『フォッグ・オブ・ウォー/マクナマラ元米国防長官の告白』/"THE FOG OF WAR"




第76回アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞受賞
第29回ロサンゼルス批評家協会賞ドキュメンタリー映画賞受賞
第86回ナショナル・ボード・オブ・レヴュー
ドキュメンタリー映画賞受賞
第56回カンヌ国際映画祭正式出品作品


フォッグ・オブ・ウォー [DVD]
2004年9月11日よりヴァージンシネマズ 六本木ヒルズにて公開

2003年/アメリカ映画/カラー/35ミリ/アメリカン・ビスタ(1:1.85)/ドルビー・デジタル/107分/日本語字幕:森泉淳/字幕監修:松岡完、馬場広信/配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント/ソニー・ピクチャーズ クラシックス作品

◇監督:エロール・モリス ◇製作:エロール・モリス、マイケル・ウィリアムズ、ジュリー・アールバーグ ◇共同製作:ロバート・フェルナンデス ◇エグゼクティブ・プロデューサー:ジョン・ケイメン、ジャック・レッチナー、フランク・シャーマ、ロバート・メイ ◇撮影:ピーター・ドナヒュー、ロバート・チャペル ◇編集:カレン・シュミーア、ダグ・エイブル、カイルド・キング ◇プロダクション・デザイン:テッド・バファルコス、スティーヴ・ハーディ ◇音楽:フィリップ・グラス




| 解説 | 監督 エロール・モリスは語る | シノプシス | キャスト&スタッフ |
| オフィシャルサイト | WERDE OFFICE TOP | CINEMA WERDE |



【解説】

◆元米国防長官、衝撃の告白!

ハーバード大学院卒、フォード自動車会社社長、ケネディとジョンソン政権下で国防長官、そして世界銀行総裁を務めアメリカン・ドリームを実現したスーパー・エリート、ロバート・S・マクナマラが、その栄光と影について赤裸々に語る!

『フォッグ・オブ・ウォー/マクナマラ元米国防長官の告白』は、マクナマラのインタビューを中心に「戦争の世紀」と呼ばれた20世紀を総決算する衝撃のドキュメンタリーである。

マクナマラの華麗なキャリアは、実は東京大空襲、キューバ・ミサイル危機、ベトナム戦争と、20世紀に起きた多くの戦争に支えられていた。マクナマラは自分の体験を"フォッグ・オブ・ウォー=戦争の霧"だと語る。1度戦争の危機が起こると、賢明な政治家であっても霧に包まれたように混乱してゆくというのだ。「アメリカは全能ではない」「人類は殺戮や紛争についてもっと真剣に考えなければならない。21世紀にも、同じことを繰り返したいのか?」今年88歳のマクナマラは、「11の教訓」とともに新世紀へのメッセージを発してゆく。



◆今語られる、深い"戦争の霧" ─ 現代への貴重な警鐘

日本人は、東京をはじめとする日本無差別絨毯爆撃の裏事情が語られる場面に、米国の都市との比較を視覚化した映像とあわせて、ひとかどならぬ衝撃を受けるだろう。

カメラを前に、マクナマラは自分の過ちを認めつつ、ときに質問の論点をずらし、お茶を濁す返答をする。その姿は好ましくも責任逃れにも見える。ドキュメンタリーならではのリアリティを『フォッグ・オブ・ウォー/マクナマラ元米国防長官の告白』は描き出してゆく。

そして、米同時多発テロ(9.11)、イラク戦争、今なお続くイラク派兵……アメリカはまた同じ過ちを犯していないか? 日本はどうか?

世界はもう1度、マクナマラの「教訓」に学ぶべきではないのか? 『フォッグ・オブ・ウォー/マクナマラ元米国防長官の告白』は、「戦争の世紀」を繰り返さないために、今こそ観られなければならない映画と言えよう。



◆アカデミー賞に輝く"非戦"のメッセージ

監督は、アメリカ・ドキュメンタリー界の巨匠エロール・モリス。マクナマラのインタビュー・フィルムに加え、貴重なアーカイブ映像や録音テープを使用し、臨場感あふれる世界を創出した。

今年『フォッグ・オブ・ウォー/マクナマラ元米国防長官の告白』は、前回は『ボーリング・フォー・コロンバイン』が獲得したアカデミー賞最優秀長編ドキュメンタリー賞に輝いた。その受賞スピーチで、モリス監督は戦争を「ウサギの穴」にたとえ、「今アメリカは40年前のベトナム戦争のときのように、ウサギの穴に落ちつつある」と語り、場内から喝采を浴びた。

全編を彩る音楽は『めぐりあう時間たち』の名作曲家、フィリップ・グラスのオリジナル・スコア。緊張感と癒しが共存する旋律は、21世紀の平和への祈りにあふれている。

『ボーリング・フォー・コロンバイン』以来、映画界にはドキュメンタリー・ブームが起きている。今年もマイケル・ムーアの最新作『華氏911』などが公開を控える(当時)中、『フォッグ・オブ・ウォー/マクナマラ元米国防長官の告白』は、"非戦"のメッセージを力強く込めた、特筆すべき必見の問題作なのである。



 


