『宮廷料理人ヴァテール』監督来日記者会見
 2000年9月25日(月)渋谷Bunkamuraオーチャードホール内ビュッフェにて

●出席者:ローランド・ジョフィ監督
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【挨拶】

■ローランド・ジョフィ: 今回、日本に来られて大変嬉しく思っております。特にこの作品は、日本の方々、また、日本の社会に伝えたいメッセージも含まれておりますので、この作品をたずさえて日本に来られて、日本の皆さまとお会いすることが出来て大変嬉しく思います。

【質疑応答】

◆質問: 今回の作品も前の作品でも、常に監督の作品は、自分の意志を持って生きようとする主人公と、もっと大きな力、今回は封建主義だと思うんですけれども、そういったものに翻弄されてしまって、最後、どうしても自分の意志通りに生きられないというのが多かったと思うのですが、今回の作品を選ばれた理由も、そこら辺が描きたいという理由があったのでしょうか。

■(ローランド・ジョフィ): やはり今回は、『ヴァテール』を選びましたのは、まず、私は歴史が好きであるということ。そして、歴史の中に存在する普通の小さい人物なのだけれども、その人物が大きなパワー、大きな権力に対してどう生きていくかということを、私自身観るのが好きなんですね。で、今回、そういった理由から、この『ヴァテール』を選んでみました。それに、このヴァテールという人物は詩情豊かな人物であると思いました。それはなぜかと申しますと、彼は大変、美しいものが好き。そして、完璧を常に追い求めます。しかし、この2つを追い求めるというのは、大変勇気のいることだということ、と同時に、大変危険なことであるというふうに私は感じました。

もう1つ、この映画の中では、権力と忠誠心というものが描かれております。これらの2つのトピックというのは、私が大変興味を持っているトピックで、表向きには、この映画は3日間にわたる大きな宴会を描いているわけで、宮廷の方々がお城を訪れて楽しむために行われるわけですけれども、その快楽の中にも複雑な人間模様が描かれております。そして、3日間ということですけれども、日を追うごとに、その表面上では見られない、裏の人間模様が浮き彫りになってくるわけです。どのように権力が支配していくかというさまが浮き彫りになっていきます。

この権力の構造というのは、過去10年間に日本の産業界の中で起きた変化に相当することだと私は考えました。つまり、かつては、日本の会社というのは、生涯雇用して、1回会社に勤めれば一生食べていけると思っていたわけですけれども、最近ではそうではなくなってきた。これは主に、アメリカの企業からのプレッシャーが大きいと思います。したがって、株主のためにいろいろ企業は動くようになってきました。そして、雇用者に対しては、どんどんクビ切りが行われてきているわけです。アメリカのマスコミというのは、常に終身雇用を批判的に書いてきました。けれども、終身雇用が可能であれば、終身雇用される側は常に会社側に忠誠心を持って働くわけです。会社としても忠誠心を持って働いてくれた者に対しては、やはり、終身雇用して彼らの忠誠心に報いなければならないと私は考えます。これは、ヴァテールの場合でも同じことであり、私は、『ヴァテール』の物語を読んで、現代にも通用するモダンなものがあると思いました。その点も、私がこの物語に惹かれた要素の1つです。


◆質問: 配役についてご苦労されたことについて。はじめからドパルデューは決まっていたのでしょうか。その辺についてはどうでしょうか。


■(ローランド・ジョフィ): これは大変いいご質問です。やはり、フランス人の物語ですし、フランス人特有の人生を楽しむ、心から生きるということを楽しむということが描かれております。ですから、そういった生き方、そういった考え方を理解できる俳優ということで考え、英語もしゃべることができてそこも理解できる俳優さんということで、はじめから彼を念頭に置いてこの映画を作りました。先ほども申しましたが、この映画というのは、3日間の宴会を描いておりますけれども、それと同時に権力闘争も描いているわけです。そしてヴァテールの権力、持っているパワーというのは(強大で)、彼は、厨房の中では王様なわけです。彼は、その力を使って、お客様を楽しませる料理(をつくり)、催し物を開くわけですが、彼は、自分の持っている権力を、想像力豊かにクリエイティブに使います。それと同時に、彼は、自分の持っている権力を温かい形で駆使するわけです。それに反しまして、ティム・ロスが演じておりますローザンは、全く反対の形で自分の持っている権力を使います。それは、権力を武器として使い、そして、破壊的に、生き延びるために権力を使うわけです。宮廷で生き延びるためには、そういった使い方しかできない。そうしなければ、彼は、宮廷で生き延びられないわけですから、そういった使い方をするわけです。このローザンとヴァテールの、それぞれの権力の使い方の違いは面白いと思いましたし、このコントラストは大変面白いと思いました。そして、この2人の俳優たちは、それらを大変うまく演じていると思いましたし、彼らは、見かけも考え方もだいぶ違う俳優さんで、大変うまくその違いを演じていると思ます。

