近未来映画『ガタカ』(1997)『大いなる遺産』(1998)に次ぎ、ギャングに扮した『ニュートン・ボーイズ』(1998)と、役柄の幅が広がっている。その他の主な出演作は、『晩秋』(1989)『ミステリー・デイト』(1991)『真夜中の戦場』(1992・未公開)『秘密』(1992)など。『ガタカ』で共演したユマ・サーマンとの間に一児をもうけ、1998年に結婚。俳優業の他にも、劇団を主宰したり、短編映画を監督したり、小説を書いたりと、チャレンジ精神を忘れない。


■工藤夕貴(ハツエ・ミヤモト)

1971年1月17日、東京生まれ。12歳の時に芸能界入りした。1984年、小林よしのり原作の『逆噴射家族』でスクリーン・デビュー。この作品は、カンヌ国際映画祭で上映され、日本ではカルト作品としてヒットした。この作品の中で歌った曲で、歌手としてデビューも果たす。以後、7枚のアルバムを出している。また、これと前後して、第1回東京国際映画祭のヤングシネマ部門で大賞を受賞した『台風クラブ』(1985)にも出演し、新鮮な魅力を発揮した。『花園の迷宮』(1988)を経て、1990年には今井正監督の遺作『戦争と青春』に主演。ひとり2役を見事にこなし、20歳にしてブルーリボン賞、報知新聞賞などの主演女優賞を射止めた。バイリンガルの女優として海外での活躍が始まったのは、ジム・ジャームッシュ監督の『ミステリー・トレイン』(1989)から。この作品は、カンヌ国際映画祭で最優秀芸術貢献賞を受賞した。その後も、海外での活躍が続き、アメリカのインディペンデント作品『ピクチャー・ブライド』(1994)はサンダンス映画祭で観客賞を受賞。オーストラリアの『Heaven's Burning』(1997)でも高い評価を受けている。本作での演技が評価され、アメリカの映画雑誌で、“21世紀に活躍するハリウッドの女優”のひとりに数えられている。


■ジェームズ・クロムウェル(フィールディング判事)

1940年1月27日、米・ロサンゼルスで、父の映画監督ジョン・クロムウェルを初めとするショー・ビジネス一家に生まれる。カーネギー・メロン(当時のカーネギー・テク)で学んだのち、クリーブランド・プレイハウスなどで実験劇からシェイクスピア劇まで、様々な舞台を経験。1976年、アレック・ギネス、マギー・スミスらと共演した『名探偵登場』で映画に初出演する。以後、『エクスプローラーズ』(1985)『夢を生きた男/ザ・ベーブ』(1992)『イレイザー』(1996)などに出演。また、1985年の『ベイブ』では、純朴な農夫ホゲット役でアカデミー賞候補にも上った。『ラリー・フリント』(1996)では大物資本家、『L.A.コンフィデンシャル』(1997)では堕落した警部役、『ファースト・コンタクト/STAR TREK』(1996)では科学者、『ディープ・インパクト』(1998)では大統領の側近、『将軍の娘/エリザベス・キャンベル』(1999)では野心家の将軍と、クールで知的な役が多い。新作は、『グリーン・マイル』(1999)。


■マックス・フォン・シドー(ネルス・ガドマンドソン)

1929年4月10日、スウェーデンのルント生まれ。『第七の封印』(1957)『処女の泉』(1957)など、イングマル・ベルイマン監督の作品を支えたスウェーデンきっての名優だ。1965年、『偉大な生涯の物語』でキリスト役を演じ、アメリカ映画に進出した。以後、ハリウッド映画への出演が続く。中でも世界的大ヒットした『エクソシスト』(1974)で演じた神父役はインパクトがあった。また、1987年には、スウェーデン=デンマーク作品の『ペレ』で、少年ペレの卑屈な父親役を見事に演じ、アカデミー賞主演男優賞にノミネートされた。『ペレ』はアカデミー賞外国語映画賞とカンヌ国際映画祭パルム・ドール賞を獲得している。50年以上のキャリアで、これまでに100本以上の映画に出演しているが、新しいところでは、『ネバーセイ・ネバーアゲイン』(1983)『ハンナとその姉妹』(1986)『レナードの朝』(1990)『ジャッジ・ドレッド』(1995)などがある。


■サム・シェパード(アーサー・チェンバース)