【監督 エロール・モリスは語る】

◆この映画の着想

学生時代、マクナマラは既に政界を去っていたが、私はよくベトナム反戦デモに参加し、激しく戦争反対を唱えていた。

1995年に刊行された「マクナマラ回顧録」を読み、とても魅力を感じた。書評の多くは「自分の過ちを認めたもの」「告白本」と位置づけていたが、私はむしろ、マクナマラ自身や他の人々が、なぜ悲惨な戦争を起こす過ちを犯してしまったのか、理解しようとする姿勢を感じた。

今現在、マクナマラがベトナム戦争は過ちだったと感じていることは間違いない。さらに私は、彼個人の感情を知りたくなった。「間違った政策だった」と言うのと「私は間違いを引き起こしたことを申し訳なく思っている」と言うのは大きな差だ。その区別、個人の責任意識の問題、それがこの映画の根底にある。



◆マクナマラ本人との出会い

2001年春にコンタクトを取り始めた。最初彼は、その年出版した新刊本のプロモーション・ツアーの一環だと思っていたようだ。説得にはそんなに苦労しなかった。彼はケンブリッジに赴き、かつて住んだ土地を目にできると喜んでいた。

ところが撮影当日の2日前に電話をかけてきて、「自分は取材に応じるべきではない」と、あれこれ理由を並べ、延々と話し続けた。だがその末、「でも1度引き受けると言った以上、引き受けるよ」と言い、そのとおり実行してくれた。



◆撮影初日

マクナマラはこれまで何千というジャーナリストの取材を受けてきた男だから、彼の返答が他の取材でしてきたような、おざなりなものになってしまわないか心配だった。そこで私は、普段、インタビューの質問リストを細かく準備しないのだが、今回は彼の最新の著書3冊を熟読し、万全の準備をして撮影に臨んだ。このアプローチは相手にも気に入ってもらえた。

彼の才気煥発ぶりは知っていたので、撮影にあたりその名声に基本的敬意は表したかった。撮影の前、彼は私たちが用意したインタートロンというインタビュー撮影用にカメラに取りつける特殊な装置を見て、「これは何だ? 気にくわん」と言ったが、いったんカメラの前に座ると、一切文句をつけなかった。

良いインタビューとは自然と現れてくる、コントロールできないものだと私は信じている。雲をつかむような要素であふれているインタビューが、流れるがままに任せることが大切なのだ。

初日のインタビューの最初の20分で、ルメイと戦争犯罪の話題に触れてくれた。その前の日曜日の「ニューヨーク・タイムズ」紙に、ボブ・ケリー(元上院議員/2004年大統領選民主党候補となることが確実視されている(当時))がベトナム戦争の戦犯である可能性を示唆する記事が掲載されたばかりで、それがマクナマラの心に引っかかっていたのだろう。我々はケリーの話をした。その後、彼がルメイと東京大空襲について話し始めたのだ。



◆撮影の続行

1回目の撮影の後、続けてインタビューに応じてもらえるよう頼んだ。そのために、最初のインタビュー・フィルムとアーカイブ映像を編集し、フィリップ・グラスの音楽を挿入した40分のビデオを「フォッグ・オブ・ウォー」と題して彼に送った。マクナマラはそれを気に入ってくれて、取材の継続を了承してくれた。以後、話題はベトナム戦争や日本各地の大空襲へと及んだ。

我々の多くは、「戦争の倫理的な話題や問題点は、道徳的に不明瞭であるはずがない」と信じている。その不明瞭さにマクナマラが言及してゆくのは、非常なインパクトがある。彼が話していることは、多くが今現在起こっている事柄と関連している。問題は何も変わっていない。そこにはシュールな感覚、我々が過去から何も学んでいないという感覚が生まれる。

つまり、『フォッグ・オブ・ウォー/マクナマラ元米国防長官の告白』では、40年、50年、60年と、時が経つにつれ過去となってしまう歴史的出来事、しかも実は「現在」とつながっている出来事について、映画を作ることが可能だと証明できたと思う。そのことが私にはうれしい。



◆使用したアーカイブ映像

他の映画で見たことのあるマテリアルを避けるために、並はずれた努力をした。日本の大空襲はじめマクナマラと戦争の関わりを占める第二次大戦時の映像、ケネディ大統領にベトナムから軍事顧問団を引き揚げるよう忠告したやりとりなど、新しいマテリアルはたくさんあった。国家安全保障理事会と常任委員会のミーティングをケネディが録音したテープや、大統領執務室での電話のやりとりをジョンソン大統領が抜粋して録音したテープもあった。B29の映像は『アトミック・シティ』という映画からの引用だ。

トンキン湾事件の映像は、国立公文書館で入手したのだが、あれは実際に事件が起きた1週間半の出来事の再現フィルムだ。マクナマラは再現映像を作る指示を出したか、その映像を見たことがあるか、覚えていなかった。ただ、歴史というものは再現フィルムに基づく解釈であふれている。ロシア人は1945年アウシュヴィッツを解放したときも、数日後にカメラを携えて戻り、撮影用に解放を再現した。歴史的瞬間を記録しておきたかったからだ。

国防総省は米国民を欺き、実際に起きた事件だと信じ込ませるためにトンキン湾事件の再現映像を作ったと、斜めな見方もできるだろう。しかし私の考えでは、彼らはまず、自分たち自身を納得させるために撮ったのだ。人々がより明確に思考をめぐらせることができるよう、歴史の出来事は映像で再現される。それは世界を探求し、その意味を理解するためのひとつの方法なのだ。



