『誰がため』/"FLAMMEN OG CITRONEN"



2009年12月19日よりシネマライズほかにて全国順次公開

2008年/デンマーク・チェコ・ドイツ/デンマーク語・ドイツ語/136分/35mm/カラー/シネマスコープ/ドルビー・デジタル/原題:FLAMMEN OG CITRONEN/後援:デンマーク大使館/プレス監修:村井誠人(早稲田大学 文学学術院教授)/配給・宣伝:アルシネテラン

◇監督:オーレ・クリスチャン・マセン ◇脚本:ラース・K・アナセン、オーレ・クリスチャン・マセン ◇製作:ラース・ブレード・ラーベク ◇撮影監督:ヨーン・ヨハンソン ◇編集:サアアン・B・エベ ◇プロダクション・デザイン:イェテ・リーマン ◇構成:カーステン・フォンデール ◇特撮監修:ヒュマー・ホイマーク ◇衣装:マノン・ラスムセン ◇メイク:サビーヌ・シューマン、イェンス・バートラム ◇音楽:ハンス・メーラー ◇ライン・プロデューサー:クリスティーナ・コーナム ◇製作総指揮:ボー・イーアハード、ビアギテ・ハル、モウテン・カウフマン、ヨーン・ラムスコウ

◇キャスト:トゥーレ・リントハート、マッツ・ミケルセン、スティーネ・スティーンゲーゼ、ピーター・ミュウギン、ミレ・ホフマイーヤ・リーフェルト、クリスチャン・ベルケル、ハンス・ツィッシュラー、クラウス・リース・ウスタゴー、ラース・ミケルセン、フレミング・イーネヴォル、イェスパ・クリステンセン



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【解説】

◆ただ、“生きる”ためなら降伏を、だが、“存在する”ためには戦いを ―

1939年9月、第二次世界大戦が勃発するも、ナチス・ドイツと不可侵条約を結んだデンマーク。国民の多くは戦禍に巻き込まれることなく、やり過ごすことができるものと信じていた。しかし、翌年4月、突如としてドイツの占領下に。当初はデンマーク政府の統治がそのまま認められるなど、直接支配を意味するものではなかったが、 統制が次第に厳しさを増していく中、ある者はナチスに従い協力をし、そしてある者は抵抗する道を選ぶようになる ― 。


◆「だが、俺たちは、確かに“存在”した ― 」 

1944年、ナチス・ドイツ占領下のデンマーク。誰もが恐怖に身をすくめていた時代、ナチスに凛然と立ち向かった実在のレジスタンス、フラメンとシトロン。このような状況下でさえなければ、青春のただ中で人生を謳歌していたはずの若きフラメンは、純粋すぎるがゆえ使命感に燃え、愛に翻弄されながらも戦うことしか選べなかった。そして、愛する妻、まだ幼い娘と幸福な時間を過ごしていたはずのシトロンは、人を殺めることに抵抗をおぼえながらも、守るべき者のため自ら戦うことを選んだ。己が信じ選択した道を、多大な犠牲を払いながらも相棒と共に進む2人。

しかし、自由へと続くはずのその道の先には、2人の思いとはかけ離れた想像もつかない真実が隠されていた ― 。

正義、友情、愛、そして裏切り ― 取り巻く全てに翻弄されながらも2人が信じ抜いたもの、それは己の信念と相棒との絆。

最期まで凛とした彼らの生き様が、観る者の胸を熱く、そして切なく打つ知られざる真実の物語 ― 。



◆2008年度デンマーク・アカデミー賞5部門受賞!! 
デンマーク史上最大級の製作費をかけ、国民の8人に1人を動員した驚異的大ヒット作!!


デンマークの王国公文書館が当時の資料を長い間公開せず、語ることの許されなかったタブーとされる史実を、60余年経った今、デンマーク映画界を代表するオーレ・クリスチャン・マセン監督が、実際に当時を知る関係者の目撃証言に基づき、ついに映画化。儚い運命を辿る実在のレジスタンス2人組、フラメン役には、『天使と悪魔』で国際的にも一躍脚光を浴びたデンマークの若手No.1俳優トゥーレ・リントハート。シトロン役には、『007/カジノ・ロワイヤル』のボンドと敵対するル・シッフル役が記憶に新しい、デンマークが誇る国際派俳優マッツ・ミケルセン。彼らの気迫に満ちた演技が、歴史上の人物を現代に鮮烈かつ魅力的に蘇らせた。ほか、『ワルキューレ』のクリスチャン・ベルケル、『ミュンヘン』のハンス・ツィッシュラーなど豪華名優陣が脇を固める。また、『ミフネ』(1998)の世界普及に貢献するなど、ヨーロッパ映画界の名プロデューサーであるラース・ベルド・ラーベクが製作を担当。真実のみがもつ圧倒的な説得力で観る者の心を揺さぶり、本国で2008年度動員数第1位を記録。世界各国で公開され成功をおさめた。デンマーク国立のレジスタンス博物館では、彼らを中心とした当時のレジスタンスを特集する展示が行われるなど社会現象を巻き起こし、公開から2年近くがたった今でも多くの人が訪れている。


◆65年の時を経て、今、明かされる哀切なる実話 ―

第二次世界大戦末期、地下抵抗組織の一員であるフラメンとシトロンの任務は、ゲシュタポとナチに協力する売国奴の暗殺であった。確固たる信念のもと任務をこなしていく2人だが、ある標的と対峙した時“何かがおかしい”と、初めて暗殺をためらってしまう。更に、フラメンの恋人であるケティへスパイ容疑がかかり暗殺命令がくだったことで、組織に対する疑念が急速に膨らんでゆく ― 。

組織は、ケティは、本当に信じることができるのか? 誰が敵で誰が味方か、疑心暗鬼に苛まれ苦しむ中、フラメンとシトロンは危険な立場に追い詰められていく ―  自分たちがしていることは正義なのか? そして己の果てを悟った2人がそれぞれ選択した驚愕の結末とは……。