1943年11月5日、米・イリノイ州生まれ。1960年代半ば、ニューヨークに出て戯曲を書き始め、毎年のようにオピー賞戯曲賞を手にした。1979年には、『埋められた子供』の戯曲でピューリッツァー賞を受賞している。映画界入りは、1970年の『砂丘』の脚本から。『天国の日々』(1978)で俳優として本格的に活躍を始める。1983年の『ライトスタッフ』ではアカデミー賞助演男優賞候補になった。そのほかの出演作品は、『女優フランシス』(1982)『カントリー』(1984)『マグノリアの花たち』(1989)『ペリカン文書』(1993)など。『パリ・テキサス』(1984)は脚本のみを手掛けた。また、『ファーノース』(1988)ではジェシカ・ラングを主演に起用し、監督デビューを果たした。いずれの分野でも豊かな才能を発揮している。


■リック・ユーン(カズオ・ミヤモト)

1971年1月17日生まれ。アメリカで生まれ育った彼は、子供の頃から武術を学び、1992年、朝鮮の護身術テコンドーがデモンストレーション・スポーツとして認められると、オリンピック・トレーニング・センターに入る資格を取得した。ホワートン・ビジネススクールを卒業後、3年間、先物取引の業界に身を置いたが、その後、モデルに転身。ラルフ・ローレン、ベルサーチなど有名デザイナーの仕事で活躍した。モデルとして全国ネットのCMに出演するかたわら、演技の勉強を初め、まもなくオフ・ブロードウェイの舞台に立ったり、テレビのソープオペラにもレギュラー出演するようになる。本作で、念願の映画初出演を飾る。撮影前は、「初日は首になるのではないかと心配した」という。


■鈴木杏(子供時代のハツエ・ミヤモト)

1987年4月27日、東京生まれ。9歳の時、NTVのドラマ「金田一少年の事件簿」で子役デビュー。その後も、TBSの「青い鳥」などのテレビドラマや、フジテレビの「ポンキッキーズ・コニあんチャット〜ワンポイント英会話」に出演した。映画初出演は、1997年の『心霊2』。ハリウッド・デビューとなる本作では、少女時代のハツエのひたむきさを好演し、鮮やかな印象を残す。新作『ジュブナイル』(2000)では香取慎吾と共演する。



■スコット・ヒックス(監督・脚色)

1953年3月4日生まれ。父はイギリス人で、母はスコットランド人。両親が冒険好きだったため、彼はウガンダで生まれ、ケニヤ、イギリスで育ち、14歳の時、オーストラリアのアデレードに移った。16歳で高校を修了し、リベラルな校風のフリンダーズ大学へ進学した。そこで、ドイツの表現主義映画運動や、映画製作を学ぶ。卒業後、低予算映画を何本か監督した。中でも、脚本・監督を手掛けた『Sebastian and the Sparrow』(1988)では、フランクフルト国際映画祭でルーカス・プライズ(作品賞)を受賞した。一方で、ドキュメンタリー部門にも進出。1988年、天安門事件の数カ月前の中国人民解放軍を描いた4部作『The Great Wall of Iron』は、ディスカバリー・チャンネルで放映されると、同局始まって以来の高視聴率を記録した。彼が奇跡のピアニスト、デビッド・ヘルフゴットと出会ったのは、1986年のことだった。アデレードでのコンサートを見て感動した彼は、長い年月をかけて『シャイン』(1996)を完成させた。この作品は、作品賞・監督賞を含む9つの部門でオーストラリア映画協会賞を独占。アメリカでもアカデミー賞の7部門にノミネート(ジェフリー・ラッシュが主演男優賞を受賞)されたのをはじめ、ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞の最優秀作品賞に輝くなど、各国で高い評価を得た。“シャイン旋風”は、文字どおり世界中を駆けめぐった。この成功の後、持ち込まれた脚本は山のようにあったが、どれも興味が起こらず、1995年に人の薦めで読んだ本作の原作本のことが忘れられなかったという。


■ロン・バス(製作・脚色)

1943年、米・カリフォルニア州ロサンゼルス生まれ。スタンフォード大学で政治学を学んだ後、エール大学へ。卒業後、エンターテイメント専門の弁護士として活躍。10代の頃から小説を書き始め、弁護士時代も仕事の合間を縫って小説を書いていた。1980年代半ばには本腰を入れて映画の脚本を書き始め、1988年、『レインマン』(共同脚本)でアカデミー賞オリジナル脚本賞を獲得した。この作品は、他に、同賞の作品・監督・主演男優賞を射止め、ベルリン映画祭では金熊賞に輝いた。その後、『ジョイ・ラック・クラブ』(1993)『男が女を愛する時』(1994・製作総指揮・脚本・カメオ出演)『ため息つかせて』(1995・製作総指揮・脚本)などで筆を振るう。また、ジュリア・ロバーツ主演の3作品、『愛がこわれるとき』(1990)『ベスト・フレンズ・ウェディング』(1997)『グッドナイト・ムーン』(1999)の脚本も担当。『エントラップメント』(1999)の後も、『Passion of Mind』(1999)など作品が目白押しだ。ピューリッァー賞受賞の小説をもとに、『The Shipping News』の脚本も書き上げたところだ。