実は私、この映画を撮る前に、三島由紀夫さんのある小説を読みました。私は、三島由紀夫さんを20世紀の中でも最大の素晴らしい作家だと考えているのですが、私が読んだ小説の中には、ある未亡人が登場いたします。そしてその未亡人は、義理の父親と一緒に暮らすことになるわけです。彼女は彼の愛人となります。さらにその未亡人は、庭師との関係も持つようになります。最終的には、その庭師を殺すことになるわけですが、私は、この中で描かれている力関係に興味を持ちました。つまり、この未亡人は自由を持ちません。自由を持たないからこそ、破壊的な行動を取ってしまうことになるわけです。

そもそも、この未亡人が庭師と関係を持つようになったのは、彼女が置かれている状況に対しての反逆だと私はとらえました。そして、義理の父親と関係を持つという状況に反旗を翻すために、彼女は身分の違う庭師と関係を持つようになるわけです。しかし、その反旗を翻した状況があまりにも公になってしまって、彼女自身の生活、彼女自身の立場を脅かすようになります。ですから彼女は、最終的には庭師を殺すことになるわけですが、この未亡人が取った行動というのは、私は、ユマ・サーマンが演じているアンヌ・ド・モントージエ婦人の取った行動に大変似ていると思いました。彼女はヴァテールに好意をいだきますけれども、それは、ヴァテールだけが彼女を人間として扱ったからです。他の人たちは、彼女をお人形さんのように扱っているわけで、だからこそ彼女は、ヴァテールに興味を持つようになり、愛情を持つようになり、彼と関係を持つわけですけれども、それは、愛情からきていると共に、国王に対する反逆だというふうに思いました。彼女は国王の所有物であり、彼女はそれを大変いやがっているわけで、反旗を翻してヴェテールとベットを共にするわけです。でも、国王が彼女に興味を抱いていると思った瞬間、彼女は自分の立場を守るために、ヴァテールを置き去りにしてしまう。つまり、ヴァテールの心を傷付けてしまうわけですね。これはやはり、先ほど話しました未亡人と同じだと私は思いました。そして、この映画は食べることを描いているわけですけれども、それは、食べるという行為をただ描いているわけではなく、人間同士のドロドロした人間模様、人間同士がお互いを喰い争うことも描いていると思います。そして今回、ユマ・サーマンは、大変うまく演技をしてくれたと思いますし、自由を持たない女性の微妙な心のひだというものを、うまく顔の表情等で演じてくれたと思いました。そして、自由を持たない人間というのは、最終的には破壊的になるというところも表現してくれたと思います。


◆質問: 今回、17世紀のフランスを舞台にされていますが、かつて、ベトナムや南米、インドなどを舞台にした作品が多くあるのですが、それは、各国の文化や歴史に興味があるからそういった作品を選んでいらっしゃるのでしょうか。