●フラメン ー ベント・ファウアスコウ=ヴィーズ(1921年1月7日生−1944年10月18日没)

元々彼の髪はブロンドだったが、色を変えて変装しようとしたが失敗し、染まった髪はどぎついニンジンみたいな赤毛になった。それでコードネームが「フラメン(炎)」になった。

証言者1:「フラメン」はいつも進んで皿洗いとかを手伝ってくれた。でも、何といっても得意だったのは、人々を取り仕切り、他の人間に仕事を与えて忙しくさせておくことだった。ドイツやデンマークの軍服をたくさん用意していて、銃の許可証やそれに対応する身分証明書などの偽造もしていた。医者の書類も持っていて、外科用の手術道具一式も持っていた。もちろん、そういった物の調達は他人に任せていたが。我々がいつでも手に取れるように、銃弾や手りゅう弾、ステンガンなんかを置いておいてくれたよ。彼には、身の回りの用事を整理するような助手的な人間のチームが必要だった。彼は、家の中では無防備でだらしがない普通の男子学生みたいな感じだったが、いざ任務に就くとすべてが入念に考えられていて、ただひとつの無駄な動きもない計算された行動をした。その大胆さといったら驚くほどであった。

1944年、証言者1が逮捕された。ドイツ司令部に連れて行かれ、「もし軍法会議にかければ、お前は終わりだ」と、ゲシュタポのリーダーに言われた。「だが、そうはしない。お前は大事な人質とする。“フラメン”を逮捕するのに利用する」。それがこの後、夏から秋にかけての、猛烈な追跡の始まりだった。ドイツ軍にとっては、「フラメン」はいかなる代償を払ってでも捕まえたい“極悪犯”であった。最高額の懸賞金が「フラメン」の首にかけられた。

「フラメン」は、ユトランドの任務から戻ってすぐ、「シトロン」の死を知らされ、大きな衝撃を受けた。彼は数日後、コペンハーゲンの北郊の保養地ベルヴューのビーチホテルに移り、10月18日の朝、コペンハーゲンに行き、その夜再びユトランドへ向かうことを決めた。出発まで、目立たないよう隠れている必要があった。彼は友人と、二人が知る人物のオートロプの「隠れ家」でその日の夕を過ごした。そこにいた他の者たちが10時ごろ帰ろうとしたその時、大声で「開けろ(*ドイツ語)」と叫ぶ声と、それに続く重々しいノックの音が正面ドアから響いた。「フラメン」はすぐさま二階に上がり、窓を開け、屋根伝いに逃げようとしたが、窓の下枠に飛び乗るとすぐに自動小銃の銃撃にあい、家の中に戻るしかなかった。ドイツ兵たちは、玄関をこじ開けると階段の上に向けて銃を撃ち始め、二階の床はハチの巣状に穴が開いた。しかし、「シトロン」と異なり、「フラメン」は武器を持っていなかった。ユトランド行きの数日前に自分の武器を「シトロン」に預けていた彼は、今やドイツ軍を前にしてまったく無防備であった。仲間は武装したゲシュタポの一団に取り押さえられ、その中の2人の女性を盾に、ゲシュタポは二階の寝室へ上って行ったが、「フラメン」の姿はドアの後ろに隠れていて見えなかった。しかし、ドイツ兵は、駆けあがった際、そのドアが押し戻されたのを見、彼らがそのドアから押し入ったと同時に、「フラメン」は青酸カリのカプセルを飲み込んだ。

ドイツ兵たちは、誰を捕らえたかわかると歓びの声を上げた。致死量の青酸カリは既に効いていたが、彼の意識を戻そうと足首をつかみ階段を引きずって玄関に連れて行った。カーペットで覆われた階段に「フラメン」の頭が打ちつづけるおぞましい音と、さかさまでシャツがめくれて顔を覆っている光景は友人たちには耐えがたいものだった。「シトロン」同様、「フラメン」もずっと以前から生け捕りにはならないと誓っていた。捕まったら、耐えがたいほどの拷問を受け、抵抗運動を危険にさらす秘密を明かすようなことはしたくなかったのだ。「シトロン」と同様、「フラメン」も最後までその約束を守り通した。「フラメン」の死に顔は穏やかだった。



●シトロン  ー ヨーン・ホーウン・スミズ(1910年12月18日生−1944年10月15日没)

ヨーン・ホーウン・スミズは、コードネームをレモンを意味する「シトロン」としたが、それは彼がシトロエンの修理工場で働いていたための命名であった。

証言者2:目の前に、中背でがっちりした体格をした黒髪の人がいた。手を差し出して自己紹介する彼を、私は興味深く見つめた。愛想のよい顔で目は茶色がかっていた。彼の笑顔は温かく気さくだった。想像とはまったく違っていた。「シトロン」はとてつもなく大胆で動きが非常に速いと言われていて、危険な任務を実行するときは完全に無慈悲だと言われていた。そういう気質を持った人間とは夢にも思わないほどだった。ごく普通の34歳の家族思いの男に見えたし、仕事をこなして妻と子供たちを守ること以外には何も考えていないように見えた。ゲシュタポのブラックリストで最も重要な手配人物二人のうちの一人だとは誰も信じることができなかったはずだ。もう一人というのは、彼の友人である「フラメン」だ。

1944年9月19日。「シトロン」は仲間とともに、警官の服装をして、コペンハーゲンの「北通り」を盗んだオペルのパトカーを走らせていたが、道路を封鎖していたドイツ兵に突然止められ、そのまま拘束された。運の悪いことに、この日はドイツ司令部の引っ越しで、デンマークの警察は出勤しないことになっていた。

「シトロン」はすでに手配中の身で、検問をすんなり通過できるはずもなく、逃げなくてはならないことを悟る。およそ30分後、「シトロン」らは近隣の学校の校庭に尋問のために連行されていく。「シトロン」は逃亡を図り、塀を乗り越える際、ライフルを持ったシャルブルク隊(*注1)に見つかり、背中から打たれ肺に穴があく。重傷を負った「シトロン」は地面に倒れる。抵抗組織側から救急車が送られ、ドイツ側はその救急車が偶然通りかかったものと思い、取り調べをせずに「シトロン」を送りだしてしまう。「シトロン」は救急隊本部に運ばれ、そこからフレズレクスベア病院に搬送され、適切な医療処置を受ける。

