【プロダクションノート】
◆物語の幕開け
本作誕生のきっかけは、ロサンゼルスタイムス紙に寄せられたロビン・ディクソンの「THE FIRST GRADER(小学一年生)」(映画の原題)という1本の記事だった。それは、1950年代のイギリス植民地時代に独立を求めて戦った、84歳の ケニアの村民キマニ・マルゲの物語だった。無償教育制度を知ったこの老人は、ジェーン・オビンチェが校長を務める地元の学校にやって来て、小学一年生として読み書きの勉強をさせて欲しいと訴えたのだ。そして、後に彼は、国連でアフリカの教育の必要性を説く演説をしたのだった。
『ナルニア国物語第1章/ライオンと魔女』などを手掛ける脚本家のアン・ピーコックは、この記事を目にした瞬間から心を奪われ、すぐにエージェントに電話をかけた。「マルゲの勇気に圧倒されたの。この貧しく何ももたない老人の願いは、ただ読み書きが出来るようになることだった。そして謙虚にも、まず彼は小学校に通おうとしたのよ。でも私をもっと興奮させたのは、彼がマウマウ団の戦士として闘った過去があったこと。かつて彼は自ら立ち上がり、そして今再び同じことをしているのよ」
マルゲの物語に感銘を受けたのは、ピーコックだけではなかった。ロサンゼルスに拠点を置く製作会社のサム・フォイア ーも同じ記事を読み、すぐに同社のリチャード・ハーディングに電話を入れた。2人はマルゲが通っていた学校の校長ジェーンに取材をし、記事を書いたジャーナリストにコンタクトを取った。そして誰もこの伝記の権利を買っていないことを聞いた彼らは、1週間もしないうちにケニアに飛び、直接マルゲに会い映画化を願い出たのだった。
マルゲ本人からの承諾の契約書を手に、ハーディングらがこの素晴らしい物語をどんな脚本にするかを考えていた頃、 ピーコックの元にエージェントからある知らせが届く。権利の動向を知ったエージェントが 2人を引きあわせようとしたのだ。「あのピーコックが映画脚本にしたいと切望している、願ってもない知らせだったよ。彼女と一緒にこの映画を作るのは、僕らの運命だと感じた」とハーディングは語る。
◆始動
この映画の監督として白羽の矢が立ったのは、製作陣の一人デヴィッド・M・トンプソンと『ブーリン家の姉妹』で組んだことのあるジャスティン・チャドウィックだった。ピーコックの脚本に目を通したチャドウィックは、すぐに快諾、早速リサーチを始めた。「最初はケニアのことも、植民地時代のこともほとんど知らなかったんだ。だから、自分で50年代に戦った人たちの話を直接聞こうと決意した」その中でもマルゲ本人との出会いは大きかった。だが残念なことに、その数カ月後に、多くの人に惜しまれるなかマルゲは癌で亡くなっている。ホスピスで最後の日々を送るマルゲに会ったチャドウィックは語る。「彼は本物の戦士だった。老いることを拒否し、弱っていても年寄り扱いを嫌った。体は羽のように軽かったけど、秘めたパワーはひしひしと感じ取れ、看護婦たちが車椅子を持って追いかけるのを尻目に、自分の足で病院の外、つまりナイロビのど真ん中に、一人で歩いて行ってしまったほどさ」
ハーディングは語る。「マルゲは素晴らしい老紳士だった。最期の時が迫っていた時でも、まだ学びたい意欲を持ち続けていた。毎回お見舞いに行くたびに、教師をここに呼んで教わりたいと、勉強のチャンスを失っていることを誰より惜しんでいた。あいにく、他の患者たちが、彼だけが特別扱いになることに反対していたから、許可してもらえなかったけどね。 本当に愛すべき、勇気と意欲に溢れた人だったんだ」
この精神は、脚本にも十分に反映された。
◆世界を作り出す
