『あの子を探して』/"一個都不能少 NOT ONE LESS"






あの子を探して [DVD]
2000年7月1日よりBunkamura ル・シネマにて公開
Bunkamura ル・シネマ


1999年/1時間46分/ヴィスタビジョン/6巻/SR/字幕:水野衛子
提供:コロンビア ピクチャーズ フィルム プロダクション アジア
配給:Sony Pictures Entertainment

◇監督:チャン・イーモウ ◇脚本:シー・シアンション ◇製作:チャオ・ユイ ◇製作総指揮:チャン・ウェイピン ◇撮影:ホウ・ヨン ◇美術:ツァオ・ジュウピン ◇編集:チャイ・ルー ◇音楽:サン・パオ ◇衣装:トン・ホアミャオ ◇キャスト:ウェイ・ミンジ(魏敏芝)、チャン・ホセクー(張慧科)





| 解説 | 監督インタビュー | ストーリー | キャスト&スタッフ | WERDE OFFICE |




【解説】

◆世界の三大映画祭を制したチャン・イーモウ監督最新作

<小さな先生と28人の子供達の健気さ、切なさに世界が泣いた、そして笑った…。> 小学校の代用教員ウェイは13歳の女の子。ある日、クラスで一番腕白な少年チャンが、出稼ぎに行った都会で迷子になってしまった。ウェイはチャンを探すため、たった一人で町に出たけれど…。

世界の三大映画祭を制した中国の巨匠チャン・イーモウ監督に、奇跡ともいえる2度目の金獅子賞(グランプリ)をもたらしたのが本作。少女ウェイが健気に逞しく教え子を探す姿を、美しい映像とナチュラルなユーモアで描き出した爽やかな涙の感動作です。

デビュー作『紅いコーリャン』でベルリン映画祭金熊賞(グランプリ)を獲得して以来、『秋菊の物語』でヴェネチア映画祭金獅子賞、『菊豆』で米アカデミー外国語映画賞ノミネート。『生きる』(未公開)でカンヌ映画祭国際映画批評家連盟賞を受賞し、名実ともに世界の頂点に立った監督。これまで、コン・リー(鞏俐)という華やかな女優を得て、めくるめくような色彩感覚で情念漂う愛憎の世界を作り続けてきた彼が、今回は一転、純朴で清らか、シンプルだけれど心のこもった贈り物のような映画を届けてくれました。“優しさと教育は光。光が子供たちと世界を変える”というメッセージで、見る者すべての心をピュアな気持ちで包み込んでくれます。

舞台は中国の小学校。ここへ、1カ月間学校を離れることになったカオ先生の代わりに、村長から代用教員に指名された少女ウェイがやってきます。

可愛いけれど、やんちゃで生意気な28人の生徒たち。「生徒が一人もやめなかったら褒賞金をあげる」というカオ先生の言葉を信じて、子供たちを懸命に見張り続けるウェイ。しかしある日、いつもウェイ先生を困らせてばかりいた少年チャンが都会に出稼ぎに行ってしまいます。ウェイはチャンを連れ戻そうとしますが、町に出るバス代すらありません。みんなで切符のお金を稼ぐには、レンガをいくつ運べばいいか?チャンの奪還計画はあっという間に算数の授業に早変わり。子供たちは一生懸命レンガ工場で働いて、なんとか先生を送り出しました。

けれど、都会に着いたウェイを待っていたのは、チャンが行方不明になったとの知らせ。街の喧噪に驚きながらも、人々のくれる優しさと偶然に支えられながら、チャンを探して奔走するウェイ。はたして、彼女はチャンを見つけ出すことができるのか?