(*注1)シャルブルク隊はドイツ占領軍に協力するデンマーク人で構成されていた。

1944年10月15日、「シトロン」は家の中を歩き回れるほどには回復していたが、休養のため、ある人物の別荘にいたところ、そこに、その晩ゲシュタポが家主を逮捕しに来たのだ。家主は不在であったが、「シトロン」はドアの外にいる人物がドイツ語で「秘密警察だ」と言った声を聞き、自分を逮捕しに来たと理解した。2人のドイツ人が家の中に入り、その内の1人が「シトロン」のいた二階のベッドルームに近づいてきた。逃亡を試みるにはまだ十分に体力が回復していないと考え、「シトロン」はドア越しに銃撃を開始。その男は肩を負傷した。もう1人が応援を呼び、さらに2人のゲシュタポが銃を持って家の中に駆け込んできた。彼らが玄関を通り、「シトロン」が動けずにいるベッドルームに入ろうとすると、家の中に爆音が鳴り響いた。「シトロン」が手榴弾を投げたのだ。その後、彼は入り口へ繋がる近くの更衣室に立てこもった。ゲシュタポたちは暗闇の中で発砲するが、燃えた家具のパチパチという弱々しい音以外は何も聞こえなかった。

ザブマシンガンの一斉射撃が始まり、やがてドイツ人の1人が射撃の音と共に床に崩れ落ちた。ゲシュタポはすぐにドアというドア全てに反撃を開始した。その家からは炎が鮮明に見え、自動小銃と手榴弾の爆発音が聞こえた。その頃には、すでに近くのイエーガスボー兵舎から200人ものドイツ人兵士の援軍が到着し、家を取り囲んでいた。そして、3時間以上にも及ぶ銃撃戦が始まった。目撃者によると、「シトロン」が数個の手榴弾を含む全所持品を手にし、足をひきずりながら部屋から部屋へと移動していたという。

しばらくして、火の手はさらに大きくなり、家は炎に包まれた。「シトロン」も、家から脱出せざるをえない状況に追い込まれた。隣人は、血に染まった青と白のストライプ模様のパジャマを着た彼が、傷ついた身体を引きずりながら、精一杯の速さでステンガンを乱射しながらドアを突き破った姿を証言している。しかし彼は、胸を貫通した銃弾により、家の前の芝生に崩れ落ちてしまった。彼は8人のドイツ人の命を道連れに、逝ったのである。「シトロン」は、「生け捕りにはされない」とよく話していたし、約束を守る彼らしく、自らの誓いを貫徹したのだ。彼は望んでいたように最後まで戦い抜いた。

1982年、この隠れ家は復旧され、その庭の発掘作業中に、FNブローニングモデル1910.32ACPが発見された。この拳銃は、「シトロン」の所有していた武器の1つと推定されている。10月14日にユトランドに発った「フラメン」が、武器の入ったスーツケースを「シトロン」に置いていっていたのだ。つまり、運命の日を迎えた「シトロン」は、十分すぎるほどの装備を手にしていたということだ。このスーツケースには、ステンガン2丁、ルガーP081丁、25ACP1丁、そして大量の手榴弾と爆弾が入っていた。



 


【ヒストリー&コメント】

◆デンマークにおける抵抗運動

デンマークにおける抵抗運動とは、第2次世界大戦下のドイツ占領に抗する地下抵抗運動をさす。ナチス占領当局が、デンマークに許した例外的に寛大な占領政策によって、抵抗運動そのものが他のドイツに占領された諸国と比較してもはっきりと目に見えるような展開に至るのが遅かった。しかし、1943年までには、多くのデンマーク人が非合法新聞の発行から諜報活動・激しい破壊工作に至るまでの幅広い地下活動に参加するようになり、最終的には、国内に出現したナチ組織に対して他国のいかなる抵抗運動にも劣らない大規模な破壊活動を展開したのである。

1939年 

9月1日、ドイツ軍、ポーランド侵攻。第2次世界大戦勃発。
11月30日、ソ連軍、フィンランド攻撃(「冬戦争」始まる)。

1940年

4月9日、デンマーク・ノルウェーはドイツ軍に侵攻され、デンマークはその日のうちに占領される。ドイツ占領当局はデンマーク政府にその統治の続行を許す。それは、デンマークを「保護占領」下のモデルとして諸外国に示すためであった。民主的選挙で選ばれたデンマーク政府が存続しているのであるから、他のドイツ占領地とは異なって、デンマーク国民の占領当局に対する抵抗への「動機づけ」は希薄であった。ユダヤ系住民でさえデンマーク政府の保護下にあり、占領以前に民主的選挙で選ばれていた政治家の活動は合法であり、警察権もデンマーク側にゆだねられていた。ドイツ当局が、検閲制度の導入、連合国側への情報伝達の禁止、ドイツ軍の駐留といった変化をもたらしたものの、デンマーク国民の日常生活は占領以前とは大して変わらなかった。

5月10日、ドイツ軍はフランス・ベルギー・オランダに侵攻、そしてフランス陥落(6月22日)。 さらに、翌年6月22日にソ連侵攻作戦を開始し、ドイツは無敵であるかに見えた。デンマーク社会は、ヨーロッパ大陸に広がるドイツを頂点とする支配秩序の中に組み込まれることに甘んじていた。それにもかかわらず、占領後ただちに、抵抗・諜報活動の試みは統一は取れていないものの発生している。「プリンス」という名で知られていたデンマーク軍の情報将校らが、4月13日には早くもロンドンとの回線を確保し、また間もなく、一全国紙の記者が英国への情報提供を迅速にするためストックホルムに脱出。秋には、抵抗組織がストックホルムで英国大使に情報を渡すことに成功。これをきっかけに、軍事情報および政治情報の定期的報告が開始され、これに加え、公営ラジオの従業員が国営ネットワークを通して、短文のメッセージを英国に伝送することに成功する。