◆戦争責任と原因究明

「マクナマラ回顧録」を読んだとき、彼が謝罪の意を表していないのが本の弱点だと思ったが、今はその点こそが本の強さ、長所のひとつだと考えている。謝罪もさることながら、過ちの原因を究明することは遙かに難しいことだからだ。私は実際に「あなたはどの程度(ベトナム戦争拡大の)計画の責任を負っていると感じていますか? あるいは、自分はコントロール不可能な出来事のひとつの歯車だったと感じていますか?」と尋ねた。全編の核をなす質問はこれだ。マクナマラは大統領に仕えようと努めたのだと答えた。言い逃れのように響くかもしれないが、実のところ、それが真実なのだ。

『フォッグ・オブ・ウォー/マクナマラ元米国防長官の告白』の根底にあるのは、人間には常に間違いを犯す可能性がある、という確信だ。映画の冒頭でマクナマラもそう述べている。人間は何度でも同じ過ちを犯すのだ。

トンキン湾事件を例に説明しよう。今では米駆逐艦への2度目の攻撃がなかったことは明らかだ。実際に起きた1度目の攻撃も、意図的か否かはともかく、アメリカが触発したようなものだ。しかしアメリカは、単に2度目の攻撃をでっちあげたのではない。そこには混乱した人々、2度目の攻撃があったという十分な証拠があると、心から信じた人がいたに違いないと思う。



◆11番目の教訓

「人間の本質は変えられない」 ─ 混乱していて、時に好戦的で常軌を逸する、それが人間である、という意味だ。本質的に、我々は皆、とんでもない状況に陥る可能性があるのだ。

よく思うのだが、私の全作品に長所があるとしたら、答えのない質問を扱っていることだろう。観客はその問いについて、後々まで問題意識を持ち続けてくれる。『フォッグ・オブ・ウォー/マクナマラ元米国防長官の告白』が提示する問題とは、「我々は過去の過ちを繰り返す運命にあるのか?」である。ウッドロウ・ウィルソン大統領は間違っていた。戦争は戦争を終わらせはしない。解決されない争いを残すだけ、すでに存在する未解決の争いを助長するだけだ。戦争は次なる戦争を導くだけである。(オリジナル・プレスより抄訳・再構成)



 


【シノプシス】

ロバート・S・マクナマラ。20世紀アメリカ屈指のエリートとして、政界、経済界を牛耳った「切れ者」だ。

「私は生涯を通じ、戦争の一部だった」
「私も85歳だ。人生を振り返り、いくつかの結論を出してもいいころだろう」
「人は何度でも同じ過ちを犯す。3度ミスをすれば4度目には避けられるかもしれないが、核の時代にはその論理は通用しない」


マクナマラは自分の体験を、11の教訓=レッスンとともに語り始める……。

教訓1:敵の身になって考えよ
教訓2:理性は助けにならない
教訓3:自己を超えた何かのために
教訓4:効率を最大限に高めよ
教訓5:戦争にも目的と手段の"釣り合い"が必要だ
教訓6:データを集めろ
教訓7:目に見えた事実が正しいとは限らない
教訓8:理由づけを再検証せよ
教訓9:人は善をなさんとして悪をなす
教訓10:"決して"とは決して言うな
教訓11:人間の本質は変えられない


1962年10月、マクナマラ国防長官はキューバ・ミサイル危機に直面する。閣内の雰囲気は「ソ連との全面核戦争は不可避」に傾いていた。そのとき、ソ連問題顧問の一言で、ケネディ大統領はソ連の提案受け入れを決断。核戦争は回避された。

30年後、マクナマラはキューバ首相から「当時ソ連に核攻撃を進言した」と知らされる。

「核戦争を回避できたのは、ただ運が良かっただけのことだ。同じ危機が今もあるのだ」
「人類は殺戮や紛争についてもっと真剣に考えなければならない。21世紀にも、同じことを繰り返したいのか?」

マクナマラが2歳のとき、第一次世界大戦が終わった。世界大恐慌の真っただ中、大学に進学。経営管理の研究で頭角を現し、当時最年少でハーバード大学経営学大学院助教授になる。結婚、第一子誕生……その未来は順風満帆に見えた。

そこに、第二次世界大戦が始まった。マクナマラは経営管理の理論を戦争に応用。攻撃効率を高めるため、統計を取り、分析する。だが、彼の報告書を元に、日本に無差別絨毯爆撃が行われた。指揮官は後に広島・長崎に原爆を落としたカーティス・E・ルメイ少将。

「勝ったから許されるのか? 私もルメイも戦争犯罪を行ったんだ」

戦後マクナマラはフォード自動車会社に入社。会社の業績を上げ、社長にまで昇りつめた。

そのころ、最年少の米国大統領が誕生した。ジョン・F・ケネディ。入閣を求められ、マクナマラは国防長官に就任する。それは素晴らしくも、悪夢の日々の始まりだった。

ケネディ大統領はベトナム戦争への対応に苦慮する。攻撃拡大を主張する軍部を抑え、大統領とマクナマラは、ベトナムから米軍を完全撤兵する決断を下す。しかし1963年11月ケネディ大統領暗殺……葬儀を回想する老マクナマラの目が、涙で潤んだ。