最初はお金ほしさに始めた代用教員の仕事。しかし、ウェイはしだいに子供たちの純真さに触れ、一緒に学ぶことの楽しさに気づいていきます。チャンを探し出したいという強い願いは、やがてウェイに人の絆と愛の大きさを知らせることになるのです。そして、彼女がやり遂げたこと、それによってつかんだ喜びは、現代人が失ってしまった生の感情や逞しさをまるごと私たちに伝えてくれます。可愛らしくて清らかな子供たちの心は、きっと見る者の心をも癒してくれるに違いありません。

監督は「観客は以前にも増して共感できるキャラクターを求めていると思う。そして、この映画で描かれた感情はとてもリアルで人を感動させるものだ」と語っています。彼はコン・リー主演の『秋菊の物語』でもドキュメンタリー的な手法で何気ないリアリティを生み出しましたが、今回は一人もプロの俳優を使うことなく、登場人物そのもののようなキャストから嘘のない本物の感情を引き出してみせます。たとえばウェイを演じた13歳の少女ウェイ・ミンジ(魏敏芝)は、全国で2千人以上もの候補者の中から選ばれた河北省の中学校の生徒。チャンを演じた10歳のチャン・ホエクー(張慧科)も河北省の小学校に通っています。また、村長もカオ先生もテレビ番組司会者も、実際に同じ職業の人々。監督は出演者全員にその状況に彼らが置かれたらどうするかを問い、彼らが答えたようにカメラの前で演じさせました。彼らの存在そのものから漂う巧まざるエモーションは、静かにじわじわと私たちの心に染み込んで、いつの間にか胸を熱くし、涙を溢れさせるのです。 中国の小さな村の素朴な情景の中に、魅力的なキャラクターを瑞々しく写し撮った撮影は、ティエン・チュアンチュアン(田壮壮)監督の『青い凧』『盗馬賊』やイム・ホー監督の『息子の告発』で知られる名手ホウ・ヨン(候咏)。北京電影学院の撮影学科でイーモウのクラスメートだった人だけに、監督とは絶妙のコンビネーション。ドキュメンタリー的でありながら優しい表情に包まれた映像の奥行きが映画全体を豊かに息づかせています。生活感のあるリアルな美術は、これまでのイーモウ監督の全作品を担当してきたツァオ・ジュウピン(曹久平)。イーモウ監督の『Keep Cool』のほか、チェン・ウェン(姜文)監督の『太陽の少年』やチェン・カイコー(陳凱歌)監督の『花の影』で記録を担当したチャイ・ルーが今回は編集を担当。そのほか、中国最高のスタッフが結集して、イーモウ監督のオリジナルなビジョンを具現化しています。



 




【監督インタビュー】

Q.この題材のどこに惹かれたのか?

A.私の母方の親戚には地方で教職に就いている者が多い。昔から教師に親しみを感じてきた。地方の学校を見かけると授業を覗きたいと。小説家で本作の脚本家のシアンションは山西省にある新絳の郊外で教師にインタビューし原作を書き上げた。小説を読んで深い感銘を受けた。

Q.この映画では素人の俳優を使っているが、困難は?

A.映画の成功のカギはウェイの役。彼女を探すのは気の遠くなる作業だった。助監督リー・ホンは、全国を歩き何千人もの子供たちと面接。数人の候補者を絞り込み、私が二人の最終候補を選んだ。
実はウェイは二番手。もう一人の方は率直で辛抱強く頑固な役柄にぴったりだった。が、この役には年齢が高すぎた。物語に必要だったのは、教える生徒たちと同じ年頃の先生。彼女が陥った状況の矛盾を明確にしたかった。
最後のスクリーン・テストまで最終的な判断を下さず彼女たちを混雑した道に立たせ、頭に浮かんだことを大声で叫ぶように指示した。別の少女は大勢に囲まれ緊張し叫べなかったがウェイはお腹の底から叫んで注目を浴びた。自然な率直さとユーモアがあった。

Q.役づくりにはどんな指導を?

A.指導はなし。役柄について話したりしなかったし、誰にも脚本を読ませなかった。中国人は、最近ますます大衆文化、特にテレビの影響を受けている。脚本を渡したら、きっとその役をどのように演じるべきかを問い考える。そして、唯一のお手本となるのはテレビで見たもの。彼らがその真似をしたら、引き出そうとした自然な表情が失われてしまう。

Q.それでも、最終的には演技も要求。カメラの前での自然な演技の秘訣は?

