【プロダクションノート】
◆2007年のある日、監督のクラウス・ハロはインフルエンザで寝込んでいた。そこに、一通のメールが届く。
「まったく知らない名前の脚本家からメールで原案が送られてきました。フィンランドの映画界はとても小さいから、脚本家の名前はほとんど知っているはずなので、寝込んでいなかったら、名前も知らない人が書いた原案は読まなかったと思う。どんな人物なのか、女性か男性かも知らないまま、とにかく自分が興味を持ったことを伝えたかった。そうしたら、その人物は40歳の元ソーシャルワーカーの女性で、休職して映画学校に通っている女性でした。そして彼女は、教師がそうしろと言ったからという理由で、僕にメールを送ってきたに過ぎませんでした。原案を読んで、すぐに彼女に会って、登場人物がいかに魅力的で、素晴らしい物語かを伝えて、書き直しを快諾してもらいました」
◆素晴らしい偶然とも言える出会いによって、この作品は動き出すことになる。
「原案を読んだときに、この映画を作ることをはっきりと決めました。すぐに、その住人と同じように古ぼけて見える家のアイディアが浮かんだんです。そして、早い段階で彼と一体となる家と、登場人物たちが自然に見える場所を探しました。映画のためにかけられる時間がかなり短かったし、最初からシンプルにやろうと決めていました」
◆作品の主軸にはカーリナ・ハザードと有名俳優のヘイッキ・ノウシアイネンを起用した。
「この原案を20ページくらい読んだら、起用したい俳優が直ぐに浮かんできました。彼らとは、とても長い間仕事がしたいと思っていました。そして、この2人だったからこそ、このフィルムに真実味が出たと思います。この物語をより説得力があるようにたくさんのことを指摘してくれ、役に近づくために本当に努力して、素晴らしい仕事をしてくれました」
◆2008年の夏に行われた撮影は、とてもシンプルな方法で行われた。
「カメラを設置して、フレームの中で俳優たちに動き回ってもらいました。フレームの中で、離れている登場人物をちゃんととらえられるように、シネマスコープを使いました。同じセットでいくつかのシーンを撮ったり、とてもシンプルな方法を選択しました。俳優がたくさんいると、大混乱になるかもしれませんが、熱心でとても小さな撮影部隊だったので、それがよかったと思います。あの夏の日々を思い出すと、夏休みだったような気分になるんです」
◆そして、本作品は2009年の4月にフィンランドで公開されて以降、世界各国でさまざまな賞を受賞していく。
「この作品は、人とのつながりや友情といったことを一番求めているのに諦めてしまった人たちが、それでもつながりや友情を探し求めるという物語です。私は、人間と言う弱い存在、そして、人が一番ダメージを受けているときにどうなるのかというテーマにとても惹きつけられます。これは、私の人生についての考え方において、とても重要かつ、常に意識していることなんです」
◆「ヤコブへの手紙」
新約聖書にはローマ世界に広く離散しているユダヤ人キリスト者を対象に書かれた「ヤコブの手紙」がある。「手紙」というより筬言調の「説教」は現代人にも刺激的文書だ。
本シネマは、「ヤコブの手紙」ではなく「ヤコブへの手紙」である。つまり盲人牧師ヤコブへ差し出された手紙が主題となっている。ヤコブという名前は、アブラハムの子イサクがリベカと結婚し、与えられた双子の弟で「足を引っ張り欺く者」との意味をもつ。この面からすればヤコブは強い欲を有する。しかし、ヤコブはまた「神は守られる」との字義もあるから、穏やかさも有するという面もあるということになろうか。
登場人物が三人という本シネマは、美しい田園地帯の牧師館を中心に織りなされるが、哀しみの調べがキートーンとなって胸に響く。
12年間(これはひとつの完結をあらわす完全数)振りに刑務所から釈放されたレイラは幾重にも屈折した人格で観る者をイライラさせるほど、感謝の念も素直さも持ち合わせていない。優しく受容するヤコブ牧師に、「長く居ませんから」「家事はしませんから」とパン切りナイフをちらつかせながら言い放つ始末。寄せられる手紙を代読し、牧師の返事の言葉を認め、送り届ける仕事もイヤイヤながら。状況の変化に不信を抱いた郵便配達夫との関係も最悪となる。
「罪」とは切れていくこと。「救い」とは赦され、再びつながることという意味が、通奏低音として流れる。
ヤコブ牧師は、盲人ゆえ心の眼で人の心を見ていく。そもそも牧師とは、羊飼いの如く羊を神の言葉で養い、導き、治める仕事だ。これを牧会というのだが、ヤコブには群れたる教会はなく、無人の教会堂があるのみである。しかし、牧師らしく人々からの悩みや魂の叫びに答えることで、慰め、励ましを与え続けようとする。この牧会をpastral
care、独語ではseelsorgeといい、魂に慰めをもたらす業をさす。その業をなすにはレイラの協力が必須であった。
祈りを乞う人を神へと導き、神の見守りの中にあることを実感させよう、孤独と絶望の中に苦悩する人と寄り添い、伴いたい、そのための道具で良いとする老牧師ヤコブ。
そんな彼も、パタッと届けられる手紙が途絶えた現実の中で、神からも人からも必要とされていないのではないかと、深い孤独感の中に陥る。妄想にとらわれた如く、来るはずもない新郎新婦を荒廃した会堂で待ち続け、聖餐式を一人だけで執行し、「役立っていると信じていたが、逆だった。神が私を天国に導くために与えてくれたもの
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それが『ヤコブへの手紙』だったのだ」と自惚れを取り去られる。
疲労困憊の中に礼拝堂で眠ってしまうヤコブ牧師。彼を置き去りにして牧師館に戻ったレイラは自殺を図る。しかし、二人をそこから目覚めさせ我に返らせるのが「雨漏り」であった。これまた象徴的。人間の老朽さ、古さ、破れを貫いてもたらされる天来の滴が救うのか。ともかく、レイラの心に大きな変化がもたらされるのは、受け容れられているという気持ちがそこはかとなく生じたからであろう。
生誕100年を迎えたマザー・テレサは、「地上での最大の病気は誰からも必要とされていないという病だ」と言った。Unwanted
Diseaseの中であなたは必要とされているのだという思いが人を生き返らせるのだろう。受容、和解、赦し
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これなくしては生きえないことを三人は各々に感じつつスクリーンに登場する。私たち人間のヒナ型として。
「どんなことでも 思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをイエス・キリストによって守るでしょう」(新約聖書フィリピ4章6チッ7)。
ヤコブ牧師が取り次ぐこの言葉が「ヤコブへの手紙」への応答らしい。
フィンランド映画。人口530万人の96%が国教であるルター派に属するフィンランド教会は日本にも宣教師を送り、日本福音ルーテル教会に参加している。素朴さ 純粋さ 熱心さをもって伝達する姿は良き感化を与えている。
切ないラストシーンではあるが、「人間のピリオド、神のコンマ」の諺そのままに、一粒の麦として死んだいのちが新しい生命へ結実することを予感させる。レイラが手に握り締めた姉の住所が、再会の希望へとつながるとの思いを与えるのだから……。
人はやはり愛に生かされ、生きるもの!
(青山学院院長 山北宣久)
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