1941年

6月22日、ドイツ軍によるソ連侵攻が開始されてのち、デンマークの共産党は非合法化され、デンマーク当局は269人の共産党員を逮捕・収監。これをきっかけに、デンマーク人の間に占領軍との対決の姿勢が目立ち始め、共産党員集団は地下組織を発足させる。

デンマーク政府は、モスクワ駐在大使の召還を行い引き続き「中立」を宣言するも、11月25日、ドイツ側の要求した反コミンテルン協定に署名し、一方、ドイツ軍の対ソ前線に向かうデンマーク人からなる義勇軍「Frikorps Danmark」の設立を承認、最終的には3000名が参加。デンマークの国民感情の大半は親英的であったものの、占領軍に直接抵抗する兆しはほとんど現れなかった。1941年の後半になって、ようやく非合法のパンフレットが現れ出す。

12月7日、日本軍真珠湾攻撃。アメリカ、参戦。

1942年

4月、共産党の指導者から保守国民党の指導者をも含む数多くの著名人により、最初の非合法新聞「自由デンマーク(Frit Danmark)」が発行される。この新聞は国中に広まり、占領が終了するまでの配布数は12万部までに達した。共産党員らはドイツ軍下にある工場を爆破。破壊活動が持つ意味は、実際に与える損害だけではなく、「保護占領」というデンマークとドイツ間の関係に圧力をかけることでもあった。また、この年、英国のSOE(特殊作戦執行部)が送り込んだパラシュート降下のデンマーク人情報部員と、デンマーク内で活動中の抵抗運動組織とが初めて接触に成功する。1943年以降、SOEは破壊活動に必要な武器や物資の供給をした。

9月26日、デンマーク国王クリスチャン10世誕生日。ヒトラーの祝電に対する国王のそっけない返電がヒトラーを怒らせる(「電報危機」)。

1943年

2月、スターリングラードでドイツ軍敗北。

3月23日、ドイツによる占領国家では、唯一例外の総選挙の実施。ドイツは、デンマークに好意を示す必要から総選挙の実施を認め、結果は既成4政党が圧倒的に得票し、デンマーク・ナチ党は3%に満たなかった。時を同じくして、真のレジスタンス運動が組織化され、主に親ドイツ系企業やドイツとノルウェーを結ぶ動脈だったユトランドの鉄道部門でサボタージュが増加する。

8月、いくつかの地方都市で激化するサボタージュに対し、ドイツ軍は死刑やストライキ禁止等の処置を含む戒厳令を発令し、デンマーク人による統治権を剥奪する。

8月29日、ドイツ最高司令官によるデンマーク陸海軍に対する非常事態宣言により、軍装備の引き渡しが求められ、海軍は押収される前に29隻の軍艦を自沈さす。

8月30日、スカヴェニウス内閣は総辞職し、議会は活動を停止。政府は各省事務次官から構成され、実質、デンマーク政府の自治権が奪われたことで、抵抗運動へ参加する国民の数は急増した。

9月4日、イタリア降伏。

9月16日、主要なレジスタンス・グループが組織化され、「デンマーク自由評議会(Danmarks Frihedsrad)」を設立。その結果、地下運動を統制することのできる「地下政府」ができたことにより、スウェーデン経由で英国との間にコミュニケーション網を確保し、英国空軍が抵抗運動支援のため、定期的に武器や弾薬投下を開始。「地下政府」のドイツに対して戦うという言質を疑っていた連合国側は、この時期以来、デンマークを「連合国の一員」であると認識し始めたのである。

10月2日、ドイツ軍は、すべてのユダヤ系市民を拘禁することを決定。レジスタンス・グループが、デンマーク国内のユダヤ系市民(7000人)の大半を中立国のスウェーデンへ逃がすことに成功したが、500人が強制収容所に送られた。建国後、イスラエルは、ユダヤ人救出に協力した人々に「国を超えた正義(Righteous Among the Nations)」の勲章を与えた。

1944年

1月4日、作家であり牧師、カイ・モンク、ドイツ軍により殺害さる。近い将来の連合軍によるデンマークへの侵攻に備えた待機軍の徴募と相俟って、抵抗運動の規模は拡大。ユトランドでは連合軍への戦略的支援として、(ノルウェーに駐留する)ドイツ軍の欧州戦線への移動を遅らせる目的で鉄道の破壊活動が活発化。また、抵抗運動に対するドイツ当局側の報復的破壊行為・報復殺人といった手段によるテロ行為が、一般市民にも拡大された。

6月6日、連合軍、ノルマンディーに上陸。

6・7月、自由評議会の指導のもと、コペンハーゲンのゼネスト。それは市民全体が自由評議会の求めに応じ、足並みを整えた結果だった。

8月20日、パリ解放。

9月19日、全国の警察官9000人が拘束され、そのうちの2000人がドイツの強制収容所へ送られる。

10月15日、「シトロン」殺害さる。

10月18日、「フラメン」自殺。

1945年

3月21日、コペンハーゲンのゲシュタポ本部に拘留された仲間や集められた情報への懸念から、地下組織は繰り返し英国空軍に情報の消滅と仲間の解放のため爆撃を要請、当初、英国側は民間人に犠牲者が出るとしてためらったが、最終的に「カルタゴ作戦」を実行。 P-51ムスタング30機に護衛された、戦闘爆撃機デハビランド・モスキート20機による空襲がおこなわれ、本部の襲撃は成功し、ゲシュタポに捕らえられた18人を解放、さらに、デンマークの至る所にある反レジスタンス基地を破壊した。しかし、寄宿学校に爆弾が落ち、86人の子供を含む125人の命が失われた。 これに対し、ドイツ側は、デンマーク史上未曾有の報復をもって応じた。街路で無差別な銃撃が行われ、建物を爆破した。