■(ローランド・ジョフィ): 私は、そういった部分に大変興味を持っておりますし、映画の素晴らしい点というのは、時空を超えていろいろな文化に接し、それらを学べる点だと思います。過去の文化、未来の文化、いろいろな文化を楽しめるわけですね。多くの方が、なぜあなたはイギリスで映画を撮られないんですか?と聞かれますけれど、まあ、イギリスで撮っている方は十分いらっしゃるので、私は他の土地で撮りたいと思うわけです。それと同時に、他の文化を知ることによって、より自分自身の文化に触れることができると思います。それは、比較対照ができるからですし、それと同時に、歴史の中の違う国の文化を学ぶことによって、自分自身の今の文化も学べるというように私は考えております。したがって、今回は17世紀のフランスですけれども、17世紀のフランスの文化を学んで、17世紀のフランスも現代もそんなに変わりはないということに私は気づきました。そして、文化というものは、自分だけの文化に囚われてしまうと、それは、牢獄のような形で、他に目が向かなくなってしまいます。けれども、他の国の文化に目を向けることによって、(自国の文化と)比べることができます。それによって、人間についてより深い理解が得られると私は思います。それは、歴史の中の文化も含めまして、違う文化、いろいろな文化を学ぶことによって視野が拓けてくるのです。そもそも人間というのは、生き方についていろいろな疑問を持っているのだと思います。それは、どの文化においても普遍だと私は思います。そのそれぞれの疑問に対して生まれた答えが、それぞれの国の文化であるわけです。ですから、そもそもの疑問は同じなのだけれども、答えはそれぞれの文化によって違うわけですね。そういった違う文化を学ぶことによって人生に対する答えが、いろいろな違う答えを学ぶことができる。そして、人間によってどれくらい違うかということも理解できますし、より人間というものを深く理解できると、私は考えております。

●司会者:今回のフランス=イギリス合作というのも、まさしくそういう文化を象徴していますよね。


■(ローランド・ジョフィ): 今回、私はフランスに行きまして、フランスの料理人さんと仕事をしたり、フランスの衣装、デザインの方々と仕事をして、それもこの映画の大変嬉しいことでした。そして、今回魅力的な作品にしたいということで、衣装にもこだわりまして、実は、日本のデザインを大変参考にいたしました。特に、日本の着物の色彩を参考にして衣装を作りました。あと、絹も沢山使いました。なぜならば、日本の着物の色彩というのは、宮廷の権力、華やかさを非常に良く象徴していると思ったからです。今回は、そこの部分、宮廷権力の強さというものを表したかったので、着物も随分参考にさせていただきました。デザイン的には、時代考証もしっかりしているんですけれども、その他に、少しはアート的な部分で着物を参考にさせていただきまして、より魅力的な衣装を考案いたしました。

◆質問: 映画の中で出てきた料理は、最終的にはどうなったんでしょうか? キャストやスタッフの方が全部食べたんですか。あと、監督さんは、これまで典型的な日本料理を食べたことがありますでしょうか。もしありましたならばその印象について教えて下さい。

■(ローランド・ジョフィ): この映画に登場します食べ物はほとんど本物です。本物と偽物というのは、フィルムを通しましてもわかってしまいますので。なるべく本物を作るようにしました。ただ、キャストが食べてしまうんですね。特に、ジェラール・ドパルデューは摘み食いをしておりまして、ちょっと目を離しますと、彼は口をモゴモゴしていて、「チーズは何処にいった?」と彼に聞きますと、「チーズ? チーズは知らないな」と、彼の手にチーズが残っているんですけれども。ただ、この映画は食べる楽しさというのも描いていますので、それもいいかなと思いました。

和食で一番好きなのはお寿司のウニです。他には、大変親しい料理人でマツヒサさんという方がいます。彼は、マツヒサという自分の名前を付けたレストランをロサンゼルスに持っておりますし、日本にもニューヨークにも持っていらっしゃいます。そして、彼の料理というのは、ラテン・アメリカの料理と日本の料理をミックスした感じで、ポストモダン的な独自のものを考案して作っています。いろいろな国の文化をブレンドして作っている彼の料理は、私の映画にも共通する点だというふうに感じています。そして、それぞれの国がどういうふうに食に接しているかというのは、文化の意味において大変大きな意味を持つと考えています。先ほど話しましたマツヒサさんというのは、和食の原点から離れずに、けれどいろいろなラテン・アメリカのものなどを取り込んで料理を作っております。ですから、食事の作り方、料理の仕方、準備とか出し方などは和食を基本にしてらっしゃるんですけれども、それと同時に、西洋のものを織り込んで出したりするんです。つまり、和のルーツをしっかり持ちつつ新しいものを取り込んでいる。この姿勢というのは、現代社会において大変重要だと私は考えています。つまり、自分の文化を大切にしながら、うまく他の文化を取り込んでいるということ。それは大変いいことだと思いますし、彼の食の中にインテリジェンスを感じます。


