『シベリアの理髪師』/The BARBER of SIBERIA
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(C)1999 STUDIO THEREE T,CAMERA ONE
9月30日より有楽町スバル座ほか全国ロードショー

1999年/フランス=ロシア=イタリア=チェコ合作/カラー/スコープサイズ/SRD上映時間:2時間42分 オリジナル・サウンドトラック=ソニー・クラシカル/字幕:戸田奈津子/題字:黒柳徹子
提供・配給:日本ヘラルド

◇監督:ニキータ・ミハルコフ ◇原案:ニキータ・ミハルコフ ◇脚本:ルスタム・イブラギムベコフ、ニキータ・ミハルコフ ◇協力:ロスポ・パレンベルグ ◇撮影監督:パーヴェル・レベシェフ ◇プロダクション・デザイン:ウラジーミル・アロニン ◇衣装デザイン:ナターシャ・イワノワ ◇編集:エンゾ・メニコーニ ◇音楽:エドワルド・ニコライ・アルテミエフ ◇プロデューサー:ミシェル・セイドゥー ◇共同プロデューサー:ニキータ・ミハルコフ ◇製作:カメラ・ワン(フランス)、スリーTプロダクションズ(ロシア)、フランス2シネマ(フランス)、メデューサ(イタリア)、バランドフ・ビオグラフィア(チェコ共和国)

◇キャスト:ジュリア・オーモンド、オレグ・メンシコフ、リチャード・ハリス、アレクセイ・ペトレンコ、ウラジーミル・イリーイン



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【解説】

ドレスの下の白磁の肌 軍服の下の青光る肌
激しく激しく燃やせ 恋の炎に


カンヌ映画祭審査員大賞、そしてアカデミー賞外国語賞を獲得した『太陽に灼かれて』から5年。世界中が待ち望んでいたロシアの巨匠、ニキータ・ミハルコフ監督の新作が完成した。それが『シベリアの理髪師』だ。
前作から一転、名誉と高潔が誇りとされていたロマンチシズム溢れる19世紀帝政ロシアを舞台に、男と女の運命的な恋が圧倒的スケールで語られる本作は、昨年度カンヌ映画祭のオープニングを飾り熱狂をもって迎えられ、本国ロシアでは、モスクワのクレムリン宮で行われたプレミアに前ソ連国家主席ゴルバチョフなどの要員を始め華麗なゲストが結集。
「歴史の宿命や、芸術性を通じてロシアの人々に誇りや尊厳を取り戻して欲しかった」と監督自身が語る『シベリアの理髪師』は、空前のヒットを記録し「ミハルコフ現象」を巻き起こしている。

1885年帝政ロシア。一人のアメリカ人女性ジェーン・キャラハン(ジュリア・オーモンド)がモスクワに降り立った。シベリア森林開墾の為の技術開発に携わる発明家ダグラス・マクラケンを訪ねてロシアへやってきた彼女は、ふとしたきっかけでトルストイ(オレグ・メンシコフ)という名の若い士官学校生と恋に落ちる。彼女にとって戯れにすぎなかった恋はやがて、遠くシベリアへと思わぬ悲劇を招く事に…。
ヒロインを演じるのは『サブリナ』『レジェンド・オブ・フォール/果てしなき想い』のイギリス人女優ジュリア・オーモンド。快活さと猥雑さで周囲を惑わせながら、その暗い過去が明らかになるにつれて露見する悲劇を見事に演じきり、女優としての新境地を切り拓いた。対する恋人には『太陽に灼かれて』に続いての主演となるロシアの俳優オレグ・メンシコフ。実年齢より遥かに若い役というリスクを監督の信頼に答えて好演、“恋”を知り、憑かれていく様、そしてラスト・シーンは圧巻である。頑迷で魅力たっぷりな発明家マクラケンには『許されざる者』『グラディエーター』などの演技派リチャード・ハリス、物語の鍵を握るラドロフ将軍にはロシアで国民的人気を誇る舞台の名優アレクセイ・ペトレンコ、そしてアンジェイ・ワイダ監督作品で有名なダニエル・オルブリスキがコプノフスキを演じている。前作では主演も兼ねたミハルコフ監督は、ロシア皇帝アレクサンドル三世役で顔を出している。

