『おじいさんと草原の小学校』/"THE FIRSTGRADER"


2011年7月30日より岩波ホールほか全国にて公開

2010年/イギリス映画/カラー/シネスコ/ドルビーデジタル/103分/原題:THE FIRSTGRADER/提供:クロックワークス、アミューズソフト

◇監督:ジャスティン・チャドウィック ◇脚本:アン・ピーコック、リチャード・ハーディング、サム・フォイアー、デヴィッド・M・トンプソン ◇製作総指揮:ジョー・オッペンハイマー、アナン・シン、ノーマン・メリー、ヘレナ・スプリング ◇共同プロデューサー:トレバー・イングマン ◇撮影:ロブ・ハーディ ◇プロダクション・デザイン:ヴィットリア・ソグノ ◇編集:ポール・ナイト ◇衣裳:ソフィー・オプリサノ ◇音楽:アレックス・ヘッフェス ◇キャスティング:ムーニエーン・リー、マーギー・キウンディ

◇キャスト:ナオミ・ハリス、オリヴァー・ムシラ・リトンド、トニー・キコロギ、アルフレッド・ムニュア、ショキ・モガパ、ビュスムジ・マイケル・クネネ、アグネス・シマロイ、カマウ・ムバヤ、エミリー・ニョキ、ルワンダー・ジャワー、ダニエル・ヌダンブキ



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【解説】

マルゲの夢は、学校に行くこと。
学びたい ― 強い気持ちが奇蹟を起こす。
ケニア独立のために戦った日々、
その過去に打ち勝ち、未来を変えた
“84歳の小学生“の、これは真実の物語。


アフリカ大陸ケニア。イギリスの植民地支配から独立を勝ち取った39年後の2003年、政府がついに無償教育制度をス タートし、田舎の小学校の前には何百人もの子供たちが押し掛けた。そして、その中にはただ一人、老人の姿が。 彼の名は、マルゲ。今まで教育を受ける機会がなかったマルゲは、“文字を読みたい”一心で、からかわれながらも、何キロもの道のりを学校まで来ては門前払いされる日々を繰り返していた。 そんな彼の情熱に突き動かされた校長のジェーンは、周囲の反対を押し切り入学を認める。子供たちに交じり、初めて学ぶことの楽しさを体験するマルゲ。だが、50年前の悪夢は、毎夜、彼を苦しめ続けた。独立戦争の戦士として闘い、愛する妻子や仲間を目の前で虐殺され、強制収容所で拷問にかけられた日々……。 過去に打ち勝つため、未来を変えるため、マルゲは勉強を続ける。その情熱は、歴史を知らない幼い級友たち、そして政府までも動かしていく。

はじまりは、ロサンゼルスタイムズに掲載された1本の記事だった。そこには、小学校に通う84歳のケニアの老人、キマ ニ・マルゲの人生が語られていた。かつて祖国解放のために戦い、すべてを失いながらも、自由のために戦った一人の 戦士。そして、“学ぶこと”の大切さを誰よりも知り、死の直前まで勉強を続けた強い信念の男。そんな彼の姿に胸を打たれた者たちは、マルゲの歩んできた人生の旅路を、そしてメッセージを世界中に伝えるべく、 映画化へと動き出した。『ブーリン家の姉妹』で長編監督デビューを果たした若手実力派のジャスティン・チャドウィック、 アフリカにルーツを持つ作品も多く手掛ける『ナルニア国物語/第1章:ライオンと魔女』、『最後の初恋』のアン・ピーコ ック、『リトル・ダンサー』『イースタン・プロミス』他、数々のアカデミー賞作品を輩出する名プロデューサー、デヴィッド・ M・トンプソンら一流の製作陣たちだ。彼らは、実際に撮影も行われたケニアの地で入念なリサーチを行い、西洋からの一方的な視点に偏らぬよう繊細に注意を払いながら、今まだ傷跡の癒えぬ独立への戦いにまで踏み込みんでいった。そんな彼らの情熱は、出演者たちにも伝わっていった。主人公のマルゲを演じたのは、ケニアのTV局でニュースキャス ターとして活躍していたオリヴァー・リトンド。そして、マルゲの良き理解者にして師である若き女教師ジェーンに、『28日後……』 のヒロインや『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズのダルマ役でお馴染みのナオミ・ハリス。彼らは、TVすら見たこともない現地の学校に通う子供たちを相手に実際に授業を行い、溢れる生命力とリアルな演技を引き出すことに成功した。 “世界最年長の小学生”としてギネス記録をもつキマニ・マルゲ。息を引き取る瞬間まで、決して“学ぶこと”を諦めなかった彼の奇蹟と感動の物語は、国や世代を超えて、私たちに未来への希望を託してくれることだろう。