昇格したジョンソン新大統領は、逆に戦争拡大を決意する。大統領選を有利に戦うため、大統領はマクナマラに、拡大の事実を国民に隠す命を与える。トンキン湾事件を機に、北爆、地上軍派遣と、アメリカはベトナム戦争の泥沼に脚を踏み入れてゆく。

31年後、マクナマラはベトナムを訪れ、トンキン湾事件の真実を知り、唖然とする。

「ベトナム戦争は避けられたのではないのか?」
「キューバ・ミサイル危機のとき、アメリカ政府はソ連の立場に立って状況を見ることができたのに、ベトナム戦争ではそれができなかった」

1967年11月、マクナマラは国防長官を辞任した。

「ベトナム戦争の責任は大統領にある」
「自分の職務は大統領が決定した政策の実行を助けることだ」
「だんだんと、ケネディが生きていたら結果は違っていたのではないか、と考えるようになってきた」
「私は自分の成したことに誇りを持っているが、犯した過ちを悔いている」
「戦争がなくなると信じられるほど、私は単純な人間ではない」

ラスト、インタビュアーは尋ねる。「辞任後、なぜベトナム戦争反対を唱えなかったのですか?」
マクナマラの答えは……。







◆秘密資料が明かす、ホワイトハウス、衝撃の事実!

『フォッグ・オブ・ウォー/マクナマラ元米国防長官の告白』では、貴重なアーカイブ資料が数多く初公開されている。中でも衝撃的なのは、アメリカ国立公文書館に所蔵されていた、ケネディ、ジョンソン両大統領とマクナマラの会話や、トンキン湾事件第2回「攻撃」をめぐる現地軍人の無線録音だ。彼らの肉声を通じて、歴史の暗部が、21世紀の今、遂にその真の姿を現すのだ。

以下に『フォッグ・オブ・ウォー/マクナマラ元米国防長官の告白』に使用された、13種類の録音テープを時系列順に再構成、概略をまとめる。



1962年10月16日 ケネディ大統領とマクナマラの対話

キューバ・ミサイル危機という、突然の事態に狼狽する新大統領ケネディと国防長官マクナマラ。マクナマラは軍事衝突が起きてしまった場合、後の世界がどうなるか「まったく想像できない」と大統領に率直に語る。



1962年10月27日 ケネディ大統領とルエリン・トンプソンの対話

ケネディ大統領は、交渉でキューバ・ミサイル危機は解決できないと、軍事行動を選択しようとしている。対キューバ開戦に傾く大統領に、1962年夏までモスクワ大使を務めていたトンプソンが反論。クレムリン内のフルシチョフの立場を解釈、説明。「戦争は回避できる」と説得を始める。



1963年10月2日 ケネディ大統領とマクナマラの対話

マクナマラは国防長官として、米兵の犠牲を拡大しないために、ベトナムからの撤退を大統領に進言する。ケネディ大統領は、米軍が撤退した後、もしベトナムで戦況が悪化したら、米国内で非難を受ける懸念を表明する。



1964年2月25日 ジョンソン大統領とマクナマラの対話

大統領に就任したばかりのジョンソン大統領は、マクナマラが書いたスピーチが、ベトナム問題に触れていないことにクレームをつける。大統領はドミノ理論を唱え、「アメリカはベトナムの自由に責任がある」と書くよう指示。ベトナム戦争では拡大も宥和もしない、「現状維持」を主張。さらにマクナマラの撤退政策を頭ごなしに拒絶する。



1964年3月2日 ジョンソン大統領とマクナマラの対話

ジョンソン大統領がベトナムの現状について覚書をまとめるよう、国防長官マクナマラに指示。しかしマクナマラは、ベトナム情勢がまだはっきりしていないと、消極的姿勢を示す。



1964年3月10日 ジョンソン大統領とマクナマラの対話

ジョンソン大統領はベトナムに視察団を派遣し、ベトコンに死者を出し、打撃を与える計画の作成を指示する。マクナマラは反論しない。



1964年6月9日 ジョンソン大統領とマクナマラの対話

マクナマラは南ベトナムの戦況悪化と南ベトナム軍の戦力低下を大統領に報告する。マクナマラは、戦争を拡大するならマスコミに発表する必要があるが、ジョンソンが次期大統領選を戦っている今の時期に、その選択をすることは望ましくないと進言。ジョンソン大統領も同意する。



1964年8月4日 シャープ司令官とバーチナル将軍の無線通信

午後12時20分。シャープ司令官は「最低で9発の魚雷が発射されたが、命中したものはない」と報告するが、言うそばから「発射数ははっきりしない。確認の必要がある」と、報告内容を留保。97分後。攻撃は誤認の可能性があると報告。バーチナル将軍はこの段階で「マクナマラ長官に報告する」と言う。さらに9分後。攻撃はソナー係が確認したもので、やはり誤認の可能性があると繰り返すが、バーチナル将軍に「でも攻撃されたのは間違いないのだな?」と問われ、シャープは「間違いない……と思います」と答える。