撮影は当初、映画製作に慣れている南アフリカが候補にあがっていた。だが、監督チャドウィックのこだわりにより、ケニアでの敢行が決定。「説明出来ない驚異的なエネルギーが、ケニアにはあるからね。他とは空気が違うんだ」 チャドウィックら製作陣は、撮影の数週間前から現地で準備を開始した。そしてロケハンの一方で実際の小学校を訪れ、 そこで学ぶ子供たちをキャスティングすることを決めた。ロケ地は、一般的なアフリカのイメージとは異なる山間のリフト・ バレー。凍えるように寒くて痩せた土地が広がり、気候も変わりやすい。町からも遠く離れ、子供たちは早朝に起きて、 約1時間半かけて学校までの5~6マイルの道のりを歩いて通う。
マルゲ役にはケニア人の俳優を探していた。マルゲを演じられる年齢で、彼の不屈の精神力を具現化出来る高い演技力を持ち、英語とキクユ語で演技が出来る俳優……そんな役者をアフリカ中から探したが、誰一人見つけることが出来なかった。しかし、ついにチャドウィックは巡り合う。70年代にTVニュース番組の司会を務め、演技にも意欲的だったオリヴァー・リトンドだ。リトンドは、自分が演じるのは単なる村の老人ではないことを強く自覚していた。「マルゲはいろいろな側面を持つ。子供と一緒にいる時は、まるで子供のように。だがある時には、自由の戦士として行動を起こす。まさしく挑戦だったよ。何しろ彼は、自分より知識と教養のある人たちと対峙しても平等に渡り合い、時に彼らを打ち負かすことだってあったんだからね」
残念ながら、リトンドがキャスティングされる直前にマルゲは亡くなり、2人が会うことは叶わなかった。
◆授業開始
キャスティング決定後、チャドウィックには、監督としてもうひとつ大きな課題が残されていた。それは、俳優たちをどうや って、今までカメラやTVを見たことない“本物の生徒たち”の中に溶け込ませるかだった。かつてTVドラマの仕事をし ていた際に、同じように子供たちを起用した経験はあった。だが、これは別次元の挑戦だった。
まずは、撮影開始の少し前から段階的にロケ地の学校に姿を見せるようにして、自分の姿を子供たちに慣れさせるようにした。次に、教室に座って、彼らの様子を観察した。次に、撮影のロブ・ハーディと助手を何の機材も持たせずに、子供たちに紹介した。「カメラの持ち込みは禁止した」とチャドウィックは語る。「一台でもカメラがあると、子供たちは自分たちがどう映っているのか知りたがって、芝居どころじゃなくなるからね。だから3人だけで学校にいるようにし、子供たちと顔見知りになってから、僕らの正体を明かしていった。それから時間をかけて小さなカメラを学校に持ち込んだんだ」
当初、チャドウィックは“観察スタイル”で撮影を行おうと思っていたが、すぐに考えを改めた。「子供たちはたった数インチしか離れていないところでカメラを回しても、全然気にしなかったんだ。代りにカメラより面白いものや遊びをみつけてあげなきゃならなかったけど(笑)」
しかし、カメラを意識しないことと、彼らに“演技”をさせるのは別問題だった。「最終的には、ナオミ・ハリスにジェーンとしてクラスに入って、実際に授業をしてもらい、子供たちには普通に授業を受けてもらったんだ」とチャドウィックは説明する。「これが上手くいった。僕が教室に入ると、子供たちは『ジャスティン先生!ジャスティン先生!』って寄って授業をせがむんだ。彼らは僕を先生だと思ってたのさ。子供たちはマルゲ役のオリヴァー・リトンドを本物の生徒だと思い、ナオミも当然先生で、撮影監督のロブのことですらそう思っていた。カメラを持っていたのにね」
撮影の3週間前から現地入りさせられたナオミ・ハリスは語る。「私の義父が先生で、実際に授業を手伝った経験があったから大丈夫だと思ったけど……でも、実際に子供たちを集中させるのは大変だった! クラスの中にはさまざまなレベルの子がいて、1から10の数え方を勉強する子がいれば、複雑な掛け算ができる子もいる。演技をしながら授業プランを考えるのは、とても大変なことだったわ」
リトンドは子供たちとの共演を楽しんだ。「彼らはすぐに、私を生徒の一人として受け入れてくれた。実際に撮影が行われたあの辺りでは、まだ教育自体が新しく固定観念がないんだ。実際、あの学校では、15歳の少年が6歳の子供たちに混じって授業を受けていたからね。だから子供たちも私を、同じ教育を求める仲間だと受け入れてくれたんだと思う」