 


【プロダクションノート】

◆物語の幕開け

本作誕生のきっかけは、ロサンゼルスタイムス紙に寄せられたロビン・ディクソンの「THE FIRST GRADER(小学一年生)」(映画の原題)という1本の記事だった。それは、1950年代のイギリス植民地時代に独立を求めて戦った、84歳の ケニアの村民キマニ・マルゲの物語だった。無償教育制度を知ったこの老人は、ジェーン・オビンチェが校長を務める地元の学校にやって来て、小学一年生として読み書きの勉強をさせて欲しいと訴えたのだ。そして、後に彼は、国連でアフリカの教育の必要性を説く演説をしたのだった。

『ナルニア国物語第1章/ライオンと魔女』などを手掛ける脚本家のアン・ピーコックは、この記事を目にした瞬間から心を奪われ、すぐにエージェントに電話をかけた。「マルゲの勇気に圧倒されたの。この貧しく何ももたない老人の願いは、ただ読み書きが出来るようになることだった。そして謙虚にも、まず彼は小学校に通おうとしたのよ。でも私をもっと興奮させたのは、彼がマウマウ団の戦士として闘った過去があったこと。かつて彼は自ら立ち上がり、そして今再び同じことをしているのよ」

マルゲの物語に感銘を受けたのは、ピーコックだけではなかった。ロサンゼルスに拠点を置く製作会社のサム・フォイア ーも同じ記事を読み、すぐに同社のリチャード・ハーディングに電話を入れた。2人はマルゲが通っていた学校の校長ジェーンに取材をし、記事を書いたジャーナリストにコンタクトを取った。そして誰もこの伝記の権利を買っていないことを聞いた彼らは、1週間もしないうちにケニアに飛び、直接マルゲに会い映画化を願い出たのだった。

マルゲ本人からの承諾の契約書を手に、ハーディングらがこの素晴らしい物語をどんな脚本にするかを考えていた頃、 ピーコックの元にエージェントからある知らせが届く。権利の動向を知ったエージェントが 2人を引きあわせようとしたのだ。「あのピーコックが映画脚本にしたいと切望している、願ってもない知らせだったよ。彼女と一緒にこの映画を作るのは、僕らの運命だと感じた」とハーディングは語る。



◆始動

この映画の監督として白羽の矢が立ったのは、製作陣の一人デヴィッド・M・トンプソンと『ブーリン家の姉妹』で組んだことのあるジャスティン・チャドウィックだった。ピーコックの脚本に目を通したチャドウィックは、すぐに快諾、早速リサーチを始めた。「最初はケニアのことも、植民地時代のこともほとんど知らなかったんだ。だから、自分で50年代に戦った人たちの話を直接聞こうと決意した」その中でもマルゲ本人との出会いは大きかった。だが残念なことに、その数カ月後に、多くの人に惜しまれるなかマルゲは癌で亡くなっている。ホスピスで最後の日々を送るマルゲに会ったチャドウィックは語る。「彼は本物の戦士だった。老いることを拒否し、弱っていても年寄り扱いを嫌った。体は羽のように軽かったけど、秘めたパワーはひしひしと感じ取れ、看護婦たちが車椅子を持って追いかけるのを尻目に、自分の足で病院の外、つまりナイロビのど真ん中に、一人で歩いて行ってしまったほどさ」

ハーディングは語る。「マルゲは素晴らしい老紳士だった。最期の時が迫っていた時でも、まだ学びたい意欲を持ち続けていた。毎回お見舞いに行くたびに、教師をここに呼んで教わりたいと、勉強のチャンスを失っていることを誰より惜しんでいた。あいにく、他の患者たちが、彼だけが特別扱いになることに反対していたから、許可してもらえなかったけどね。 本当に愛すべき、勇気と意欲に溢れた人だったんだ」

この精神は、脚本にも十分に反映された。



◆世界を作り出す

撮影は当初、映画製作に慣れている南アフリカが候補にあがっていた。だが、監督チャドウィックのこだわりにより、ケニアでの敢行が決定。「説明出来ない驚異的なエネルギーが、ケニアにはあるからね。他とは空気が違うんだ」 チャドウィックら製作陣は、撮影の数週間前から現地で準備を開始した。そしてロケハンの一方で実際の小学校を訪れ、 そこで学ぶ子供たちをキャスティングすることを決めた。ロケ地は、一般的なアフリカのイメージとは異なる山間のリフト・ バレー。凍えるように寒くて痩せた土地が広がり、気候も変わりやすい。町からも遠く離れ、子供たちは早朝に起きて、 約1時間半かけて学校までの5~6マイルの道のりを歩いて通う。