A.できる限りカメラや撮影機器を目に触れないようにした。そのことで日常的な環境にいるように感じさせたかった。正しい判断をしたと思う。
以前、『秋菊の物語』でも自然でリアリスティックな撮影をした。ただし、演じたのはプロの俳優たち。主役はコン・リーが演じたがまったく別人に変身。端役でさえ、経験を積んだ俳優。しかし今回はプロの俳優は一人も使っていない。さらに、各人が現実の世界と同じ役を演じた。全員が素晴らしい仕事をした。手法の選択は何を語るかによる。



【ウェイ・ミンジは語る】

始めて監督に会った時、だいぶ年をとってるけど健康そうな人だなと。監督の声はとても優しくて、しゃべりすぎたみたいに少ししゃがれてた。オーディションで、彼の中国語が理解できなかったので、助監督に通訳してもらった。でも、監督が天性のリーダーだとは直感した。

監督は最初、何かを手に持って私の回りをぐるぐる歩いた。それがビデオ・カメラだとわかったのは、しばらくたってから。3回目に会ったときも、まだ監督の名前を知らなかった。たくさんの質問にできる限り答えた。長い時間だったけど、くだけた会話でよく笑った。

監督はカメラ・テストではとても真剣な表情になって、私のやることを何度も直させた。だから私は、あまり上手にできなかったのだと思い、絶対に選ばれないと確信したが数日後にもう一度呼び出された。監督が暗い顔をしたので、第一候補に何かあったかと。とても緊張したけど、最善を尽くした。途中で監督が微笑んだ。その時になって初めて、もしかしたら私にもチャンスが?と思った。

生徒たちを除くと、クルーの中で私が最年少、皆、親切。でも厳しかった。一番厳しかったのは監督で、映画の仕事以外にも、私が毎日学校の勉強をしているか確認していた。 監督が納得するまで何度も同じシーンを撮り直した。私だけがミスをしても、すべてやり直し。私は自分自身にいらついたが、監督は怒らなかった。私を気楽にしてくれた。 監督の作品の多くが田舎が舞台なので、“農民監督”と呼ばれていると聞いた。私もこれは正しいと思う。ただ私がそう思うのは、監督の人柄や生き方から。監督はとても素朴で率直。偉大な監督であると同時に、私の先生。演技だけではなく、いかにより良い人間になるかを教えてくれた。
 




【ストーリー】

<尋ね人>

13才の先生が迷子の生徒を探しています。
グレイのシャツの男の子。
母さんが病気でこの街に出稼ぎに。
教室で一番わんぱくだけど、今はとても心配しています。




<11才の腕白な生徒が都会で迷子に!?遠い町だけど探しに行かなくちゃ!> 中国河北省赤城県チェンニンパオ村にあるシュイチアン(水泉)小学校。1年から4年まで28人の生徒たちを教えているカオ先生が、病気になった母親を看病するためにひと月ほど学校を離れることになった。村長はカオ先生の代わりに子供たちの面倒を見る代用教員としてウェイ・ミンジをみつけてくる。ウェイは中学も満足に卒業していない13歳の女の子。生徒とたいして歳も違わない彼女に代理が務まるはずもない。カオ先生は村長に講義するが、片田舎でこんな仕事を引き受けてくれる人などほかにはいない。

学校では学年の始めに40人いた生徒たちがだんだん減り、今では28人になっていた。もう一人たりともやめさせるわけにはいかない。カオ先生は、そうウェイに言い聞かせると、もし留守の間にだれもやめなければ報酬を10元増やすと約束する。

こうしてウェイの先生としての生活が始まった。名前を読み上げて出席をとり、黒板に書いた文章を書き取らせるのが授業。生徒たちがこれで何かを学べるかどうかなど彼女には関心がない。彼らが教室にいてくれさえすれば、報酬とカオ先生の褒賞金がもらえるからだ。彼女は一日の大半を教室のドアの外に座って生徒たちが逃げ出さないように見張って過ごすことになった。

そんなウェイの最大の悩みは10歳の少年チャン・ホエクーだった。賢いけれど腕白な彼は、ことあるごとに彼女のじゃまをして困らせていた。ある日、教室から逃げ出したチャンを追いかけて捕まえようとしたウェイは、チョークの箱を落としてバラバラにしてしまう。しばらくして学級委員をしている少女チャン・ミンシエンの日記を読み、カオ先生がどんなに苦労してこのチョークを手に入れたかを知ったウェイは、少女の前でチャンに謝らせ、弁償させることにする。