1964年8月4日 ジョンソン大統領とマクナマラの対話

マクナマラは大統領に魚雷攻撃をしてきた相手は「正体不明」と報告する。



1965年2月26日 ジョンソン大統領とマクナマラの対話

ローリング・サンダー作戦を開始した在ベトナム空軍基地警護のため、ジョンソン大統領は地上部隊派兵を決定。マクナマラは同意する。



1965年3月6日 ジョンソン大統領とマクナマラの対話

ジョンソン大統領は海兵隊派兵を決定、国民への告知を少しでも遅らせ、事後報告とするよう、マクナマラに指示する。マクナマラは反論せず、具体案を提案する。



1965年6月10日 ジョンソン大統領とマクナマラの対話

マクナマラは大統領に、ウェストモーランド在南ベトナム米援助軍司令官が45,000人の地上派兵力増派を要求しているが、自身は25,000人の増派を進言する、と報告。ジョンソン大統領は「50,000人や150,000人増派したところで、この戦争は終わるものか」と答え、敗色が濃厚になっているとの認識を示す。



1965年12月2日 ジョンソン大統領とマクナマラの対話

マクナマラは大統領に、これ以上の増派で米兵の被害を増やさぬために、軍事行動以外の選択肢(和平交渉)を進言する。



 


【キャスト&スタッフ】

■ロバート・S(ストレンジ)・マクナマラ

1916年6月9日、サンフランシスコ生まれ。カリフォルニア大学バークレー校、ハーバード大学経営学大学院を卒業後、専任教員を経て1941年当時最年少でハーバード大学経営大学院助教授に就任。

第二次大戦中は陸軍航空隊の士官候補生に統計管理を教えた後、陸軍省の求めにより入隊。中佐としてロンドン第8航空団、インド、中国、マリアナ諸島第20航空団に所属。B29の日本空爆に関する報告書もまとめた。

1946年除隊後フォード自動車会社入社、近代経営管理の礎とも言われるマネージメントやリサーチで同社の業績を上げさせ、1960年には社長に就任。

社長在任中、ケネディ大統領の懇請を受け、44歳で史上最年少の国防長官に就任。ケネディ暗殺後も国防長官の職に留まり、6年11カ月の任期中、ベルリン封鎖、キューバ・ミサイル危機、ベトナム戦争、第三次中東戦争(六日戦争)など、多くの国際問題を処理する。

1968年11月、国防長官を辞任。

同年世界銀行総裁となり、1981年6月に退任するまで、国際的所得再分配の「ベーシック・ヒューマン・ニーズ(BHN)」という視点を導入。融資の対象を農村開発、教育、保健衛生、都市の貧困解消などに拡大した。世銀内部では得意の経営管理理論を応用し、地域別・融資スキーム別に年間の融資承諾目標を設定、融資プロジェクトの「数」を重視する「アプルーバル・バリュー」文化を形成した。

世銀総裁退任後はワシントンに事務所を構え、レーガン政権のアドバイザーを務め、外交問題評議会(CFR)や大学で精力的に講演。核軍縮や安全保障に関する提言を行う。

加えて1990年代にはキューバ、ベトナムなどを訪問し、国防長官時代に体験した危機や戦争の事実関係検証、衝突回避の可能性を論じる国際会議に盛んに参加した。


<主な著書(邦訳があるもののみ)>

「世界核戦略論 ─ 平和のための真実の提言」
(1987/邦訳:藤本直/PHP研究所/1988年)

「冷戦を越えて」
(1989/邦訳:仙名紀/早川書房/1990年)

「マクナマラ回顧録 ─ ベトナムの悲劇と教訓」
(1995/邦訳:仲晃/共同通信社/1997年)

「果てしなき論争 ─ ベトナム戦争の悲劇を繰り返さないために」
(1999/邦訳:仲晃/共同通信社/2003年)




■エロール・モリス(監督)

『フォッグ・オブ・ウォー/マクナマラ元米国防長官の告白』で第76回アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞したエロール・モリスは、「ヒッチコックやフェリーニに匹敵する偉大な映画作家」と評される、現代アメリカを代表するドキュメンタリー監督である。

日本の映画ファンには、2002年の第74回アカデミー賞授賞式のTV中継冒頭で上映された、映画業界以外のさまざまな人々が、映画の魅力について語るフィルムが印象に残っているのではないか。この短編を監督したのがエロール・モリスだ。

だが、モリスの本領は、歴史や社会の影や暗部に光をあて、善悪の単純な二元論の再検討を迫る社会派作品で発揮される。『フォッグ・オブ・ウォー/マクナマラ元米国防長官の告白』は、そのキャリアの頂点に位置する集大成である。

1948年2月5日ニューヨーク州ロング・アイランド生まれ。ウィスコンシン大学マディソン校卒業後、プリンストン大学、カリフォルニア大学バークレー校の両大学院で学ぶ。

その後、ドイツのヴェルナー・ヘルツォーク監督(『フィッツカラルド』)と交流を持ち、「君が映画を完成させられたら、俺は靴を食ってやる」との言葉を受け、1978年"Gates of Heaven"で長編ドキュメンタリー映画監督としてデビュー。動物墓地を題材にペット・ビジネスの実体を描き賞賛を浴びた(ちなみに完成後、ヘルツォークは約束どおり靴を茹でて食べたという。その様子は、レス・ブランク監督の手で短編映画"Werner Herzog Eats His Shoe"(1980)に残されている)。