マルゲ役にはケニア人の俳優を探していた。マルゲを演じられる年齢で、彼の不屈の精神力を具現化出来る高い演技力を持ち、英語とキクユ語で演技が出来る俳優……そんな役者をアフリカ中から探したが、誰一人見つけることが出来なかった。しかし、ついにチャドウィックは巡り合う。70年代にTVニュース番組の司会を務め、演技にも意欲的だったオリヴァー・リトンドだ。リトンドは、自分が演じるのは単なる村の老人ではないことを強く自覚していた。「マルゲはいろいろな側面を持つ。子供と一緒にいる時は、まるで子供のように。だがある時には、自由の戦士として行動を起こす。まさしく挑戦だったよ。何しろ彼は、自分より知識と教養のある人たちと対峙しても平等に渡り合い、時に彼らを打ち負かすことだってあったんだからね」

残念ながら、リトンドがキャスティングされる直前にマルゲは亡くなり、2人が会うことは叶わなかった。



◆授業開始

キャスティング決定後、チャドウィックには、監督としてもうひとつ大きな課題が残されていた。それは、俳優たちをどうや って、今までカメラやTVを見たことない“本物の生徒たち”の中に溶け込ませるかだった。かつてTVドラマの仕事をし ていた際に、同じように子供たちを起用した経験はあった。だが、これは別次元の挑戦だった。

まずは、撮影開始の少し前から段階的にロケ地の学校に姿を見せるようにして、自分の姿を子供たちに慣れさせるようにした。次に、教室に座って、彼らの様子を観察した。次に、撮影のロブ・ハーディと助手を何の機材も持たせずに、子供たちに紹介した。「カメラの持ち込みは禁止した」とチャドウィックは語る。「一台でもカメラがあると、子供たちは自分たちがどう映っているのか知りたがって、芝居どころじゃなくなるからね。だから3人だけで学校にいるようにし、子供たちと顔見知りになってから、僕らの正体を明かしていった。それから時間をかけて小さなカメラを学校に持ち込んだんだ」

当初、チャドウィックは“観察スタイル”で撮影を行おうと思っていたが、すぐに考えを改めた。「子供たちはたった数インチしか離れていないところでカメラを回しても、全然気にしなかったんだ。代りにカメラより面白いものや遊びをみつけてあげなきゃならなかったけど(笑)」

しかし、カメラを意識しないことと、彼らに“演技”をさせるのは別問題だった。「最終的には、ナオミ・ハリスにジェーンとしてクラスに入って、実際に授業をしてもらい、子供たちには普通に授業を受けてもらったんだ」とチャドウィックは説明する。「これが上手くいった。僕が教室に入ると、子供たちは『ジャスティン先生!ジャスティン先生!』って寄って授業をせがむんだ。彼らは僕を先生だと思ってたのさ。子供たちはマルゲ役のオリヴァー・リトンドを本物の生徒だと思い、ナオミも当然先生で、撮影監督のロブのことですらそう思っていた。カメラを持っていたのにね」

撮影の3週間前から現地入りさせられたナオミ・ハリスは語る。「私の義父が先生で、実際に授業を手伝った経験があったから大丈夫だと思ったけど……でも、実際に子供たちを集中させるのは大変だった! クラスの中にはさまざまなレベルの子がいて、1から10の数え方を勉強する子がいれば、複雑な掛け算ができる子もいる。演技をしながら授業プランを考えるのは、とても大変なことだったわ」

リトンドは子供たちとの共演を楽しんだ。「彼らはすぐに、私を生徒の一人として受け入れてくれた。実際に撮影が行われたあの辺りでは、まだ教育自体が新しく固定観念がないんだ。実際、あの学校では、15歳の少年が6歳の子供たちに混じって授業を受けていたからね。だから子供たちも私を、同じ教育を求める仲間だと受け入れてくれたんだと思う」



◆マルゲとマウマウ団

本作の挑戦は他にもあった。チャドウィックは、ケニアの生活をできる限りリアルに描き出すことを目指していた。そして、 そこで暮らす人々の姿を、誤った西洋的な視点から映し出すことのないよう、入念に配慮した。「アメリカ製作の映画の多くは、勝手に解釈し、都合の良いように描いてしまう。だから僕は、そこで暮らす人のアドバイスに耳を傾けてから、彼らのリアルな姿を作り出した。外国人である僕に聞く耳と観察する目があるとわかると、彼らはいろいろなことを教えてくれた。キクユ族やマサイ族の過去、彼らがどんなことをし、どんな生活をしていたかをね」しかしたくさんの話を聞いたとしても、若き日のマルゲがマウマウ団の一員として闘った姿を描くのは難しかった。「外の国の人間が、この国の歴史の中で起こったことを本当に知るのは困難だ。なぜなら、多くの人があの時代のことを口にしない。まだ傷が癒えていないからなんだ。胸の内に秘めておきたい個人的なことなんだよ」