ところが翌日、ウェイが教室に入って行くと、チャンの姿が見当たらない。心配になって彼の家を訪れたウェイは、病気の母親からチャンが家計を助けるために町に出稼ぎに行ったことを知らされる。大変だ!ミン・シンホンという足の速い女の子がスカウトされて町に行ってしまっただけでも、一人減っているのに、チャンが学校をやめたらカオ先生の10元がもらえない。彼の後を追って連れ戻すしかない。しかし、町へ出るにはバス代がいる。ウェイは生徒全員からお金を集めたものの、片道の金額にさえ届かない。そんなとき、一人の生徒が近くの工場でレンガ運びをして金を稼ぐことを思いつく。

バス代は片道3元。チャンは帰路だけだから合計9元。レンガを一つ運べば5角だから、9元集めるためには…。教室は実地の算数の勉強の場となった。計算が終わって工場に出かけた先生と生徒たちは、誰もいないので勝手にレンガを運び始めた。ところが、作業が終わった頃に工場長が現れ、「余計なことをした」と怒り出す。けれど、事情を聞いた工場長は、生徒たちに同情して15元を渡してやる。帰り道、子供たちは余ったお金でコーラを買い、みんなで一口ずつ飲んで渇いた喉を潤すのだった。

子供たちの心は達成感でいっぱい。バス代の9元を手に、勇んで停留所へ向かった。しかし、実際のバス代は片道20元。工場長の話では1万個運んで40元だから、とても稼げる金額ではない。そこで、子供たちが考えたのが“タダ乗り”。ウェイは乗客に紛れ込んでバスに乗り込んだ。

しかし現実はそう甘くない。荒野の真ん中でバスから放り出されたウェイは、それでも何とかヒッチハイクをしながら町にたどり着いた。

チャンの母親から聞いた住所を探してアパートにやって来たウェイ。しかし、彼と一緒に来た少女は、チャンが駅のトイレに入ったきり見失ったと言う。仕方なくウェイは、少女の一日の工賃を払って二人の足どりを再現。手がかりはゼロ。駅の構内放送で呼びかけてもらうが応答はない。そこで、有り金をはたいて紙と鉛筆を買い、尋ね人広告を書くことにするが。ウェイはチャンに会えるのだろうか?





 




【キャスト&スタッフ】

■ウェイ・ミンジ
(本人:魏敏芝 河北省赤城県チァリンパオ村中学校の生徒)

■チャン・ホエクー
(本人:張慧科 河北省赤城県トウパオジ村小学校の生徒)

■チャン村長
(チャン・ジェンダ 北京延慶省タチュアンクー地区シュイチアン(水泉)村村長)

■カオ先生
(カオ・エンマン 北京延慶省ティエンチャディアン地区シュサンジ村ツォンチン小学校教諭)

■テレビ局の受付
(フォン・ユイイン チャンチャコー(張家口)市人民公園チケットオフィス事務員)

■テレビ番組司会者
(リー・ファンファン 同市テレビ局、経済番組司会者)

■チャン氏
(チャン・イーチャン ヤンチン県スポーツ局指導員)

■煉瓦工場のオーナー
(シイ・ジャンチン ヤンチンチェンチアンディアン県ホンシワン村村長)

■チャンの母
(リウ・ハンジ 北京ヤンチン県フォンゴウ村在住)

■テレビ局のマネージャー
(ウー・ワンルー チャンチャコー放送局のアナウンサー)

■駅のアナウンス係
(リウ・ルー 同市駅アナウンス係)

■文具店の店員
(ワン・シュウラン 同市アイワンツァーイ文具店の店主)

■テレビ局のディレクター
(フー・シンミン 同人民テレビ局番組部長)

■レストランの経営者
(バイ・メイ 同市ジーシン・レストランの店主)

■その他
河北省赤城県チェンニンパオ村、シュイチアン(水泉)小学校の生徒たち


■監督:チャン・イーモウ(張芸謀)