製作のミシェル・セイドゥー、共同脚本のルスタム・イブラギムベコフ、編集のエンゾ・メニコーニ、プロダクション・デザイナーのウラジーミル・アロニン、衣装デザイナーのナターシャ・イワノワ、録音のジャン・ウマンスキーは『太陽に灼かれて』から引き続いての参加。撮影監督は『機械じかけのピアノのための未完成の戯曲』、オックスフォード映画祭撮影賞を受賞した『オブローモフの生涯より』、そして『コーカサスの虜』などを手がけ、ミハルコフご用達の“眼”を持つパーヴェル・レベシェフ。音楽はロシア映画界の巨匠、エドワルド・ニコライ・アルテミエフ。シベリアから赤の広場では2000人のエキストラを使い、ソ連崩壊後のロシア映画としては最大規模、ヨーロッパ映画としてもかつてない製作費5400万ドルを投入して完成した新生ロシア映画界の威信を賭けたエピック・ドラマである。

「変わりゆくロシアで私達に出来る事は、私の映画で価値あるものとして賛美されているものが、ひょっとしたら未来のロシアで見直されるかもしれないと希望を持つことだけです」と語るミハルコフ監督。タイトルに込められた謎、モチーフであるモーツァルトの音楽の演出の巧みさ、オペレッタのような軽快さと、文学的な深遠さ、芸術的な膨らみを兼ね合わせてしなやかに語られる『シベリアの理髪師』は、自ら名門の出身であり、歴史と伝統を重んじ「帝政ロシア」を愛してやまないニキータ・ミハルコフ監督の集大成であり、真のドラマの復権である。黒沢、キューブリック亡き後、“ドラマ”で映画を語るという贅沢を味わえるのは、彼の作品をおいて他にはなく、この感涙のラブ・ロマンスに心を揺さぶられない者はないだろう。




 


【ストーリー】

◆それは 初めての真実の恋だった。

1905年、アメリカ。
一人の女性が陸軍士官学校に入った息子アンドリューに宛てて手紙を書いている。
彼の出生の秘密を明かすために。その発端は20年前のロシアにさかのぼる…。

1885年。アメリカ人女性ジェーン・キャラハン(ジュリア・オーモンド)は、モスクワへ向かう列車ので士官候補生アンドレイ・トルストイ(オレグ・メンシコフ)と出遭った。彼は士官学校で上演されるモーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」でセヴィリアの理髪師フィガロ役を演じることになっていると言う。 モスクワ駅ではダグラス・マクラケン(リチャード・ハリス)がジェーンを出迎えていた。彼はシベリアの森林開墾用の巨大な“マシーン”の開発に熱中していたが、それには大公の資金援助が必要だった。そのために彼はジェーンを呼び寄せたのだ。ジェーンは大公に近い実力者ラドロフ将軍(アレクセイ・ペトレンコ)を士官学校に訪ね、マクラケンの娘と名乗り、言葉巧みに彼の歓心を買う。そこで、彼女は、酔って騒いだ罰に仲間たちと床磨きをさせられていたトルストイに再会し、彼が列車に忘れていった写真を返す。
ジェーンは将軍の招待でマクラケンと共に士官学校の舞踏会に出席する。トルストイはジェーンのダンス・パートナーの座を友人のポリエフスキー候補生(マラット・バシャロフ)に取られて内心穏やかでない。ポリエフスキーはトルストイがジェーンに恋をしていることを見透かし、彼をからかっていたのだ。度重なる侮辱にとうとうかっとなった彼は、ポリエフスキーに決闘を申し込む。事件は班長の機転で表沙汰にならずにすむが、トルストイは怪我をし、退学を決意する。翌朝、ジェーンはポリエフスキーから、学校に留まるようトルストイを説得してほしいと頼まれ彼を見舞う。トルストイの退学を思い止まらせるため、ジェーンは初めて彼にキスをする…。