だが、運命はチャドウィックに味方した。「映画にもマウマウ団のリーダー役で出演しているポールという青年と出会ったんだ。彼の祖父母は、当時収容所にいたことがあった。映画に当時の彼らの音楽を入れたいと考えていたところ、ポールが2人を紹介してくれた。何度も会って話をした結果、ポールのお祖母さんが歌を教えてくれたんだ。それは、本物のキクユ族の歌で、劇中にも使用されている。僕だけの力では、ここまでたどり着けなかっただろう」

“教育の大切さ”という大きなメッセージを描く一方、本作ではケニアの複雑な過去も映し出していることを、チャドウィックは認める。「60年代、多くの国と同様、ケニアにも独立の波が押し寄せた。当時のことについてはあまり語られないけど、 そろそろ振り返る時期に僕らは来ていると思う。ケニアでも、マウマウ団のことを知らない人は多い。彼らは、血の歴史の象徴でゲリラ集団というイメージがあるけど、これはあまりに一方的だ。映画ではそこに踏み込んだんだ。マルゲは若い頃から大きな力にも屈しない男だった。拷問も受けたが、マウマウ団を非難することはなかった。どんな時でも覚悟と決意をもって行動し、拷問も耐え抜いた意思の強さが、『私は変化を起こしたい』と言えるまでに彼を強くしたんだ。今の彼の姿は、若かりし日があってこその姿なんだ」

とはいえ、フラッシュバックのシーンをセンセーショナルに表現するつもりもなかった。「とにかく誠実かつ公正に、50年代に起こったことを描こう。この良さというのは、一人の老人の過去をいろいろ想像出来ることだ。誰もがいろんな過去があり、マルゲにもマルゲの人生があったんだ」

オリヴァー・リトンドはこう語る。「マルゲは若いケニア人にとっても、年老いたケニアの人にとっても“尊い人”だと確信して いる。教育の大切さをよく理解していた。マルゲの物語を知ってから、他の老人たちも学校に通い始めたという話を数々読んだよ」

ナオミ・ハリスもリトンドに同意する。「84歳の老人が、学びたいという意欲を持っている事実に胸を打たれたわ。人生に終わりはない。学びに遅すぎることなんてなくて、その姿勢を持つことが大事なのね。これは素晴しいメッセージだわ」

ケニアで充実した時間を過ごしたチャドウィックは、当時の心境をこうまとめている。「子供たちや妻と離れて、最高の独身生活だった(笑)」そんな中で唯一の哀しみは、マルゲ本人が他界してしまったことだった。「胸が張り裂けるような出来事だ。彼が本作を観ることも、僕らと一緒に成し遂げた成果を目にすることもなくなってしまったんだからね」




キマニ・マルゲ(1920-2009)

私にとって自由は、学校に行き学ぶこと。
私はもっともっと学びたい。 ― キマニ・マルゲ

To me,liberaty means going to school and learning.
I want to learn more and more. ― Kimani Ng’ang’a Maruge


1920年生まれ(本人の記憶による)。 一度も教育の機会を持たないまま、イギリスからの独立を目標に掲げ、1963年のケニア独立までマウマウ団の戦士として闘う。2003年、ケニア政府の小学校無料化の知らせを受け、悲願だった小学校入学を果たす。その話題はBBCニュ ースを始め、世界各国のメディアに取り上げられ、「最高齢小学生」として2004年にギネスにも認定された。 大統領選に絡んだ暴動で家を焼かれ、テント生活を余儀なくされた際も、毎日4キロの道のりを歩いて学校へ通い続け、 2005 年には優秀な生徒として主席に選ばれる。 また、同年9月、今なお1億人以上の学校へ通えない子供たちのため、国連の国際議会でもスピーチ。 2009年8月14日に胃がんにより死去。 息を引き取る瞬間まで、獣医の夢、そして自分のように待たされることなく誰もが教育を受けられる世界を諦めず、勉強を続けていた。享年90歳。