4月30日、ヒトラー自殺。

5月5日、ドイツ軍を追い詰める戦闘がデンマーク国内におよぶ前に、ドイツ軍が降伏。それは、デンマーク市民にとっては、占領時代の犯罪に対する処罰、責任の所在の究明、そして、再び自由を獲得した歓喜へのシグナルでもあった。占領期間中、レジスタンス活動家の犠牲者数は850人を上回る。彼らは、活動中に命を落としたか、刑務所や収容所で処刑されたか、軍法会議にかけられた後に処刑された(102人)。



◆「不機嫌な時代」 村井誠人(早稲田大学 文学学術院教授)

デンマークには、わずかな例外的な人々を除き、誰もが「不機嫌」であった時間が存在した。それは、1940年4月9日の午前中に始まり、1945年5月4日までの、対英「保護占領」の名のもとのナチス・ドイツによる占領の時期である。空から捲かれたノルウェー語とデンマーク語が混じったビラに始まり、英国からのBBC放送がドイツ軍の降伏を告げるまでの5年間の日々である。5月5日は、歓喜の渦の中で、国民が解放を祝った。

私の経験では、1969年以来お世話になったデンマークの一般の心優しき人々から、不思議にもその占領時代の苦い思い出はあまり語られず、実際、穏やかな彼らがそんな過去を経験してきたということさえ、長い付き合いの中でほとんど触れられることはなかった。20代をその時期に経験したり、終戦時に父親がスウェーデンから「デンマーク旅団」の一員として帰国してきただのと、ほんのわずかな断片のみを聞いたにすぎなかった。祖国の英雄たちが血みどろになって活躍した時代とはいえ、同時代人としては誇らしげに語る何物もなかったというのではなく、彼らにとっては、「不機嫌」とならざるを得ないあまり思い出したくない時期であったろう、という印象を私は受けた。

それでも、思い出す材料はいくらでもあったはずだ。街並みは、現代的になったとはいえ、そのままに残っている。ちょっとした公園や道端には今でも防空壕が芝に蔽われて塚として存在し、コペンハーゲンには抵抗博物館があり、その前には解放の日に動員されたフレズレクスヴェアクの工場で製造された「手製」の装甲車が展示されている。解放記念日に旗をつけて走りまわる市バス、そして、抵抗運動家の処刑場となったコペンハーゲン北郊のリュヴァンゲンの墓地の存在等々、多くの人々にとっては青春時代そのものの5年間という時間が、その後も生活の場としてあり続けるあちこちの街角にそれぞれの思いの中で存在し続けてきたのだから。

私の研究との関係では、不思議な表現に出会う。

コペンハーゲン大学歴史学教授オーウェ・フリースを研究対象とした際に、ある史料は、彼を第二次世界大戦後「デンマークで二番目に嫌われている男」として記していて、問題は誰が一番嫌われていたかを思いめぐらせねばならなかった。彼は18世紀のデンマーク政治史におけるドイツ人貴族の進歩的役割を研究したことから、ドイツの「良心」に期待する行動様式をとり、第一次世界大戦後、結果としてデンマークの国家的存在のためには、ドイツに対する禁欲的欲求に基づいた国境の設定を主張した人物であった。そして、フリース教授は、第二次世界大戦後も、国境を南に移動せよという世論に、断固反対する立場を表明していたのである。したがって、その「嫌われ者」の文脈から考えると、占領期にあって、首相としてドイツ支配に対し「協調政策」を遂行したエーリク・スカヴェニウス(1877-1962)こそが第一位であろうか。デンマークがドイツを頂点とした欧州の「新秩序」のなかで生き抜くために、占領下の「中立国」という矛盾を認識しつつも、ナチスでも、またその協力者でもない立場から、平穏な国家秩序の維持を最優先として抵抗運動家の活動を抑える側に回った人物であり、戦後の国会議員による聴聞会に際しても姿勢を崩すことなく矍鑠として対応し、国を裏切った者として戦後に裁かれることもなかった。まさに大国の隣に位置する小国のどうにも逃げられようもないデンマーク国民一般の、自らが見たくもない実相を体現した人物であったといえよう。デンマークはドイツに接し、大戦前に、チャーチルをしてデンマークをドイツから防衛する術がないと言わしめ、また、ナチス・ドイツが軍備増強を図っている状況下に、デンマーク外相P・モンクの採りえた唯一の国防策は「寝たふり」のみであり、ここぞと1939年6月には「デンマーク・ドイツ不可侵条約」を締結したのであった。その挙句が、40年4月9日のドイツの侵攻・「保護」を名目とした占領である。それでも、大戦最終年の、英国首相チャーチルのデンマーク国民に宛てた年頭の挨拶で、「君達の抵抗は連合軍にとってもデンマークの未来と幸福にとっても価値ある貢献である」と評価するまでに、その抵抗運動は激しいものとなり、その結果、自らの手で解放を求めて努力したデンマークは連合国側の一員として認められていくのであった。 

私は、スカヴェニウスの写真に彼が笑っているものを見たことがない。彼は、デンマークが中立を維持した第一次世界大戦では外相を務め、戦間期にはオーストリア・ドイツへの大使を務めた外交官であり、ドイツを知りつくして、デンマークの国家としての存続を思うとき、彼はにこやかな表情を持ち合わせなかったのであり、まさに「不機嫌な時代」を象徴する人物であったといえよう。

このように考えるとき、私は、同時期のみならずさらに永きにわたって「不機嫌な時代」を経験させてしまった私たちの近隣の人々に思いをはせずにはいられない。



◆DIRECTOR’S COMMENT
 監督・脚本/オーレ・クリスチャン・マセン Ole Christian Madsen


自分の国が侵略された時には、重要な決断に迫られる。その立場にいたら、どんな選択をするだろうか。何とか生き延びて、できるだけ普通の状態で生きようとするだろうか。敵の歓心を買い、戦争が早く終わるようにと祈りながら苦難の時を生き延びようとするだろうか。それとも、ありとあらゆる手段を使って侵略者たちと闘うだろうか。生き延びるというわずかな望みとともに、戦争の行方を模索するだろうか。徐々に人間らしさを失い、自らも敵のようになっていくだろうか。フラメンとシトロンは、しっかりと自らの選択をしている。二人は戦うことを選んだのである。二人は仕事をこなしていくが、簡単な仕事ではない。汚れた、血にまみれた仕事で、本当のところは、誰が味方で誰が敵なのかはわからない。この戦いにおける二人は、自らそう呼ぶように非合法の諜報員であり、刺客を仕事とする非合法な存在であった。二人は、裏切り者を突き止めては撃ち殺していく。