◆マルゲとマウマウ団
本作の挑戦は他にもあった。チャドウィックは、ケニアの生活をできる限りリアルに描き出すことを目指していた。そして、 そこで暮らす人々の姿を、誤った西洋的な視点から映し出すことのないよう、入念に配慮した。「アメリカ製作の映画の多くは、勝手に解釈し、都合の良いように描いてしまう。だから僕は、そこで暮らす人のアドバイスに耳を傾けてから、彼らのリアルな姿を作り出した。外国人である僕に聞く耳と観察する目があるとわかると、彼らはいろいろなことを教えてくれた。キクユ族やマサイ族の過去、彼らがどんなことをし、どんな生活をしていたかをね」しかしたくさんの話を聞いたとしても、若き日のマルゲがマウマウ団の一員として闘った姿を描くのは難しかった。「外の国の人間が、この国の歴史の中で起こったことを本当に知るのは困難だ。なぜなら、多くの人があの時代のことを口にしない。まだ傷が癒えていないからなんだ。胸の内に秘めておきたい個人的なことなんだよ」
だが、運命はチャドウィックに味方した。「映画にもマウマウ団のリーダー役で出演しているポールという青年と出会ったんだ。彼の祖父母は、当時収容所にいたことがあった。映画に当時の彼らの音楽を入れたいと考えていたところ、ポールが2人を紹介してくれた。何度も会って話をした結果、ポールのお祖母さんが歌を教えてくれたんだ。それは、本物のキクユ族の歌で、劇中にも使用されている。僕だけの力では、ここまでたどり着けなかっただろう」
“教育の大切さ”という大きなメッセージを描く一方、本作ではケニアの複雑な過去も映し出していることを、チャドウィックは認める。「60年代、多くの国と同様、ケニアにも独立の波が押し寄せた。当時のことについてはあまり語られないけど、 そろそろ振り返る時期に僕らは来ていると思う。ケニアでも、マウマウ団のことを知らない人は多い。彼らは、血の歴史の象徴でゲリラ集団というイメージがあるけど、これはあまりに一方的だ。映画ではそこに踏み込んだんだ。マルゲは若い頃から大きな力にも屈しない男だった。拷問も受けたが、マウマウ団を非難することはなかった。どんな時でも覚悟と決意をもって行動し、拷問も耐え抜いた意思の強さが、『私は変化を起こしたい』と言えるまでに彼を強くしたんだ。今の彼の姿は、若かりし日があってこその姿なんだ」
とはいえ、フラッシュバックのシーンをセンセーショナルに表現するつもりもなかった。「とにかく誠実かつ公正に、50年代に起こったことを描こう。この良さというのは、一人の老人の過去をいろいろ想像出来ることだ。誰もがいろんな過去があり、マルゲにもマルゲの人生があったんだ」
オリヴァー・リトンドはこう語る。「マルゲは若いケニア人にとっても、年老いたケニアの人にとっても“尊い人”だと確信して いる。教育の大切さをよく理解していた。マルゲの物語を知ってから、他の老人たちも学校に通い始めたという話を数々読んだよ」
ナオミ・ハリスもリトンドに同意する。「84歳の老人が、学びたいという意欲を持っている事実に胸を打たれたわ。人生に終わりはない。学びに遅すぎることなんてなくて、その姿勢を持つことが大事なのね。これは素晴しいメッセージだわ」
ケニアで充実した時間を過ごしたチャドウィックは、当時の心境をこうまとめている。「子供たちや妻と離れて、最高の独身生活だった(笑)」そんな中で唯一の哀しみは、マルゲ本人が他界してしまったことだった。「胸が張り裂けるような出来事だ。彼が本作を観ることも、僕らと一緒に成し遂げた成果を目にすることもなくなってしまったんだからね」
キマニ・マルゲ(1920-2009)
私にとって自由は、学校に行き学ぶこと。
私はもっともっと学びたい。 ― キマニ・マルゲ
To me,liberaty means going to school and learning.