◆ケニア独立の歴史

ケニア基本データ

首都 ナイロビ
民族 キクユ人、ルヒヤ人、カレンジン人、ルオ人 など
言語 スワヒリ語、英語
宗教 伝統宗教、キリスト教、イスラム教

植民地の歴史

東アフリカに位置する共和制国家ケニアは、紀元前2000年頃、北アフリカから来たクシ語族が、現在の土地に住み着いたことからはじまった。 ケニアの植民地としての歴史は、1885年のベルリン会議に遡る。この会議の結果、東アフリカはヨーロッパの列強の国々によって、初めて分割されることになる。

英国政府は、1895年に東アフリカ保護領を確立し、その後すぐに肥沃な高地を白人移住者たちに開放した。これらの移住者は、1920年に英国の植民地として正式に宣言される前にもかかわらず参政権を与えられていたが、アフリカ人とアジア人は、1944年まで直接の政治参加を禁じられていた。この間、多くのインド人がケニアに連れてこられ、ケニアウガンダ鉄道線の建設に従事した。彼らはその後この地に定住し、インド商人である多くの親族を呼び寄せた。

植民地政策への抵抗 ― マウマウ

1942年、キクユ族、エンブ族、メルー族、カンバ族の人々が、英国支配からの自由を求めて闘うため、秘密裏に結束し た。この結束の誓いとともに「マウマウ運動」が始まり、ケニアは独立国への長く険しい道を歩み始める。 1953年、ジョモ・ケニヤッタはマウマウを指揮したとして起訴され、7年間の投獄を宣告された。デダン・キマチは1956 年にマウマウでの役割によって独立運動の指導者の一人として逮捕され、その後、植民地主義者たちによって絞首刑に処せられた。

ケニアは、1952年10月から1959 年12月まで緊急事態下に置かれる。その間、マウマウの反乱はさらに暴動化し、何千ものケニア人が投獄された。また、この時期、アフリカ人の政治への参加が急速に拡大し、1954年には3つの人種 (ヨーロッパ人、アジア人、アフリカ人)すべてがケニア議会に代表を送ることを許された。

ケニア独立へ

1957年、アフリカ人にとって初となる議会への直接選挙が行われ、選ばれた者たちはジョモ・ケニヤッタの開放に向けて、民主運動を働きかけた。ケニヤッタは1962年に解放され、1963年12月12日、ついにケニアは独立を果たした。 そして、ケニヤッタは初代首相に就任。翌年、ケニアは共和国となり、ケニヤッタが初代大統領となった。

参考資料:ケニア共和国大使館



 


【ストーリー】

政府が、すべての人を対象に無償教育をスタートさせた2003年のケニア。 このニュースをラジオで耳にした84歳のマルゲ(オリヴァー・リトンド)は、自らも教育を受けるべく、新聞の切り抜きを手に地元の小学校へやってくる。何百人もの子供たちが押しかけるなか、校長のジェーン(ナオミ・ハリス)に「学びたい」という思いを伝えるマルゲ。だが、同僚の教師アルフレッド(アルフレッド・ムニュア)は、生徒となるには鉛筆2本とノート1冊が必要なことを告げ、老人を追い払う。 翌日も再び小学校に現れたマルゲは、ジェーンに大統領府から送られた1通の手紙を見せ、文字を学び、自分の力で読みたいと訴えるが、またもや門前払いされてしまう。

しかし、マルゲは諦めなかった。ズボンの裾を他の子供たちのように切り落とし、再び門の前に立ち続ける彼の情熱に心動かされたジェーンは、ついに周囲の反対をよそにマルゲの入学を許可し、自分のクラスに受け入れる。80歳近く年の離れた同級生たちと机を並べ、初めて学ぶことの楽しさを体験するマルゲ。しかし、50年前の過去はトラウマとなって彼を苛み続けた。マウマウ団の戦士としてケニア独立のため戦い、愛する妻子や仲間を目の前で虐殺され、 強制収容所で拷問にかけられた日々……。誰よりも自由の価値を知るマルゲは、子供たちに自分がかつて戦士だったこと、そして“自由”という言葉の意味、重さを教える。


その頃、マルゲが教育を受けることに、周囲から反対の声も巻き起こるようになっていた。その矛先は、当然マルゲ本人 にも向けられた。そして、老人が小学校に通っているという話は瞬く間にラジオで広まり、学校の調査官、キプルト氏(ビュスムジ・マイケル・クネネ)の耳にも入ることに。マルゲの勉強を続けさせるため、ジェーンは、ナイロビの政府で働く夫のチャールズ(トニー・キコロギ)に助けを求める。しかし、逆にたしなめられ、ついには教育委員会に直接足を運び、マルゲの受入れ容認を嘆願するも、申し立ては却下。マルゲは成人向けの教育センターへと移ることになってしまう。しかしそこは、学ぶ意欲のない者ばかりが集まる、ただの容れ物だった。