やがて候補生たちが士官に昇進する日が来る。皇帝アレクサンドル三世(ニキータ・ミハルコフ)が見守る前で行進する新士官たち。その中にトルストイの晴れやかな顔もあった。
だがその日、厄介な出来事が彼を待っていた。ジェーンの家へ向かう途中、トルストイを見かけた将軍が、英語の苦手な自分の代わりにプロポーズの手紙を読み上げてほしいと命じたのだ。驚いたトルストイは言われるままに将軍に同行するが、

ジェーンの前で手紙を読み上げるうち、とうとう自分の想いを告白してしまう。将軍は激怒するが、トルストイへの処分は保留する。大公が臨席する翌日のオペラでフィガロを演じられるのは彼しかいないからだ。 その夜ジェーンはトルストイを自宅に訪ね、将軍の気を引いたのはマクラケンのためだったことを明かす。 トルストイの純粋な思いに深く心を動かされた彼女は、その夜、彼と愛を交わす。それは彼女にとって初めての真実の恋だった。

翌日、トルストイはフィガロを熱演する。一方ジェーンは昨日の件で怒っている将軍に何とか大公への口ききを頼もうと必死だった。幕間、トルストイのことは何とも思っていないと将軍を説得するジェーン。だがそれを偶然耳にしたトルストイは、彼女に騙されていたと誤解し、絶望の底に叩き落とされ、嫉妬と怒りにかられ、将軍に襲いかかってしまう。
トルストイは大公を殺そうとした罪人としてシベリアでの重労働の厳罰に処せられる。ジェーンは将軍に真実を証言するよう迫るが、彼は聞く耳を持たない。ジェーンは護送列車が出る駅へ急ぐが、混雑の中、トルストイを見つけることもできない…。

1895年。ジェーンはマクラケンと結婚し、アメリカへ帰国して母親となっていた。トルストイと連絡を取ろうとする彼女の努力はすべて徒労に終わった。だが、大公の援助でマクラケンの“マシーン”が完成、シベリアでテストを行うことになり、ようやくチャンスが巡ってくる。彼女がマクラケンと結婚したのも、すべてこの日のためだったのだ。シベリアに着いたジェーンは密かに突き止めていたトルストイの家に向かう。だが主不在の小屋で彼女が見つけたのは、理髪師の看板と、彼が妻子と写っている写真だった。ジェーンは最愛の人を失ったことを知り、傷ついた心を抱えて去って行くのだった。



 


【プロダクション・ノート】

■脚本より分厚かった“監督リポート”

ミハルコフ監督による脚本第一稿は600ページもある大河小説並みの大作だった。“登場人物たちの成長を20年に渡って描いたロマンス作品だったんだ”と彼は明かす。その後脚本は手直しされ、最終的には当初のものとはかなり印象の異なる、もっと簡潔な物語になった。 ミハルコフ監督は脚本決定稿の他に、すべての登場人物、すべてのシーンについて解説した詳細なメモも用意した。シーンの内容、撮影方法、雰囲気、衣装、照明から、起こりうるミスのことまでが書き込まれたこのメモは、脚本の約1.5倍もの長さがあった。
監督はこう説明する。“これを読めば、衣装のことや、創作上の判断、その他諸々についてのあらゆる疑問の答えが見つかるようになっている。だからみんなにもこのレポートを読ませたが、そのお陰で新たな疑問が浮かんできても即座にそれがはっきり明確化されるんだ。スタッフからエキストラは何人要るかとか、どんな衣装を着せたらいいかなどと聞かれることはなかったよ。リポート作りは大仕事だが、結局はすごく役に立つということさ”。 このリポートはロシア語版の他、フランス語版と英語版も作られ、全員にコピーが配られた。