第2作『ヴァーノン、フロリダ』(1981)では、南部のさびれた町で暮らすエキセントリックな住民たちの秘密に迫り、1988年の"A Thin Blue Line"により、モリスの名声は不動のものとなる。ダラスの警官、ロバート・ウッド殺害事件を追ったこの作品は、公開後世論を動かし、犯人として有罪となったランドール・デイル・アダムスの死刑判決を覆すに至ったのだ。そのため「実際に殺人事件を解決してしまった、最初の映画ミステリー」として伝説の映画となり、「1980年代に最も重要かつ影響を残した映画の1本」と絶賛された。

1992年にホーキング博士のインタビュー映画『ブリーフ・ヒストリー・オブ・ライフ』で、サンダンス映画祭グランプリと監督賞をダブル受賞。日本でも話題となった「ホーキング、宇宙を語る」は、この映画を元に編纂された書籍である。1997年には、ライオン遣い、庭師、アフリカメクラネズミのエキスパート、マサチューセッツ工科大学の科学者と、いくつもの顔を持つ1人の男の肖像"Fast, Cheap & Out of Control"で、全米映画批評家協会賞、インディペンデント・スピリット賞など数多くの映画賞に輝く。

1999年、問題作『死神博士の栄光と没落』を発表。ガス室、電気椅子、致死量薬物注射器、絞首台を設計し改良することを専門とした「処刑工学者」、フレッド・A・ロイヒターの伝記映画である。より苦痛の少ない死を生み出そうとした男が、依頼を受けアウシュヴィッツ強制収容所の科学調査を行ったことから、大量虐殺支持者と非難され、すべてを失うに至った男の生涯を見つめる視点には、善悪の苦渋の選択、科学研究の政治利用など、『フォッグ・オブ・ウォー/マクナマラ元米国防長官の告白』に通じる問題意識が感じられる。

2000年から2001年にTVシリーズ、"First Person"を2シーズン手がける際、レンズの上に直接鏡を置いて、そこにカメラマンの画像を映すことができるカメラ「インタートロン」を考案。インタビューされる者の視線を、従来以上に直接カメラに向けさせることを可能とした。その効果は『フォッグ・オブ・ウォー/マクナマラ元米国防長官の告白』のマクナマラ・インタビューで、十全に発揮されている。

モリスはCMの分野でも、アップル社、アメリカン・エキスプレス社など、数多くのTVCMを監督、2001年にはエミー賞を受賞している。"9.11"後のユナイテッド航空のキャンペーン映像も監督している。

1993年には山形国際ドキュメンタリー映画祭コンペティション審査員も務めた。


<フィルモグラフィー>(すべてドキュメンタリー/()内は製作年)

■長編映画

"Gates of Heaven"
(原題/日本未公開/1978)

『ヴァーノン、フロリダ』
(山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映、1981)

"A Thin Blue Line"
(原題/日本未公開/1988)
・ニューヨーク批評家協会賞

『ブリーフ・ヒストリー・オブ・ライフ』
(サンダンス・フィルム・フェスティバルで上映/1991)
・サンダンス映画祭グランプリ、フィルムメイカー賞

"Fast, Cheap & Out of Control"
(原題/日本未公開/1997)
・全米批評家協会賞
・インディペンデント・スピリッツ「フィクションより真理」賞
・ナショナル・ボード・オブ・レヴュー賞

『死神博士の栄光と没落』
(1999)
・山形国際ドキュメンタリー映画祭コンペティション部門出品

『フォッグ・オブ・ウォー/マクナマラ元米国防長官の告白』
(2003)


■短編映画

"Stairway to Heaven"
(1998)

「第74回アカデミー賞授賞式」冒頭の短編
(TV放映/2002)


■TV作品

"First Person"
(原題/日本未公開/2000〜2001)



■フィリップ・グラス(音楽)

『めぐりあう時間たち』で、フィリップ・グラスの哀切な調べは世界中の女性の涙を誘った。彼は現代音楽界の巨匠として、クラシック、ポピュラー・ミュージック双方のファンから広く愛されている作曲家である。エロール・モリス監督は、「"実在の不安"を表現できる作曲家は彼しかいない」と、最初のマクナマラ・インタビューが終わった段階で、『フォッグ・オブ・ウォー/マクナマラ元米国防長官の告白』の音楽にグラスを起用すると決めた。

1937年ボルチモア生まれ。ウィリアム・シューマン、チャールズ・アイヴスの作品に傾倒し、ジュリアード音楽院で学んだ後、パリでナディア・ブーランジェに師事。このとき映画音楽の仕事を通じ、インドの作曲家ラヴィ・シャンカールを知り、音楽観が変化。「変化するパートを持つ音楽」(1968)など、旋律美を重視した声楽入りミニマル・ミュージックを発表し、ライヒ、ライリーと並び、「ミニマル・ミュージック御三家」として、現代音楽の最先端に立つ。

1970年代にはデヴィッド・ボウイ、ジョン・ゾーンらとのコラボレーションなど、ボーダーレスな活動を始めるかたわら、オペラ「浜辺のアインシュタイン」(1976)、「ガリレオ・ガリレイ」(2002)などの舞台音楽にフィールドを拡大。クラシックのコンサート・ホール向け作品でも、ヴァイオリン協奏曲(1987)、交響曲第5番「レクイエム・詩人・顕現」(1999)などで、常に注目を浴びている。

1980年代以降、映画音楽を多く手がけ、『トゥルーマン・ショー』にはミュージシャン役で出演した。エロール・モリス作品は、"A Thin Blue Line"以来、2度目の担当である。