学ぶことを諦めきれないマルゲはジェーンの元を訪れる。そんな彼の姿をみて、ジェーンはあることを思いつく。それは、マルゲに自分の助手になってもらい、一緒に授業に参加することだった。 再び教室に戻ったマルゲ。この噂は瞬く間に広まり、ついには世界各国からマスコミが大挙して押し寄せ、マルゲは一躍時の人に。そして、マルゲの名声を利用しようと企む政治家も現れ、平穏だった小学校は混乱の場と化していく。その様子に、子供を学校に通わせる親たちの反感はさらに強まり、ジェーンも金のための売名行為と疑われ、脅迫まがいの嫌がらせを何度も受けることに。その状況がキプルト調査官の知ることとなり、ついにジェーンは遠方の学校に移動となってしまう。

学校に新しい教師がやってくる日。しかし、子供たちは校門に鍵をかけ大人たちを受け入れず、一方、マルゲはただ一人、首都ナイロビの教育省に向かう。そこで彼は、審議会のメンバーを前に、かつてイギリス軍の拷問によって負った身体の深い傷を見せるのだった。

マルゲの働きかけによって、小学校に復帰したジェーンを温かく迎える子供たち。そして、マルゲは例の手紙をジェーンに差し出す。そこには、彼が収容所で過ごした長き時間を補償する旨が書かれていた。

 


【キャスト&スタッフ】

■ナオミ・ハリス(ジェーン役)

1976年イギリス、ロンドン出身。ケンブリッジ大学で政治社会学の学位を取得し、 卒業。その後、名門ブリストル・オールド・ヴィック・シアター・スクールで演技を学び、 1995年、ダニー・ボイル監督の『シャロウ・グレイブ』の端役で映画デビュー。以降、 同監督作品に脇役ながら起用され続け、2002年作『28日後……』でついにヒロイン 役を射止める。

2004年の『ダイヤモンド・パラダイス』でハリウッドへ進出。近年では、『パイレーツ・ オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト』(2006)、『パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド』(2007)のダルマ役で知られ、メジャー作から、本作のような小規模ながら良質な作品まで、女優として幅広く意欲的にチャレンジしている。 その他の代表作に、マイケル・マン監督作『マイマミ・バイス』(2006)、マイケル・ウィンターボトム監督『トリストラム・シャンディの生涯と意見』(2005・未)、キアヌ・リーヴス、フォレスト・ウィテカー主演の『フェイクシティ ある男のルール』(2008)、『ニンジャ・アサシン』(2009)、“Sex & Drugs & Rock & Roll”(2010)など。

2007年には、英国アカデミー賞(BAFTA)にて新人賞であるオレジン・ライジング・スター賞にノミネート、2010年には王立テレビ協会賞の最優秀女優賞を受賞している。



■オリヴァー・リトンド(マルゲ役)

ケニア出身。ケニアのTV局でニュースキャスターとしてキャリアをスタート。 その後役者へ転向し、タニア・ロバーツ主演の『シーナ』(1984)など数多くの映画、TV作品に出演。本作で見事、映画初主演を飾った。


■トニー・ギゴロギ(チャールズ・オビンチュ役)

主な出演作に、オリヴァー・シュミッツ監督作“Hijack Stories”(2000)、『ホテル・ ルワンダ』(2004)、『ロード・オブ・ウォー』(2005)、『ブラッド・ダイヤモンド』(2006)、『アフリカン・シンジケート』(2008)、クリント・イーストウッド監督作『インビクタス/負けざ る者たち』(2009)など。


■ジャスティン・チャドウィック(監督)

1968年イギリス、マンチェスター出身。11歳から俳優として活動をはじめ、1991年 『ロンドン・キルズ・ミー』で映画デビュー。役者以外にも、モリエールの「病は気から」では舞台演出家として、またユアン・マクレガー主演のTV映画“Family Style”(1993)や「MI-5 英国機密諜報部」(2003〜)など数々のTV演出も手掛け、 早くから多方面で活躍。

2008年には、ナタリー・ポートマン、スカーレット・ヨハンソン主演の歴史劇『ブーリン家の姉妹』で長編映画監督デビューを果たした。 主な演出作として、英国アカデミー賞の最優秀ドラマシリーズ賞に輝き、同賞の監督賞ほか、ゴールデングローブ賞など数々の賞にもノミネートされた BBC のミステリー超大作「ブリーク・ハウス」(2005/9エピソードを担当)など。 現在は、ダフネ・デュ・モーリア原作「埋もれた青春」の映画化、小説“The Tenderness of Wolves”の映画化(脚本・監督)、『レインマン』『モーツァルトとクジラ』のロナルド・バス脚本の“The Godmother”など、数々のプロジェクトに取り組 んでいる。