I want to learn more and more. ― Kimani Ng’ang’a Maruge
1920年生まれ(本人の記憶による)。 一度も教育の機会を持たないまま、イギリスからの独立を目標に掲げ、1963年のケニア独立までマウマウ団の戦士として闘う。2003年、ケニア政府の小学校無料化の知らせを受け、悲願だった小学校入学を果たす。その話題はBBCニュ ースを始め、世界各国のメディアに取り上げられ、「最高齢小学生」として2004年にギネスにも認定された。 大統領選に絡んだ暴動で家を焼かれ、テント生活を余儀なくされた際も、毎日4キロの道のりを歩いて学校へ通い続け、 2005 年には優秀な生徒として主席に選ばれる。 また、同年9月、今なお1億人以上の学校へ通えない子供たちのため、国連の国際議会でもスピーチ。 2009年8月14日に胃がんにより死去。 息を引き取る瞬間まで、獣医の夢、そして自分のように待たされることなく誰もが教育を受けられる世界を諦めず、勉強を続けていた。享年90歳。
◆ケニア独立の歴史
ケニア基本データ
首都 ナイロビ
民族 キクユ人、ルヒヤ人、カレンジン人、ルオ人 など
言語 スワヒリ語、英語
宗教 伝統宗教、キリスト教、イスラム教
植民地の歴史
東アフリカに位置する共和制国家ケニアは、紀元前2000年頃、北アフリカから来たクシ語族が、現在の土地に住み着いたことからはじまった。 ケニアの植民地としての歴史は、1885年のベルリン会議に遡る。この会議の結果、東アフリカはヨーロッパの列強の国々によって、初めて分割されることになる。
英国政府は、1895年に東アフリカ保護領を確立し、その後すぐに肥沃な高地を白人移住者たちに開放した。これらの移住者は、1920年に英国の植民地として正式に宣言される前にもかかわらず参政権を与えられていたが、アフリカ人とアジア人は、1944年まで直接の政治参加を禁じられていた。この間、多くのインド人がケニアに連れてこられ、ケニアウガンダ鉄道線の建設に従事した。彼らはその後この地に定住し、インド商人である多くの親族を呼び寄せた。
植民地政策への抵抗 ― マウマウ
1942年、キクユ族、エンブ族、メルー族、カンバ族の人々が、英国支配からの自由を求めて闘うため、秘密裏に結束し た。この結束の誓いとともに「マウマウ運動」が始まり、ケニアは独立国への長く険しい道を歩み始める。 1953年、ジョモ・ケニヤッタはマウマウを指揮したとして起訴され、7年間の投獄を宣告された。デダン・キマチは1956 年にマウマウでの役割によって独立運動の指導者の一人として逮捕され、その後、植民地主義者たちによって絞首刑に処せられた。
ケニアは、1952年10月から1959 年12月まで緊急事態下に置かれる。その間、マウマウの反乱はさらに暴動化し、何千ものケニア人が投獄された。また、この時期、アフリカ人の政治への参加が急速に拡大し、1954年には3つの人種 (ヨーロッパ人、アジア人、アフリカ人)すべてがケニア議会に代表を送ることを許された。
ケニア独立へ
1957年、アフリカ人にとって初となる議会への直接選挙が行われ、選ばれた者たちはジョモ・ケニヤッタの開放に向けて、民主運動を働きかけた。ケニヤッタは1962年に解放され、1963年12月12日、ついにケニアは独立を果たした。 そして、ケニヤッタは初代首相に就任。翌年、ケニアは共和国となり、ケニヤッタが初代大統領となった。
参考資料:ケニア共和国大使館
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