■厚い信頼で結ばれたミハルコフとオーモンド

プロデューサーのミシェル・セイドゥーによれば、今回のキャスティングで重視されたのは知名度よりも人間関係だった。“『シベリアの理髪師』のような長丁場のプロジェクトの場合、監督と出演者が純粋なキャスティング関係以上のもので結ばれる必要がある”と彼は言う。“キャスティングのプロセスでは、映画にとって商業レベルでは有益と思われる人たちの名前もいくつか挙がったが、人間関係という点ではしっくりいかなくてね”。
ヒロインに起用されたのは英国出身の実力派ジュリア・オーモンド。1996年7月にパリで初めて監督と会った後、8月末にはスクリーン・テスト、11月からは撮影とトントン拍子に進んでいった。ミハルコフ監督はリハーサルを重視することで知られるが、それは出演者との信頼を深める過程でもある。“私たちはたっぷり稽古をしたが、ジュリア・オーモンドは仕事仲間としても素晴らしいし、若き一女性としても素敵な人だということがよくわかったよ”と彼は絶賛する。オーモンドも、“ニキータとは信頼に基づく関係を築くことができたわ”と語る。“なぜって、彼はこの人となら女優として思い切ったことをしてみたいと思える数少ない監督のひとりだから。彼が私の仕事に道筋をつけ、楽な気持ちにさせてくれたことに、すごく感謝しているわ”。


■再会を果たした出演者たち

トルストイ役はオレグ・メンシコフに宛て書きされたものだった。前作『太陽に灼かれて』で『絆』以来12年ぶりにミハルコフ作品に出演したメンシコフは監督とは旧知の間柄。彼は言う。“ニキータが僕にシーンの説明をしなくちゃならないようなことは決してないし、僕も同じだ。僕らはあうんの呼吸で結ばれていて、お陰で物事が遥かに簡単に運ぶんだ。当然、『シベリアの理髪師』でもそれが役立ったよ”。
ラドロフ将軍を演じたアレクセイ・ペトレンコもまたミハルコフの昔からの知り合い。ミハルコフは『持参金のない娘』で彼と共演した時の思い出をこう振り返る。“その日の撮影は主役級の俳優たちが出るシーンだったんだが、みんなやる気満々で、最高の演技をしようとワイワイ言い合っていた。ペトレンコはひとり隅っこに腰を下ろして静かにしていたよ。するとみんなが彼の方に目を向け始めたんだ。彼はわれ知らず、みんなの注目を引きつけてていたというわけだ。妙な話だが、『シベリアの理髪師』で彼を使った後も、未だに私は彼のパワーの秘密がわからないんだ”。


■暖かくなごやかな撮影現場

ハードな製作条件にもかかわらず、ミハルコフの撮影現場の空気はなごやかだった。リチャード・ハリスは言う。“俳優は脚本に描かれているユーモアの要素には、自然と心引かれる傾向があるんだが、ニキータは一端現場に入ると即興を始め、山のようにあたらしい要素を加えていく。それがまたコミカルで愉快でね。現場を見ていてあんなに大笑いしたのは初めてだよ。かと思うと物語が急展開して悲劇的になり、さらに最後には全然違った風になる。これぞドラマの真骨頂だね。”
アレクセイ・ペトレンコも“現場で思いっきりハメをはずした演技が許され、それどころか奨励される、素敵な精神病院だった”と言う。“ニキータとの映画作りはいつも面白可笑しいものになるんだ。ミスをしても誰も怒鳴らない。その代わりみんな笑いだすんだ。しかもいちばん大声で笑っているのが監督だった、なんてことがしばしば…”。
ジュリア・オーモンドは、ニジニー・ノブゴロドでのロケで起きた、現場の雰囲気を象徴するような逸話を披露する。“私たちは一匹の猫を撮ろうとしてたんだけど、その猫は隅っこにのらくらと座りこんじゃって、頑として撮影現場から動かないの。たいしたことじゃないと思われるかもしれないけれど。これが現場の典型的な雰囲気なのよ。動物も子供も邪魔者扱いされない現場なの。誰もがすごく楽しそうだったし、それが普段の気構えにも影響したような気がするわ”。