この映画では、地下抵抗運動のために命をかけて殺し屋となることを決意する、二人の男の心の中を掘り下げていく。殺しの美学や、その構造についても扱う。そして、越えてはならない一線を超える時、より大きな目的のためにと、人間性を失う時に払わなければならない代償とは何なのかについても描く。丸腰の人間を相手に引き金を引かせるものは、何なのか。その行為に対する代償とは?

また、この作品は、組織についての映画でもある。彼らは、当時恐れられていた非合法の地下組織である。フラメンは、北欧諸国で最重要視されていた指名手配犯であった。生きたままでも、死んだ状態でも、彼の逮捕につながる情報には、ドイツ軍が莫大な報奨金をかけていた。その組織のメンバーも、想像もつかない隠された策略に利用されているのではないか、実は、上層部の命令に従って、無実の人々を殺しているのではないかという疑いが突然捨てきれなくなってくる。怒りを露にし、上からの命令はすべて拒否することから始まり、そのうち誰も信じられなくなり、仲間とも対立する。そして、自分たちだけの組織を作っていくのである。

本作は、激しさと感情の動きを描くだけでなく、存在の意義を描いた映画でもある。さらに、第二次世界大戦時の占領下のデンマークだけでなく、現代社会に存在する重要な問題を扱っている。これは、現代的な映画である。主人公二人を近い目線で追うことで、鋭い視点で描くスタイルをとっている。戦争について非現実的に描写するのではなく、戦争の中を生きて、その一部として関わることの複雑さを伝えている。抵抗する人、降伏する人、それぞれに理由があるのだ。本作は、誰が誰を利用しているのかという問題を、フラメンとシトロン二人の目線から、より広い角度へと発展させているドラマとなっている。



 


【ストーリー】

◆純粋すぎるがゆえ、戦うことしか選べなかった者。守るべき者のため、戦うことを選んだ者。
時代に翻弄された2人の、激しくも切ない真実の物語 ―


1944年、ナチス・ドイツ占領下におかれたデンマーク・コペンハーゲン。
日に日に厳しさを増していくナチスの弾圧に対し、身をすくめて暮らすデンマーク国民は、見えない明日に怯え戦争の早期終結を願っていた。

そんな中、打倒ナチスを掲げる地下抵抗組織<ホルガ・ダンスケ※注1>に、23歳のベント・ファウアスコウ=ヴィーズ、通称フラメンと、33歳のヨーン・ホーウン・スミズ、通称シトロンという2人の男が存在した。

若く怖いもの知らずで決して妥協を許さないフラメンは、堅固な反ファシズム主義者。<デンマーク自由評議会※注2>によって自らが属する組織を含めた抵抗組織が統合され、いずれ占領勢力に反撃する軍を堂々と立ちあげる日を夢見ている。

一方、繊細で家族思いのシトロンは、ナチスや国を裏切っている同胞を憎んでいるが、人を殺すことには抵抗があり苦悩の日々を送っている。 

彼らの任務はゲシュタポとナチに協力している売国奴の暗殺であった。組織の上層部から任務を命じられ次々とターゲットを撃ち殺していく ― これにより、フラメンにはゲシュタポから莫大な懸賞金がかけられることになるが、自由のために危険をかえりみず任務をこなしていく2人。

しかし、ある時直属の上司であるアクセル・ヴィンターから、ドイツ軍の情報機関の将校2人に対する暗殺任務を任されたことにより、事態はより複雑になってくる。フラメンは、有能で頭脳明晰なドイツ軍大佐ギルバートに立ち向かった時、“何かがおかしい”と感じ、初めて任務を実行するのをためらう。そして、動揺を残したままのフラメンは、もう1人のサイボルト中佐の暗殺にむかうも相打ちになり、重傷を負ってしまう。これを機に、相棒として任務につくも直接人を殺したことがなかったシトロンは、自らの手でギルバートの暗殺を決意する。


ゲシュタポによる報復が激化し<ホルガ・ダンスケ>メンバーが次々に拘禁・処刑されると、ヴィンターは、密告者をフラメンの恋人である諜報員ケティと断定し、彼らに彼女の暗殺を命じる。彼女はヴィンターの運び屋であるが、同時にゲシュタポのリーダー、ホフマンとも繋がっている二重スパイであると言うのだ。

信じられないフラメンはケティを問いつめるが、そこで思わぬ事実を聞かされることになる。ヴィンターは、ナチや裏切り者への暗殺任務に紛れ込ませ、ただ自分にとって都合の悪い人間をフラメンとシトロンに命じて消させていたと……。

自分たちは組織に騙され無実の人間を殺していたのか? そして、ケティを本当に信じることができるのか? 疑念が急速に膨らんでいく ― 。

誰が敵で、誰が味方なのか ― 。

絶望の底で組織の上層部に幻滅し、上層部からの命令を全て拒否する2人。更に、フラメンはケティがホフマンと行動を共にしている現場を目撃してしまう。自分たちのしていることは正義なのか? 何のために、そして誰のために戦っているのか? 疑心暗鬼に苛まれ苦しむ中、2人は危険な立場に追い詰められていく。