1950年、西安生まれ。1966年に起こった文化大革命にともなって1968年に下放され、最初の3年間は陜西省の農場で、1971年から1978年にかけては紡績工場で労働についた。幼い頃から芸術や写真に興味を抱いていた彼は、自分の作品が出版される機会がほとんどないにも拘わらず、趣味としてスチール写真を撮り続けた。

文革が終わり、1978年に北京電影学院が行った試験を受けたイーモウは高得点を取って合格。しかし、当時27歳だった彼は、年齢制限を5歳も上回ることを理由に入学を拒否された。2度も北京を訪れたがこの決定は覆されず、思い余ったイーモウは文化庁の長官に直接手紙を書き、文革のために10年を無駄にしたと訴えた。そして2カ月後、電影学院撮影学科への入学が許可された。

1982年に卒業した彼は、広西映画製作所に配属された。1985年には西安映画製作所に転属し、カメラマンとしてチャン・チュンチャオ監督の『一人と八人』(1982)、チェン・カイコー(陳凱歌)監督の『黄色い大地』(1983)と『大閲兵』(1985)に携わった。

監督デビュー作は1988年の『紅いコーリャン』。カラフルな色彩で男女の愛と逞しい庶民の心情を力強く、娯楽性豊かに描いたこの作品は、1989年のベルリン映画祭で金熊賞(グランプリ)を受賞。この映画のためにスカウトしたコン・リー(鞏俐)とはこの後もコラボレーションを続け、数々の話題作を生み出すことになる。

1990年には『菊豆』で米アカデミー賞にノミネート。『紅夢』(1991)で再びノミネートされるとともにヴェネチア映画祭銀獅子賞を受賞。続く『秋菊の物語』(1992)で同映画祭金獅子賞を、『生きる』(未公開・1994)でカンヌ映画祭主演男優賞と国際映画批評家連盟賞を受賞し、世界で新作が待たれる作家の一人になった。その後、『上海ルージュ』(1995)をカンヌ映画祭に、『Keep Cool』(未公開・1996)をヴェネチア映画祭に出品。本作で2度目のヴェネチアグランプリという快挙を成し遂げた。

また、1997年にはイタリア、フィレンツェでズービン・メータの指揮によりプッチーニのオペラ「トゥーラントッド」を演出。1998年には再びメータと協力して同作品を北京の柴禁城で再演した。



■撮影:ホウ・ヨン(候咏)

1960年生まれ。北京電影学院撮影学科卒業。この学校ではチャン・イーモウの同級生だった。これまで、香港の監督イム・ホーの『息子の告発』(1994)、イーモウらと並ぶ中国第五世代の硬派監督ティエン・チュアンチュアン(田壮壮)の『盗馬賊』(1985)や『青い凧』(1993)の撮影を担当。


■美術:ツァオ・ジュウピン(曹久平)

西安美術学院を1982年に卒業。『紅いコーリャン』で美術助手を務め、その後はチャン・イーモウの全作品で美術を手がける。


■音響:ウー・ラーラー

北京電影学院声楽科卒業。チャン・ユアン(張元)監督の『東宮西宮』(1997)、香港の女性監督アン・ホイの『English Splings』、チャン・ヤン(張揚)監督作品『スパイシー・ラブ・スープ』(1998)など。


■編集:チャイ・ルー

北京出身。スター俳優チャン・ウェン(姜文)の監督デビュー作、『太陽の少年』(1995)、イーモウと並ぶ第五世代の監督チェン・カイコー(陳凱歌)の『花の影』(1996)やイーモウ監督の『Keep Cool』(1996)で記録を担当。ロカルノ映画祭金豹賞受賞ルー・ユイ(呂楽)監督『趙先生』で編集デビュー。


■音楽:サン・バオ

1968年、北京生まれ。北京音楽学院を卒業した後、『離婚』『Be ThereOr Be Square』という2本の映画の音楽を担当。


■脚本:シー・シアンション(施祥生)

1942年、上海生まれ。文化大革命の際にはシルクロードの西方に下放。分革が終わった後もこの地に教師としてとどまり、同時に執筆活動を始めた。『離婚』や『The BirthdayPresent』などの著作があり、数々の賞を受賞。


 









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