◆質問: ピーター・グリーナウェイの『コックと泥棒 その妻と愛人』との、根本的なテーマの違いなど、意識されたことはありますでしょうか。2つ目は、あの時代の食べ物というのは、今でも美味しく感じられるものなのでしょうか。3つ目は、20年間で、そんなに沢山映画を撮られていないですけれども、映画を撮られていない時は何をなさっているんでしょうか。


■(ローランド・ジョフィ): まず、食べ物についてですが、実際に撮影に使った食べ物を私も食べましたけれども、大変美味しかったです。今回、スタッフに若い料理人さんを雇いまして、彼らは修行中ですから、実際にレシピなどを勉強している最中だったんですね。彼らは、実際にその時代のレシピを使って料理をしてくださいまして、時には厨房から出てきまして、「16世紀のレシピを使って作ったんですが、凄く美味しいので食べてください」と。思いがけず、大変美味しいレシピもございました。

ただ、忘れてならないのは、当時、16世紀、17世紀というのは、旬の物しか口に出来なかったわけです。今のように保存の方法が発達していませんから。たとえば、冬にはお肉を食べることができませんでした。映画の中でセリフにありますけれども、「麦を保存する方法ができたから、麦を家畜に食べさせられる。冬でもお肉を食べることができるかもしれない」というセリフです。当時は、冬には家畜の餌がなくなってしまいますので、お肉を食べることができなかったんですね。それと、今でもそうですが、美食は、権力、そして裕福であるという象徴でもありました。ですが、今の我々ほど食べ物を粗末にしていませんでした。我々というのは、たとえば、私の14歳の娘などは、野菜というのは袋詰めになっているものだと思っているかもしれませんし、牛は、自分でステーキの形になって出てくると思っているのではないでしょうか。スーパーで売っている形でしか知っていなくて、実際にどうなっているんだということを知らない、考えない、と私は思います。それは、都市生活の仕方がないところかもしれませんが、そこのところを、食文化の一部分として、そもそも食材はどうなっているのかということを、我々は見失っていると思います。

それで、映画を撮っていない時は何をやっているのかということですが、自分の人生を生きています。なぜならば、映画を撮っている最中というのは、生きているとは言えないほど大変な作業ですので、まあ、人生を満喫しています。映画を撮っていない時には、恋愛もしますし、失恋もしますし、美味しいものも食べますし、子育てにも励みます。あと、いろいろな方々に、今回の場合ですと、「自分は17世紀の料理人の話を撮りたいんだけれども、いかがでしょうか」と売り込むわけですね。で、往々にしまして、そういうアイディアを話しますと、「17世紀の料理人ですか?」という反応がきまして。したがって、1つの映画を撮るのに、僕のアイディアをちゃんと認めてもらうために、2年ぐらい費やさなければならなくなってしまいます。

ピーター・グリーナウェイさんの作品ですけれども、そもそも私は映画評論家ではないので、この2つの作品を比べることは避けたいと思います。でも、強いて言えば、ピーター・グリーナウェイ監督は、私よりもセオリーに拘っていると思います。私はどちらかというと、セオリーよりは感情面に拘りを持っている。ですから、この2つの作品の違いはそこの点ではないでしょうか。

*以下、カッコの中は観賞後に読まれることをおすすめします。


(僕の『ヴァテ−ル』に関しましては、これは、表面上は、さきほども申しました通り、3日間にわたる宴会の物語です。最初の日は、これからどんな宴会が行われるだろうという「期待」。たとえば、オリンピックの選手が、練習を重ねてやっとその夢が叶う。そういった部分を描いております。2日目は、だんだん見えてくるわけですね。この宴会は、食べ物を食べるんではなくて、人がお互いを食い争う宴会であるということが見えてきて、3日目は、自分が壊れてしまうということに気が付くということを分けて描きました。ですけれどこれは、お客様に事前には伝えたくないことで、見たお客様がご自分の目で確かめて感じていただきたいと思います。で、お客様には、あたかも、その宴会に招待された客のように、一日一日を生きて、感じとっていただけたらと思います。)