フラメンは、「戦争が終わったらここを抜け出して、2人でストックホルムへ行こう」というケティの言葉を、シトロンは、愛する妻、幼き娘と過ごした幸福な時を思う。

そして、自らの果てを悟った2人は信念を貫き、己の全てをかけてデンマーク史上最大の大量虐殺の主謀者、ホフマンの暗殺を決意する ― 。


※デンマーク解放後、フラメンとシトロンの葬儀が盛大に行われ、二人の棺は並べて埋葬された。 そして、1951年には、米政府からシトロンの母親に彼の功績を称え自由勲章が授与され、フラメンにも同等の栄誉が与えられた。

※注1 ホルガ・ダンスケは、第二次世界大戦中に活動したデンマークの抵抗組織の一つであり、フィンランドの冬戦争で、ソ連相手に義勇兵として戦ったベテラン活動家によって結成された。数あるレジスタンス組織の中でも大規模な部類に入り、終戦を願う350人の志願者から成った。100件程の破壊行為を遂行し、ナチスに密通した200人ものデンマーク人密告者の暗殺に関与した。グループ名の由来は、デンマークの伝説上の国民的英雄ホルガ・ダンスケからきている。腕を組んで坐し、眠っている彼の像がクローンボー城の地下通路に長年置かれているが、デンマークが危機に陥った時には、眠りから覚めてデンマークのために戦うという言い伝えがある。

  ※注2 デンマーク自由評議会とは、1943年9月16日、有力な地下抵抗組織に関わるコペンハーゲン大学教授、共産党に近い文筆家、保守国民党に関わる人々、及び英国から派遣されていたデンマーク内抵抗運動協力者代表らが結成した。8月30日にデンマーク内閣が実質的に意味を持たなくなったのちの「地下のデンマーク政府」としてレジスタンス活動の統括を図り、以降、英国からの指令を各地下組織に伝達した。連合軍がデンマークの解放のために侵攻を開始することに合わせて、デンマーク内でそれに呼応するための「軍事組織」の設立を目指していた。





 


【キャスト&スタッフ】

■トゥーレ・リントハート(フラメン)

1974年、コペンハーゲン生まれ。世に認められるきっかけとなった映画は、2000年の『A Place Nearby(英語タイトル)(原題:Her i noerheden)』で、人には言えないような秘密を抱え、心を病んだ少年を演じたリントハートのまばゆいばかりの演技が批評家から絶賛され、ベルリン国際映画祭でシューティング・スター賞に名前を挙げられるなど、国際的にも認められるようになった。2004年のドイツ映画『青い棘』での演技で国際的にも高い評価を得た。2005年のオーレ・クリスチャン・マセン監督作品『Angels in Fast Motion(英語タイトル)(原題:Nordkraft)』では、とてつもなく知性は高いが、重度の麻薬常習者であるステソ役で観客を嵐の渦に巻き込み、ロベルト映画祭でロベルト賞(デンマークのアカデミー賞)を受賞している。

2007年には、ショーン・ペンが監督を務めた『イントゥ・ザ・ワイルド』に出演し、2009年に公開された『ダ・ヴィンチ・コード』の続編のロン・ハワード監督作品『天使と悪魔』にも出演した、デンマークが誇る期待の若手俳優。デンマーク語では、ツーア・リンハートと発音。



■マッツ・ミケルセン(シトロン)

1965年、コペンハーゲン生まれ。主な出演作には、2000年から2004年まで続き、エミー賞も受賞したTVシリーズの『Unit One(英語タイトル)(原題:Rejseholdt)』の他に、1996年と2004年の『プッシャー』シリーズ、スサーネ・ビーア監督の『しあわせな孤独』(2002年)、同じくビア監督の作品でアカデミー賞にもノミネートされた『アフター・ウェディング』(2006年)などがあり、数々のデンマーク映画のヒット作に出演している。2006年には、オーレ・クリスチャン・マセン監督の『Prague(英語タイトル)(原題:Prag)』で、スティーネ・スティーンゲーゼと共演している。ミレニアムの節目を過ぎるとマッツの活躍は国際的にも目覚しくなり、2003年にはスペインのコメディ映画『トレモリノス73』に出演。さらに、2004年のアメリカの大ヒット映画『キング・アーサー』や、2006年の『007/カジノ・ロワイヤル』でボンドと敵対するル・シッフル役など活躍の域を広げている。また、待機作品『シャネル&ストラヴィンスキー』などが控える。デンマーク語では、マス・ミクルセンと発音。


■スティーネ・スティーンゲーゼ(ケティ)

1972年、デンマーク生まれ。デンマークの国立演劇学校を1998年に卒業。オーレ・クリスチャン・マセン監督のドグマ作品『Kira’s Reason - A Love Story(英語タイトル)(原題:Koerlighedshistorie, En)』で、2001年にタイトルとなっている主人公を演じ絶賛され、国内で名声を得た。この作品では、施設から退所したばかりの心理状態が不安定な女性を演じたが、その演技でボーディル賞(デンマークのゴールデン・グローブ賞)とロベルト賞(デンマークのアカデミー賞)を受賞している。2006年、スティーネは、オーレ・クリスチャン・マセン監督の『Prague(英語タイトル)(原題:Prag)』で、結婚生活の危機の中、夫(マッツ・ミケルセン)が父の遺体を引き取りにプラハに行くのに付き添うという役どころで主演女優を演じている。近年デンマーク映画に多数出演している。


■ピーター・ミュウギン(ヴィンター)

1963年、デンマーク生まれ。元々ラース・フォン・トリアー監督のTVドラマとして作られたシリーズ『キングダム』と『キングダムll』(1994年、1997年)のモゲ役で最初に強い印象を残したピーターは、その後もTV出演を重ね、人気シリーズ『Taxi(英語タイトル)(原題:Taxa)』に出演した後、エミー賞受賞作品である『Nikolaj og Julie(原題)』にも出演している。最近のTV出演作で注目されているのは、犯罪ドラマシリーズの『Anna Pihl(原題)』(2006年〜2008年)のヤン役で、主人公のルームメイトのゲイを演じている。数々の映画でわき役を演じてキャリアを積み、本作がデンマークの長編映画での初の大役となり、ドラマチックな役柄を演じている。


■クリスチャン・ベルケル(ホフマン)