■アン・ピーコック(脚本)

南アフリカ出身。ケープタウン大学で英文学とスピーチ&ドラマを学び、その後、同大学で法律の学位も修得。家族とともにロサンゼルスに移住後、初の映画脚本作『ジェファーソン/冤罪の死刑囚』(1999)でいきなりエミー賞を受賞。南アフリカにルーツを持つ作品を多く手掛けている。 代表作に、『ナルニア国物語/第1章:ライオンと魔女』(2005)、『最後の初恋』(2008)、『キッド・キトリッジ アメリカン・ガー ル・ミステリー』(2008・未)など。

今後は、ジョン・グリシャム原作小説「パートナー」の映画化脚本、歴史映画“Marco Polo”、アクション作品“Odysseus” (2013)、インディペンデント作品“Memory of Running“(2011)、アドベンチャー作品“Airman”などが続々と待機中。



■ロブ・ハーディ(撮影)

イギリス、イングランド中部の工業都市シェフィールドの映画&音楽シーンからキャリアをスタート。数々のCM を手掛けた後、英国アカデミー賞(BAFTA)にノミネートされた短編“Pufferfish”で監督&撮影監督デビュー。ベルリン映画祭の特別賞を受賞したホラー“Jerry Dolly”(2004)をはじめ、『ヒラリー・スワンク IN レッド・ダスト』(2004/未)、『レッド・ライディ ングI:1974』(2009/未)や、英国アカデミー賞(BAFTA)の撮影賞を受賞した『BOYA』(2007)など6本の映画の撮影監督を手掛けている。


■サム・フォイアー(製作)

イスラエル人とアメリカ人の血を継ぐ俳優兼プロデューサー。役者を目指し、イスラエルからニューヨーク、そしてロサンゼ ルスへと移住。2005年に、本作の製作を手掛けるシックス・センス・プロダクションズの設立者リチャード・ハーディングのパートナーに。その直後、スティーヴン・スピルバーグ監督に見出され、アカデミー賞で5部門にノミネートされた『ミュンヘン』(2005)に出演。役者と製作を両立させながら、上質で、かつ商業的なポテンシャルを持つ優れた作品を作り出すことにチャレンジしている。 現在は、ハーディングとともに、『しあわせの隠れ場所』などのプロデューサー、ギル・ネッターと共同で、ロマンチック・コメ ディ“Just the Beginning”を手掛けるほか、ウィル・スミスの製作会社オーヴァーブルック・プロダクションズと共同で、 オーストラリア映画“The Man Who Sued God”のリメイク企画などを製作している。


■アレックス・ヘッフェス(音楽)

現代イギリスを代表する有名作曲家のひとり。 オックスフォード大学を卒業後、作詞、作曲、編曲家として幅広いプロジェクトを手がけ、エルトン・ジョンやブラーらのアーティストとのコラボレーションや、多様な音楽性が評価され、映画音楽界からもオファーが殺到。 代表作に、アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞した『ブラック・セプテンバー/五輪テロの真実』(1999)をはじめ、 英国アカデミー賞(BAFTA)に輝いた『運命を分けたザイル』(2003)、コリン・ファース、ミーナ・スヴァーリ共演の心理スリラー『トラウマ』(2004/未)、『Dear フランキー』(2004)、『ラスト・キング・オブ・スコットランド』(2006)など多数。 『ラスト・キング・オブ・スコットランド』の際には、ウガンダまで足を運び数々のバンドの音源を録音、プロデュースし、サウンドトラックに収録した。また、ラッセル・クロウ主演の『消されたヘッドライン』(2009)では、伝説的なイギリス人ロック・プロデ ューサーのフラッドとともに音楽を手がけ、ほかにもジョニー・デップ主演の『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』(2007)では、ティム・バートン監督とともに、スティーヴン・ソンドハイムの名曲を映画用に編曲・脚色。 英国アカデミー賞以外にも、ヨーロッパ映画アカデミー賞、アメリカのポップミュージックアワードASCAP賞等、数々の賞に輝く実績を持ち、バーミンガムのシンフォニー・ホール、ロンドン・ジャス・フェスティバル、エジンバラ・フリンジ・フェスティバルなどでもコンサートが開催されている。


■ポール・ナイト(編集)

本作の監督、ジャスティン・チャドウィック演出のTVドラマシリーズ「ブリーク・ハウス」(2005)で編集を務め、英国アカデミー賞、王立テレビ協会賞の編集賞を受賞。数々のテレビドラマの編集を担当、映画では、『アリ・G』(2002)、“Heartless” (2009)、『ブーリン家の姉妹』(2008)などを手掛けている。