■言葉と国境を乗り越えたクルーたち

ロシアでの撮影は、西側のクルーにとっては戸惑いと驚きの連続だった。 他の作品の撮影でこの国を二度訪れた経験を持つオーモンドですら、“ニキータの現場はびっくりするような出来事の連続”と言う。“例えば撮影が始まったばかりの頃のことだけど、「カット」と声がかかったのに、エキストラの人たちは何事もなかったかのように演技を続けたの。突然、まるでその場所だけ独立した存在になって好き勝手に動き始めるような感じだった。あの人たちにとってはあのお祭りのシーンはもはや現実のものになっていたんだわ”。
1957年に大学演劇部の公演でこの国を訪れて以来、4度の訪問経験を持つリチャード・ハリスはこう語る。“僕らはロシアといえばこれこれというお決まりの面にばかり目を向けてしまいがちだ。シベリアと言えば収容所、といった具合にね。だがそのうち本当のロシアの大きさがわかってくる。標準時間が12ゾーンにもまたがっている国だということがね。撮影現場まで行くのに、毎朝この広大な中を二時間半かけて横切っていくんだ。幾千もの川や山、そして一年のうちの或る時期は葉が黄色くなる驚異的なマッツの森を眼下に見ながら飛んで行くんだよ”。
セイドゥーは長い撮影を通じて最も驚かされたのは、国籍の異なるクルーが一致団結し、日に日に進歩していく姿だったと言う。“イタリア、フランス、イギリス、ポーランド、チェコ、ロシア、ポルトガル―様々な国の人たちが集まって、ひとつのヨーロッパ一家を作り上げたんだからね。言葉の問題はあったが、私が何より驚いたのは、各人が個性やお国柄を犠牲にしなくてもコミュニケーションが成立したことだ。脱落者は一人もいなかったよ。仕事が上達していく様にも心打たれたね。全員が何か巨大なものにゆっくりと加わっていこうとしているという、そんな感覚だ”。


■撮影・編集と音楽に見るミハルコフ流

ミハルコフ監督は通常、1つのシーンを撮るのに、まず1ショットずつ順撮りした後、人物のそれぞれを中心にしたカットに切り替えてもう一度撮り、それからディテールの撮影に移るという方法をとる。従って他の監督なら10ショットですむところが、14ショットだったり18ショットだったりする。しかも各ショットはすべて1シーンまるまる回した長さである。スクリーンでは5分のシーンが、撮影には1時間かかるということになるわけで、当然、編集すべきフィルムもそれだけ多くなる。またミハルコフ監督は音楽にも造詣が深く、撮影現場でブラスバンド、軍隊マーチ、オペラなどのありものの音楽を流すことも多かった。オリジナル曲は撮影終了後、エドワルド・アルテミエフが作曲。オーケストラ録音はモスクワ、調音はパリで行われている。


■ロシア軍の協力下、空前の規模で行われたハードなシベリア&モスクワ・ロケ

撮影は1996年9月、シベリアでの7週間のプリ・シュートからスタートした。11月上旬から1月下旬まで3か月の休みをはさんだ後、2月中旬からモスクワに戻って映画後半の冬のシーンを撮影。4月から6月までのプラハのバランドフ撮影所、7月には再びモスクワで今度は夏のシーンを撮影。8月にはポルトガルで米国陸軍士官学校のシーンが撮影された。
大規模なプロジェクトだけにロケハン、機材、物資の輸送から撮影に到るまで、クルーは苦労の連続だった。撮影機材はヘリでシベリアまで空輸されたが、軽量ヘリを輸送するのは楽な仕事ではなかった。またシベリアでは少しでも雲が出ると、天候の予測がつかないというのでパイロットが飛行を拒否した。“100%西側の条件で撮っていれば、間違いなくもっと楽な撮影になっていただろう”とセイドゥーは言う。“でもそれで同じ魔法を体験できただろうか?”