1957年、ベルリン生まれ。TV界・映画界の両方で活躍するドイツ人の俳優。ドイツの長寿番組として知られるTVシリーズ『Tatort(原題)』では複数の役をこなし、TVシリーズ『Der Kriminalist(原題)』では主役を演じている。アカデミー賞にもノミネートされた2004年の『ヒトラー 〜最期の12日間〜』のシェンク博士役で国際的にも評価を得た。最近の出演作には、スパイク・リー監督の『セントアンナの奇跡』やブライアン・シンガー監督の『ワルキューレ』がある。本国ドイツでも高い人気を誇る俳優である。


■ハンス・ツィッシュラー(ギルバート)

1947年、ニュルンベルク生まれ。スティーヴン・スピルバーグ監督の『ミュンヘン』でのハンス役や、スウェーデンのTVシリーズ『マルティン・ベック』への出演等、本国以外にも活躍の場を広げている。1968年のデビュー以来、171作品以上の映画に出演し、ドイツの最も優れた俳優の一人とされている。


■ミレ・ホフマイーヤ・リーフェルト(ボーディル)

1979年、デンマーク生まれ。TVシリーズ『Unit One(英語タイトル)(原題:Rejseholdt)』や『Nikolaj og Julie(原題)』の他、『The Early Years(英語タイトル)(原題:Unge ar: Erik Nietzsche sagaen del 1, De』、『One Shot(原題)』などのデンマーク映画に出演するなど、将来有望な若手女優である。


■オーレ・クリスチャン・マセン(監督)

1966年ロスキレ生まれ。1993年にデンマーク国立映画学校を卒業。『Happy Jim (原題:Lykkelige Jim)』を卒業製作映画として監督し、優秀賞を獲得した。卒業後、1997年の『Sinan’s Wedding(英語タイトル)(原題:Sinans Bryllup)』 など、相次いで人気作品の脚本、監督を手がけ、1999年には『Pizza King(原題)』で出演も果たし、俳優としても注目を集める。2000年には、戦後のコペンハーゲンの地下犯罪組織を描いたTVシリーズ『The Spider(英語タイトル)(原題:Edderkoppen)』で広く成功を収めた。2001年、ドグマ映画の『Kira’s Reason - A Love Story(英語タイトル)(原題:Koerlighedshistorie, En)では数々の賞を受賞している。この作品で、マセンは監督・脚本の両方を務めている。2005年には、批評家に絶賛された小説『Nordkraft(原題)』を『Angels in Fast Motion(英語タイトル)』というタイトルで見事に映画化し、大ヒットさせた。この映画は、批評家、一般の観客の両方から高い評価を受けて成功している。2006年には、マッツ・ミケルセンとスティーネ・スティーンゲーゼ出演のロマンチックなドラマ作品の『Prague(英語タイトル)(原題:Prag)』を手がけている。この映画は、チェコ共和国の首都プラハで撮影された。『誰がため』は、オーレ・クリスチャン・マセンの最新作である。実話に基づいたこの第二次世界大戦を描いたドラマは、デンマークで記録的な大ヒットとなり、最も興行収入を上げた映画の一つに数えられている。

マセンの映画はすべてニンブス・フィルム社の作品だが、これらの注目されている映画の合間に、『Taxi(英語タイトル)(原題:Taxa)』、『Unit One(英語タイトル)(原題:Rejseholdt)』 などの高い評価を受けたTVシリーズも手がけている。



■ラース・ブレード・ラーベク(製作)

映画界に入る前は、世界最大の船会社系物流企業の一つであるA.P.ムラ/マースクで働いた経歴を持ち、マニラや東京に8年駐在した経験を持つ。ビジネス界を1991年に去り、1993年にデンマーク国立映画学校に入学する前には、政治的関心から草の根運動にも足を踏み入れた。1997年に卒業するとすぐにニンブス・フィルムに製作者として採用された。ニンブス・フィルムでは、サアアン・クラーウ=ヤコブセンの『Skagerrak(原題)』(2003年)の製作を務め、また、ドグマ映画である『ミフネ』(1998年)を国際的に普及させることにも関わった。トマス・ヴィンターベア監督の『アンビリーバブル』(2002年)では製作総指揮に名を連ね、ヴィンターベア監督の出世作、『セレブレーション』の国際的な普及にも携わった。2003年には、スペイン映画『トレモリノス73』に共同製作者として関わっている。2006年には、ベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞したペアニレ・フィシャー・クリステンセン監督の『A Soap(英語タイトル)(原題:Soap, En)』の製作を務め、2008年には、サアアン・クラーウ=ヤコブセン監督の政治を描いたスリラー『What No One Knows(英語タイトル)(原題:Det Som Ingen Ved)』 (ベルリン国際映画祭、スペシャル・パノラマ部門上映作品)、そして、同じ年にこの『誰がため』を製作している。現在準備中の作品に、シャーロテ・シーリングの主演デビュー作『Over Garden Under Vandet(原題)』があり、その他、ラウリツ・モニク・ピータセン監督やサアアン・クラーウ=ヤコブセン監督、オーレ・クリスチャン・マセン監督との新作の話が進行している。 


■ラース・K・アナセン(脚本)

ラース・K・アナセンは、オーレ・クリスチャン・マセンの共同製作者として常連であり、『Sinan’s Wedding(原題:Sinans Bryllup)』(1997年) や『Pizza King(原題)』でマセンと共同で脚本を務めている。TV番組の脚本で広く活躍しており、人気TVシリーズ『Defense(英語タイトル)(原題:Forsvar)』や、『The Spider(英語タイトル)(原題:Edderkoppen)』を手がけている。『誰がため』は、実際に起こった史実の大掛かりなリサーチに基づいて執筆した。ラースは、数年にわたるリサーチと同時に、数多くの生存者や目撃者に対するインタビューを行っている。そのインタビューを受けた者の多くが、近年、亡くなっている。この作品の脚本は、オーレ・クリスチャン・マセンと共同で手がけた。