■デヴィッド・M・トンプソン(プロデューサー)

3度の英国アカデミー賞(BAFTA)、2度のエミー賞ほか、ゴールデン・グローブ賞など輝かしい受賞歴を誇るプロデュ ーサー。10年以上にわたり在籍した BBCフィルムズでは、『リトル・ダンサー』(2000)、『アイリス』(2001)、『ルワンダの涙』 (2005)、『あるスキャンダルの覚え書き』(2006)、『イースタン・プロミス』(2007)、『ある公爵夫人の生涯』(2008)、『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』(2008)、『ブーリン家の姉妹』(2008)、『17歳の肖像』(2009)、『ブライト・スター〜いちばん美しい恋の詩〜』(2009)などさまざまなジャンルの作品を手掛け、数多くの映画賞を受賞。また、リン・ラムジー、アンドレア・ アーノルド、ソウル・ディブなどの新人監督を数多く世に送り出すことにも貢献している。2008年に BBCを退社後、インディペンデント製作会社オリジン・ピクチャーズを設立し、TV映画「大暴落 サブプライムに潜む罠」(2009)等をBBCと共同で製作している。


■ジョー・オッペンハイマー(製作総指揮)

IT企業を経て、念願だった映像業界へ。フリーランスの脚本家、監督として活躍した後、1998年にBBCフィルムズの企画チームに参加。BBC在職中の最後の 10年間は、同社のすべての作品を管理している。 代表作に、『CODE46』(2003)、『ミリオンズ』(2004)、『ライフ・イズ・コメディ!ピーター・セラーズの愛し方』(2004)、『ルワンダの涙』(2005)、『奇術師フーディーニ 〜妖しき幻想〜』(2007/未)、『ミーアキャット』(2008)、「ようこそ!No.1レディース探偵社へ」(2008〜)、『ヤギと男と男と壁と』(2009)など。アフリカで撮影を行った本作では、過去に手がけた『ルワンダの涙』や 『ミーアキャット』での経験が大いに役立っている。


■アナン・シン(製作総指揮)

傑作と評される南アフリカ映画を作り出すプロデューサーとして、1984年以降、100本以上の映画の製作を手掛ける。 レンタルビデオ屋を開くために、生まれ育った南アフリカ共和国にあるダーバンの大学を18歳で中退。そこからビデオの配給を手がけた後、ビデオヴィジョン・エンターテインメントを設立。1984年からは、反アパルトヘイトを描いた初の映画 “Place of Weeping”を皮切りに、映画製作のキャリアをスタートした。 南アフリカで製作された反アパルトヘイトをテーマにした映画のほとんどすべてに関わっており、その中には、『サラフィ ナ!』(1992)、『輝きの大地』(1995)、南アフリカ初のアカデミー賞ノミネート作となった“Yesterday”(2004)などがある。 ネルソン・マンデラ元大統領の自伝“Long Walk to Freedom”の映画化権を取得した際には、マンデラ本人から、「私が大いに尊敬するプロデューサーであり、とてつもない才能の持ち主」と絶賛されている。 そのほかの代表作に、パトリック・スウェイジ、ハル・ベリー主演の『パパと呼ばれて大迷惑!?』(1993/未)、ジュリア・オーモ ンド、ティム・ロス主演の『愛に囚われて』(1994)、スティーヴン・キングの短編小説を映画化したトビー・フーパー監督作『マングラー』(1995)、南アフリカ初のアカデミー賞外国語映画賞候補作となった“Paljas”(1998)、『ヒラリー・スワンク IN レ ッド・ダスト』(2004/未)など。また、南アフリカのNo1スター、リオン・シュースターの主演作で、南アフリカ映画界における映画興行成績TOP3の記録をもつ“Mr. Bones”(2001)、“Mama Jack”(2005)の製作も手掛けている。 唯一の南アフリカ人のアカデミー会員でもあり、2007年にはパームビーチ国際映画祭からこれまでの功績を称えられ、ワールド・ヴィジョナリー・アワードを授与されている。


■ヘレナ・スプリング(製作総指揮)

ビデオヴィジョン・エンターテインメントの代表を務め、アナン・シンとともに、これまでに60作以上のTV作品と20作以上の映画製作を手掛けている。製作総指揮にクレジットされている作品としては、スレイマン・シセ監督作“Waati”(1995)、トビー・フーパー監督作『マングラー』(1995)、南アフリカ初のアカデミー賞外国語映画部門のノミネートとなったウーピー・ ゴールドバーグ主演の『サラフィナ!』(1992)など。