とはいえ、遠隔地でのロケ撮影や千人単位でエキストラを動員する撮影は“まるで戦場だった”とセイドゥーは言う。事実、撮影ではロシア軍の協力が不可欠だった。ニジニー・ノブゴロドでの撮影では600人の兵士が出動。そこは完全に世間から隔絶されていたため、無線の設置から始めなくてはならなかった。“パリに電話一本かけるのにプロダクション・マネージャーが7キロ先の村まで行かなくてはならなかったんだ”とセイドゥーは言う。クルーのホテル代わりに使われたのは、かつてノーメンクラツーラ川を往き来し、今はオカ川に係留されている古いクルーズ船だった。
また、チェーホフの墓があるノヴォデヴェッチ修道院の近くで行われた撮影には1200人の兵士がいた。モスクワでは祭りのセットを建てるための、昔の面影を残している平らで何もない空間を探すのに一苦労。唯一、12.5エーカーある凍った湖がそれに相応しい場所だった。ところが2月の中旬というのに気温が13度も上昇したため、氷が溶け始めるという危険な事態が起きてしまう。そんな中で、湖をスケートリンクに見せるため、また数トンのセットと2000人のエキストラの重量を支えるため、日に4回もロシア軍が湖に液体窒素を流し込んだのだった。

ミハルコフはプロデューサーとしてもその腕を存分にふるった。セイドゥーは言う。“彼がサポートしてくれたお陰で私たちは究極の場所にまで行くことができた。撮影許可や後方支援ではすっかり世話になり、感謝しているよ”。 赤の広場での撮影は、共産主義体制時代には一度も消されたことのないレッド・スターの明かりを消すために、ミハルコフは当時のエリツィン大統領に直接電話をかけて依頼し、車で移動中だった大統領から許可を得たという。

 


【キャスト&スタッフ】

■ジュリア・オーモンド(ジェーン)

“最も大切なのは哀しいラヴストーリーの部分ではなく、いかに自尊心を獲得するかということ…。 ジェーンは常に動いているけれど、それはあたかもワルツが時にポルカに変わり、時にはフレンチカンカンに変わるといった具合。彼女は道案内人のようなもので、疲れを知らないの。そして一つの動きから次の動きへ、気持ちから次の気持ちへと変わる時にはこれ以上ないくらい音楽的なのよ”。
1965年1月4日、イギリスのエプソンに生まれたジュリア・カリン・オーモンドは、画家を目指してウエスト・カレッジ・オブ・アート&デザインで絵画を学んだ後、ロンドンのウェバー・ダグラス・アカデミーに入学。初期の舞台出演作には「嵐が丘」「恋敵」「Faith,Hope,and Charity」(同作の演技でロンドン演劇批評家協会賞を受賞)などがある。 「Capital City」「Traffic」(1991)といったTVで注目され、1993年、ピーター・グリーナウェイ監督の『ベイビー・オブ・コマン』で映画デビュー。『レジェンド・オブ・フォール/果てしなき想い』ではブラッド・ピットと、『トゥルー・ナイト』ではリチャード・ギア、そしてリメイク版『サブリナ』ではハリソン・フォードと、ハリウッドのビッグ・スターと次々と共演を果たし国際的名声を獲得。その演技力には定評がある。 マンディ・ヤコブソンとカーメン・イェリンチックが監督したクロアチアのドキュメンタリー『Calling The Ghost』ではプロデューサーとして作品を支えた。これがきっかけでプロデューサー、脚本家、監督としてフォックス・サーチライトと二年契約を結んでいる。



■オレグ・メンシコフ(トルストイ)