■ジェームズ・ニュートン・ハワード(音楽)

クラシックの音楽教育を受け、ランディ・ニューマン、チャカ・カーンらのレコーディング・プロデュースを経て、映画音楽の世界へ。オーケストラ風の力強い曲に電子音楽を組み合わせた独特のセンスで、『メジャー・リーグ』(1989)『プリティ・ウーマン』(1990)『スリーメン&リトル・レディ』(1990)などを手掛けた。『サウス・キャロライナ/愛と追憶の彼方』(1991)『逃亡者』(1993)『ジュニア』(1994)『ベスト・フレンズ・ウェディング』(1997)『素晴らしき日』(1997)の5作品でアカデミー賞候補に上った。最近は、『シックス・センス』(1999)『プリティ・ブライド』(1999)のスコアを担当。新作は『Dinosaur』(2000)。


■キャスリーン・ケネディ&フランク・マーシャル(製作)

キャスリーン・ケネディはサンディエゴ州立大学を卒業してまもなく、『1941』(1979)のプロダクション・アシスタントとしてスピルバーグ監督に起用される。以後、スピルバーグの片腕となり、『E.T.』(1982)ではプロデューサーを務める。一方、フランク・マーシャルは、UCLAを卒業後、ピーター・ボグダノビッチ監督や、ウォルター・ヒル監督の映画製作に携わった。その後、スピルバーグ、ケネディとチームを組み、1983年には3人でアンブリン・エンターテイメントを設立した。3人で手掛けた作品には、『グレムリン』(1984)『バック・トゥー・ザ・フューチャー』三部作(1985・1989・1990)『カラーパープル』(1986)『フック』(1992)などがある。1987年、2人は結婚。1991年にはマーシャルが『アラクノフォビア』で監督デビューを果たす。1993年、2人はザ・ケネディ・マーシャル・カンパニーを設立し、ケネディがプロデュース、マーシャルが監督で『生きてこそ』(1993)『コンゴ』(1995)を世に送り出した。ザ・ケネディ・マーシャル・カンパニーの最新作は『シックス・センス』(1999)。また、シガニー・ウィーバー主演の『A Map of the World』も控えている。


■ロバート・リチャードソン(撮影監督)

米・マサチューセッツ州生まれ。ドキュメンタリーの世界で活躍していた頃、オリバー・ストーン監督と出会い、『サルバドル/遥かなる日々』(1986)で劇場用映画のカメラマンとして参加する。以来、『ウォール街』(1987)『ドアーズ』(1991)『ニクソン』(1995)などを含む11作品でコンビを組み、ストーン作品になくてはならない存在になる。中でも『プラトーン』(1986)と『7月4日に生まれて』(1989)では、アカデミー賞撮影賞候補に上り、1991年の『JFK』ではついにアカデミー賞撮影賞を受賞した。その他、ロブ・ライナー監督の『ア・フュー・グッドメン』(1992)、ジョン・セイルズ監督の『希望の街』(1991)、マーティン・スコセッシ監督の『カジノ』(1995)、バリー・レビンソン監督の『ウワサの真相/ワグ・ザ・ドッグ』(1997)、ロバート・レッドフォード監督の『モンタナの風に抱かれて』(1998)など、現代を代表する監督たちの作品で腕を振るっている。新作は、マーティン・スコセッシ監督の『救命士』(1999)。


■ジーニン・オプウォール(美術)

第1作は『テンダー・マーシー』(1982・未公開)。以後、アンドレイ・コンチャロフスキー監督の『マリアの恋人』(1984)、へクトール・バベンコ監督の『黄昏に燃えて』(1987)、コスタ・ガブラス監督の『ミュージック・ボックス』(1989)、ルイス・マンドーキ監督の『ぼくの美しい人だから』(1990)と、国際的に活躍する監督の作品で美術を担当してきた。1995年、『マディソン郡の橋』によって大きく飛躍し、『L.A.コンフィデンシャル』(1997)と『カラー・オブ・ハート』(1998)で、2年連続、アカデミー賞美術賞にノミネートされる。ジャンルの守備範囲は広く、どの作品でもリアルで深みのある世界を構築している。


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