<主な映画音楽担当作品>(()内は製作年)

『コヤニスカッティ』(1983)
『ハンバーガー・ヒル』(1987)
『ポワカッツィ』(1988/日本ではDVD発売のみ)
『メルシー・ラ・ヴィ』(1991)
『クンドゥン』(1997)
『ベント/堕ちた饗宴』(1997)
『トゥルーマン・ショー』(ブルクハルト・フォン・ダルヴィッツと共同/1998)
『めぐりあう時間たち』(2002)
『ナコイカッツィ』(2002)
『フォッグ・オブ・ウォー/マクナマラ元米国防長官の告白』(2003)




<人名リスト>

■ウッドロウ・ウィルソン(第28代合衆国大統領(1913〜1921))

プリンストン大学教授、ニュージャージー州知事を経て、大統領就任。「新自由主義」を掲げた施策を進め、1916年再選。第一次世界大戦当初は中立を守り続けていたが、1917年に参戦。1918年米上下院で「平和のための14カ条提案」を発表。国際連盟発足を提唱した(アメリカは加盟せず)。1920年ノーベル平和賞受賞。


■ウィリアム・C・ウェストモーランド(ベトナム戦争初期に米地上軍を指揮した陸軍将校)

米陸軍士官学校卒業後、第二次世界大戦、朝鮮戦争に士官として従軍。陸軍大学校校長を経て、1964年新設された在南ベトナム米援助軍副司令官、同年司令官に昇進(〜68)。再三にわたりマクナマラに「10万人単位の増兵が必要」と要求し対立。1968〜1972年には米陸軍参謀総長としてベトナム戦争に関わり続ける。


■ルエリン・トンプソン(ケネディ、ジョンソン両大統領下のソ連問題顧問)

第二次大戦中、外交官としてソ連に足かけ4年勤務。1945年のポツダム会議をはじめ、戦後の東側との主な外交会議に参加。とりわけ1953年トリエステ条約調印により、イタリア、オーストリア、ユーゴスラビア関係の安定化に尽力。1957年から1962年まで在モスクワ大使として米ソ外交の中心人物の1人となる。1968年、再度在モスクワ大使となる。


■フィデル・カストロ(キューバ社会主義共和国首相(1965〜))

学生時代から反独裁闘争を開始。1952年の軍事クーデターでバティスタ独裁政権が樹立されると、翌年反乱グループを組織し政権奪取を試みるが失敗。1959年、チェ・ゲバラらとともに再度反乱を起こしバディスタ政権打倒に成功。革命政権を樹立し、首相に就任した。その後、米国系企業の国有化などの政策を打ち出しアメリカと対立、ピッグス湾事件、キューバ危機を経て、1965年キューバ社会主義共和国を宣言した。1990年代以降は市場経済の導入など、米国との関係改善を進めている。


■グエン・コ・タク(マクナマラ在任時の北ベトナム対米和平工作担当外交官)

第一次インドシナ戦争当時、ベトナム独立連盟に参加。ボー・グエン・ザップ将軍の筆頭書記を務め、1954年ベトナム民主共和国(北ベトナム)外務省事務総長に任命。ニューデリー総領事などを経て、1960年ラオス、カンボジア、アメリカ担当の外務次官となる。1961〜1962年のジュネーブ関連国会議に出席。1962〜1968年北ベトナム側最高位の外交官として、対米和平工作に携わった。1980〜1989年にはベトナムの外務大臣。1997年6月ハノイ会議ベトナム側代表団長。


■ジョン・F・ケネディ(第35代合衆国大統領(1961〜1963))

合衆国史上最年少(就任時44歳)、初のマイノリティ(アイルランド系カトリック教徒)大統領。集めたブレーンは「ベスト&ブライテスト」と呼ばれ、新しいアメリカの象徴として国民から絶大な人気を誇ったが、就任早々、キューバ、ドイツ、ベトナム、中東などの外交危機に直面。ベトナム戦争については当初、「南ベトナムの兵士の訓練を支援」し、「1965年までに米軍を完全撤退させる」と公言していたが、1963年11月24日ダラスで暗殺される。享年46歳。


■ロバート・F・ケネディ(ケネディ政権下の司法長官)

ジョン・F・ケネディ大統領の弟。1965年以降は上院議員として民主党政権を支える。ジョンソン後の大統領をめざし、民主党候補選に向けて運動中に暗殺される。


■ゴ・ディン・ジェム(ベトナム共和国(南ベトナム)初代大統領)

ヨーロッパで学んだカトリック教徒。1954年アメリカに擁立され、ベトナム国の首相、翌年選挙で大統領となる。農地改革の失敗や少数民族、仏教徒への弾圧が反発を呼び、マクナマラの再三の助言にも耳を貸さず、1963年11月1日軍部クーデターで、側近として置いていた弟夫妻とともに暗殺される。


■バリー・M・ゴールドウォーター(共和党のタカ派上院議員)

1964年の大統領選にはジョンソンの対立候補として立ち、民主党政権のベトナム戦争対策を強く批判、核攻撃を含む戦争の拡大を主張するが敗退。1968年9月にはマクナマラを「この人物は、ベトナムについてもほかの軍事問題についても、正しかったことは1度もない」と非難する論説を全米各紙に発表した。