“最初、アンドレイは自分に何が起きているのか、愛とは何なのかもわかっていない。彼はただ単純に、「まぶしさ」にやられたんだ…。彼は独自の恐怖、独自の不安、独自の問題を抱えているが、「人が差し出し神が並べる」という摂理に忠実な生き方をしている。彼の感情のベースにあるのは、「もしそれが現実のあり方だとしたら、それはそうあるべき現実である」…という考え方なんだ”。
1960年11月8日、モスクワ郊外のセンポウコフ生まれ。1981年、シテプキン演劇学校を卒業し、「The Idiot」「カリギュラ」(同作で1991年モスクワ演劇祭主演男優賞を受賞)など様々な舞台に立ち、その業績により1996年、ロシアン・ナショナル・アワードを受賞。映画デビューは監督作品の『絆』。その後、17本の作品で主役を演じ、ロシアで最も才能ある監督たちと仕事をしている。1992年には『Douba-/Douba』でニカ賞(ロシアのアカデミー賞)主演男優賞を受賞。1994年『太陽に灼かれて』ではドヴジェンコ賞銀賞、ローレンス・オリビエ賞を始め数多くの賞に輝いた。1996年、『コーカサスの虜』でセルゲイ・ボドロフ・ジュニアと共にノミネートされ、主演男優賞を受賞。1998年、映画界での業績によりロシア・ナショナル・プライズを受賞している。
本作『シベリアの理髪師』に続いては、同作の脚本家ルスタム・イブラギムベコフが脚本を担当したレジス・ヴァルニエ監督の新作『東、西』に主演、サンドリーヌ・ボネール、カトリーヌ・ドヌーヴと共演している。



■リチャード・ハリス(ダグラス・マクラケン)

リチャード・セント=ジョン・ギャリス(本名)は1930年10月1日、アイルランドのライムリック生まれ。ミュージック&ドラマ・スクール・オブ・ロンドンで学ぶ。初舞台は1956年。その二年後には映画デビュー。リンゼイ・アンダーソン監督の『孤独の報酬』でカンヌ映画祭主演男優賞、英国アカデミー賞主演男優賞を受賞、またアカデミー賞にもノミネートされ、国際的名声を確立。1990年の『ザ・フィールド』で二度目のオスカー・ノミネーションを受けた。他にも『キャメロット』でゴールデン・グローブ賞を受賞、『ジャガーノート』で英国アカデミー賞にノミネートされている。舞台では、ジョーン・リトルウッドが主宰するドラマ・アカデミーで学んだ後、「The Quare Fellow」でプロ・デビュー。以後、「橋からの眺め」「マクベス」といった舞台に出演。1989年には「ヘンリー4世」での演技でイヴニング・スタンダード賞を受賞した。監督・俳優業をこなす上に詩人でもあり、グラミー賞にノミネートされた『預言者』を始め朗読のレコーディング作品も数本あり、『かもめのジョナサン』で同グラミー賞を受賞。またゴールデン・グローブ賞を受賞したTV映画「白い渡り鳥」では共同製作を担当し、主演男優賞にもノミネートされている。


■アレクセイ・ペトレンコ(ラドロフ将軍)

“彼は軍隊育ちを誇りに思っており、検閲や、宣誓を即座に命じる事の出来る権力の持ち主です。彼は感傷的な男ですが、品位と知性に欠けるため、結果を鑑みず、本能的に決断してしまうことがあります。彼の心は無邪気で優しい気持ちでいっぱいですが、だからといって不誠実な振る舞いの言い訳にはならないでしょう…”。
ウクライナのハリコフで演劇を学ぶ。過去30年間、モスクワとサンクト・ペテルブルグの舞台の多くに出演しており、映画ファンがスクリーンで彼を見るようになる以前から、他人の心を意のままに操り、抵抗しがたいカリスマ性を持つ彼の魅力は、ロシアの人々に知れ渡っていた。“ペトレンコとは、19世紀ロシアの劇作家オストロフスキーの戯曲を映画化した『持参金のない娘』で共演しました”とミハルコフは言う。“その日は主演俳優たちが出演する場面の撮影でした。みんなやる気満々で、できる限りの最高の演技をしようと話していました。ペトレンコだけはひとり隅の方で腰を降ろして静かにしていました。するとみんなが、彼の方に目をやり始めたんです。彼は自然に、みんなの注意を磁石のように引きつけたというわけです…。変な話ですが、『シベリアの理髪師』で彼を使った後でも、未だに私は彼のパワーの秘密が何なのかわからずにいるんです”とミハルコフ監督は語っている。