実は、私ですね、デザール侯爵のお父さんが書いた手紙というのを読んで大変ショックを受けたんですけれども、そのお父さんがある友人に宛てた手紙の中に、自分が宮廷を去る時に、フランスの侯爵から「侯爵、いつあなたに会えますか?」と聞かれた時に、自分はもう会えませんということは言いづらかった。本心としては、自分は自分の野心を実らせるために、実現させるためにこの宮廷にやってきたけれども、最終的に気が付いたのは、宮廷の生活というのは、もっとも状況の悪い、もっとも辛い、奴隷の生活に等しいということに気が付いた。ということがなかなか言えなかったと、その手紙に書いてあったんです。考えてみれば、人間誰しも自由ではないと思うわけです。ビジネスマンで、苦労して上まで上り詰めて、大成功をおさめて、偉大なビジネスマンになって会社も成功して波にのっている人も、果たして彼はどれくらい自由でしょうか。または、ルイ14世、国王でさえ、彼はフランスを築き上げた偉大な国王だと言われていますけれども、彼も果たしてどれくらい自由だったか。彼の持っていた自由とは、ヴェテールが持っていた鳥かごに入っているオウムに等しいのではないかと私は考えます。もしかしたら、人間というのは、生まれる前が自由で、それ以降は自由というものはないかもしれません。ただ残念なのは、唯一自由だった生まれる前の記憶は、誰もが持っていないことですね。


◆質問: 一番最初に、日本の方に語りたいメッセージがあるとおっしゃっていましたが、それは、今まで語られた中に出てきているのでしょうか。それとも、まだ語っていないのか、教えて下さい。


■(ローランド・ジョフィ): 今回の日本へのメッセージというのは、今、日本で行われているクビ切りのことです。アメリカの企業というのは、日本の企業に効率性ということを求めていて、「どんどん雇用を削減していけ」ということを言っています。同じことがフランスでも行われている。特に、アメリカの幾つかの新聞というのは、フランスの企業のあり方を常に批判しておりまして、フランスは、ある程度社会主義的な政策をとっておりまして、かなり成功しております。それは、アメリカにとっては面白くないことでありまして。ここでひとつ、人を雇うことにおいて重要なことがあります。どれだけ自分の雇用者に対して、どれだけ責任を持つことかということだと思います。これこそ、コンデ大公が持っていた悩みであります。つまり彼は、国王への忠誠心、家族への忠誠心、貴族として家柄を守るという、家柄への忠誠心があるわけです。自分の家を存続していくためには、国王からお金をもらわなければならない。それが彼の大きな責任としてあります。その責任を全うするために、彼は、悲しいかな、彼の雇用者、つまり、ヴァテールを売り飛ばしてしまうわけです。それが、果たして良いことか悪いことか。そういったことを含めまして、コンデ大公が持っていた悩みというのは、今の現代の企業家の悩みと共通するものだと私は思いました。

あと、お金なんですけれども、お金の価値観というのは、近年だいぶ変わってきていると思います。そして現代は、なんでもお金の価値に換算して考えてしまうわけですよね。これは、コントロールできないくらい大きくなってきていると思うのです。つまり、結婚するにもお金で換算してしまうわけです。または、内臓移植などもお金で換算してしまいます。大変危険なことだと私は思いますし、あくまでも、通貨というものは、人間が発明したものです。しかし我々は、それにコントロールされているというような懸念もあります。どんどん重要性も増している思います。ただ、「愛情」とか「忠誠心」、こういったものはお金で換算できないものです。けれども人々は、今、それをお金で換算しようとして、結果、愛とか忠誠心を破壊していると思います。ただ、お金はなければないで困るものですから、私たちにとって現実的なことですよね。今、この世の中は転換期に来ていると思います。つまり、第二次世界大戦後この2000年までの50年間に、大きなシフトが世界中でおきていると私は考えるんです。それは、ものの価値観についての考え方の変化なんですけれども、ものの価値観の換算の仕方が、全部お金で換算されるようになって、そこにはなんのスピリチュアルなものもなく、社会的なものも失われようとしている。そして、これは映画の中でも描かれていまして、ここに登場する人物は、みんなお金に困っている。そして悩んでいる。そういった部分でも、今の社会の問題がこの映画の中にも反映されています。




『宮廷料理人ヴァテール』は2000年11月4日よりBunkamuraル・シネマ1,2にて公開。