■ウィリアム・T・シャーマン将軍(南北戦争時の北軍将軍)

1864年グラント北軍総司令官の指令で、南軍の重要拠点アトランタを攻略、同年8月19日、市街地に砲撃を開始し、アトランタを廃墟と化した。その惨状は「風と共に去りぬ」に描かれている。西部方面総司令官に昇進後、11月には「海への進軍」と言われるジョージア州横断作戦を開始。途上、要所で農業地帯、工業地帯、交通網を徹底的に破壊する焦土作戦を継続、南軍降伏につながる決定的打撃を与えた。


■サージェント・シュライバー(ケネディ政権下で発展途上国援助問題などに携わる)

ジョン・F・ケネディの義弟。ケネディ政権への入閣を求め、マクナマラに最初に会見した人物。


■リンドン・B・ジョンソン(第36代合衆国大統領(1963〜1968))

1937年下院議員。1940〜1948年まで海軍に所属し、1941〜1942年には前線で実戦にも参加。1949〜1960年上院議員。1961年からケネディ政権の副大統領。ケネディ暗殺後、大統領に昇格し、1964年再選。徐々にベトナム戦争に介入を深め、アメリカを、トンキン湾事件の際に報復攻撃を指令、北爆開始と、北ベトナムとの全面戦争に導いた。内政では、1964年公民権法でアフロ・アメリカンの投票権に関する差別を撤廃するなど功績を残したが、1968年引退。


■ハリー・トルーマン(第33代合衆国大統領(1945〜1953))

第一次大戦に砲兵隊大尉として従軍。1934年から上院議員。1944年フランクリン・ルーズベルト政権の副大統領。ルーズベルトの病死に伴い大統領に昇格。日本の原爆投下を決定し、朝鮮戦争時にも使用可能性を示唆した。ポツダム会議ではベトナムの南北分断に賛成(フランスの反対で採択されず)。1947年には「トルーマン・ドクトリン」を発表、冷戦の幕開けを決定づけ、「マーシャル・プラン」の一環として、第一次インドシナ戦争ではフランス軍に経済援助を行った。1948年に再選された。


■ニキータ・フルシチョフ(1956〜1964年、ソ連の実質的国家指導者)

1956年第20回ソ連共産党大会でスターリン批判を行い、1958年に首相に就任。いわゆるソ連の「雪解け」の象徴的存在で、ソ連首脳として初の訪米も実現したが、国内では保守派から「修正主義者」と批判され、1962年のキューバ・ミサイル危機前後から保守化傾向を示し、1964年に失脚。実権をブレジネフに譲ることとなる。


■ホー・チ・ミン(別名:グエン・アイ・クオック/ベトナム民主主義共和国指導者として活動を続けたベトナム独立運動家)

20代のころ、ベルサイユ講和会議に「アンナン人民の要求」を提出、ベトナム独立を訴える。その後、共産主義に接近。ソ連、中国をまわり、1925年ベトナム青年革命同志会、1930年ベトナム共産党(後に「インドシナ共産党」と改称)を結成。1941年超党派の「ベトナム独立同盟会(ベトミン)」を結成。インドシナから日本が撤収した直後の1945年3月、ベトナム民主共和国独立を宣言、初代国家主席となる。1969年9月、統一を見ずに逝去。


■アール・G・ホイーラー(1964〜1970年、米統合参謀本部議長)

軍部の代表として、国家安全保障会議でベトナム増派を主張し続ける。映画の後半、マクナマラの覚書に登場する「統合参謀本部議長」は彼のことを指す。


■ノーマン・R・モリソン(ボルチモア在住の敬虔なクウェーカー教徒)

1965年11月2日午後、国防総省長官執務室の窓のそばまで接近し、1歳の娘を抱いたままガソリンをかぶり、焼身自殺を遂げた。驚いた周囲の人々が「子供を助けてやれ!」と叫んだため、娘はモリソンの手を離れ、一命を取り留めた。彼の死後、妻は「ベトナム戦争による大規模な人命の損失と人々の苦しみへの懸念を表明するため」「アメリカ政府の大きな軍事的関与に抗議して」自殺したと声明を発表した。


■ディーン・ラスク(ケネディ、ジョンソン両大統領下の国務長官(1961〜1968))

第二次大戦中、陸軍空軍局参謀次長として従軍、退役時は大佐。1947年国務省入り。同年国連アメリカ代表次官補、1950年には極東担当次官補となり来日、サンフランシスコ講和条約起草に携わる。帰国後、国務省国連担当室長などを経て、1952年にはロックフェラー財団理事官に就任。国務長官時代は、冷戦の危機、中ソへの警戒から、ベトナム介入にも積極的立場を取ることが多かった。


■カーティス・E・ルメイ(第二次大戦末期は陸軍航空隊少将、1961〜1965年空軍参謀総長)

太平洋戦争末期、陸軍航空隊第20航空団に所属。指揮官の1人として日本の諸都市の焼夷弾攻撃、広島・長崎への原爆投下を命じた。戦略空軍司令官を経て、ケネディ政権時にはキューバやベトナムへの核攻撃を主張。第二次大戦、キューバ、ベトナムなどの国際軍事問題で、ことごとくマクナマラと対立した。1968年の大統領選では、無所属で出馬したジョージ・ウォーレスの副大統領候補となった。