■ニキータ・ミハルコフ(共同脚本・共同製作・監督・アレクサンドル三世役)

1945年10月21日、モスクワ生まれ。ソビエト映画界でも指折りの名門の出身で、父はソ連国家の作詞者としても有名な児童文学作家のセルゲイ・ミハルコフ、母親は詩人のナターシャ・コンチャロフスキー、そして母方の大叔父は19世紀ロシア美術史上、レーピンと並び賞される画家のワシリー・スリコフ、祖父は20世紀初頭の著名な画家ピョートル・コンチャロフスキーである。
ニキータ・セルゲイヴィッチ・ミハルコフ=コンチャロフスキーは、スタニスラフスキー劇場の児童スタジオ、そしてヴァフタンゴフ劇場付属シチューキン演劇学校で演技を学ぶ。まだ学生だった頃にゲオルギィ・ダネリア監督の『わたしはモスクワを歩く』に出演。二年後には兄アンドレイ・コンチャロフスキー監督の『貴族の巣』に出演している。俳優としてキャリアを重ねる一方で、兄やアンドレイ・タルコフスキーと同様にモスクワの国立映画学校VGIKに入学、ミハイル・ロンム監督の下で監督術を学んだ。1968年、プロ・デビューとなる短編映画『I'm Coming Home』を、続いて1970年には卒業制作として短編『戦いの終わりの静かな一日』を撮影。兄が監督した『ワーニャ伯父さん』(1972)など20本以上の映画に出演した後、初の長編『光と影のバラード』(1973)で共同脚本・監督・主演を務め、第二作『愛の奴隷』(1976)で監督としての国際的名声を確立した。1977年には『機械じかけのピアノのための未完成の戯曲』がサン・セバスチャン映画祭グランプリを受賞。1987年にはイタリアで『黒い瞳』を撮り、国際的評価をさらに拡げた。同作はカンヌ映画祭で人気を呼び、マルチェロ・マストロヤンニが主演男優賞を受賞している。1991年『ウルガ』がヴェネチア映画祭金獅子賞を受賞、同作はアカデミー外国語賞にノミネートされた。1993年、娘の子供時代から成長するまでを、母国への歴史分析を加えて編集したドキュメンタリー『Anna』を完成。1994年、『太陽に灼かれて』がカンヌ映画祭審査員大賞を受賞。1995年には同作がアカデミー外国語賞に輝いた。
『シベリアの理髪師』はミハルコフの最も志の高い映画。また彼が初めて英語で撮った作品である。



■ミシェル・セイドゥー(製作)

1947年9月11日、パリ生まれ。学業を終えた後、1968年から1970年までOCCA(青少年キャンプ活動中央協会)の会長の下で働き、1971年に製作会社カメラ・ワンを設立。 『黒い瞳』で初めてミハルコフ監督と組んで以来、その後の4本全て彼の作品のプロデューサーを担当している。カメラ・ワンはフランスのプロデューサー、ブルーノ・ペセリのアリーナ・フィルムズと提携協定を結び、アラン・レネ監督の『スモーキング/ノースモーキング』『恋するシャンソン』、ミンモ・カロプレスティ監督の『Mots d'amour』などを共同製作した会社でもある。カメラ・ワンのチェアマンの仕事の一環として、1994年に有名なパリジャン・シネマ・ステュディオ・デ・ジュルスランを買収し、1998年6月に同社をフランスのプロデューサー協会のARPに売却した。他にゴーモン、インターメディア・アーク・ピクチャーズといった映画会社や、フランスの航空会社エール・リトラルの理事を務めている。