『永遠と一日』記者会見レポート

1999年1月27日(水) 帝国ホテル「鶴の間」にて


1月27日(水)帝国ホテル「鶴の間」にて、ギリシャ・フランス・イタリア合作『永
遠と一日』('98年カンヌ映画祭パルムドール受賞作)の公開に先立ち、テオ・アン
ゲロプロス監督の来日記者会見が行われた。会見には、ディレクター・オブ・プロダ
クション(現場制作)としてクレジットされ、アンゲロプロス夫人でもあるフィービ
ー・エコノモプロス氏も同席した。会見のほとんどは記者からの質疑応答に終始し、そ
の内容もまた、監督の作品を反映するかのように、映画から政治までと広い範囲に及ん
だ。

テオ・アンゲロプロス監督と夫人のフィービーさん
司会者 「それでは早速、質疑応答に入らせていただきます」 質問者 「作品の事に関した質問です。監督はギリシャのみならず、ヨーロッパ、あるいは世 界に起きている根本的な問題を大変美しい映像にいつもまとめられて、いつも作品を 作っていると思います。で、今回の作品でギリシャ系、アルバニア難民の少年と、病 気で老いた老人の作家を主人公にされたのはどういう意図からなのでしょうか。 それについてお伺いしたいと思います」 テオ・アンゲロプロス 「まず、主人公である作家の方からお話ししたいと思います。わたくしは、イタリア の有名な俳優、ジャン=マリア・ヴォロンテの最後の日々を一緒に過ごしました。 つまり、彼は死んだ時、わたくしの前回の作品『ユリシーズの瞳』の撮影に入ってい まして、最後の日々を私は一緒に撮ったのです。彼が死んでいるのを発見したのは私 でした。その時、本当に衝撃を受けたし驚きました。しかし、その衝撃や驚きを超え て、1つの疑問が私の心の中に浮かび上がりました。あと1日しか生きられないとした ら、その日なにをするかという疑問です。そうやって人生最後の日に人は、どのよう に歩くのか、どのようにコーヒーを飲むのか、どんなことが頭の中に浮かび上がって くるのか。たった1日の時間の中に過去、現在、未来が収縮したときにどのようなこ とが起きるのかと考えたのです。子供の存在の方ですが、これから始まる人生を画に しています。終わりゆく人生の傍らに始まっていく人生があります。私は《死》につ いての映画を作るつもりはありませんでした。生きること人生についての映画を作り たいと思ったんです。そして《死》は《生》の一部です。1つの段階にすぎません。 答えになっていましたでしょうか。今、ヨーロッパのいたる所の大都市で、このよう な子供たちを道で見かけます。それはアルバニアの難民の子供であったり、旧東欧諸 国、ソ連から来た子供であったり、あるいは、ヨーロッパからもっと遠くパキスタン やイラク、イランの難民の子供であったり、そしてこの映画のような子供の仕事をし ています。ストリート・チルドレンなんですけど、この映画の中に出てくる《クセニ ティス》という言葉がこの子供たちを定義しています。それは、どこにいてもよそ者 である亡命者ということです。亡命という言葉には2つの意味があります。内的な亡 命と外的な亡命です。作家の方は実際に他の国に亡命しているわけではありませんが、 実存的な意味での亡命者です。これはたとえば、カミュが『異邦人』の登場人物の中 で描いたような内的な亡命です。そして子供の方は実際に外国に難民としている外的 な亡命です。このように2人の亡命者が同じ都市の中で出会い、言葉を交します。そ して1つの人生が終わり、1つの人生が始まるのです」 司会者 「ありがとうございました。次の方」 質問者 「ただいまの質問のお答えとも絡むんですけど、今回の映画、私的で、しかもポエテ ィックで非常に素晴しく感銘を受けたんですが、いつもアンゲロプロスさんの作品は、 常にポエティックでありながら、バックには社会意識といいますか歴史意識があって、 それが非常にユニークなものを生みだしてると思うんです。それで、今回も見事な結 び付きで感銘を受けましたが、そのことに絡めまして、その社会意識と歴史意識とい う点で、今、亡命とか難民とか出ましたけれど、国境の問題が常に作品にある。我々 日本人は国境というのがどうもピンとこないんですが、まあ、監督の国では非常に 切実な問題だと思うんです。で、ちょっと話がそれるんですけど、ヨーロッパの統合、 EUというのが進んでますね。ヨーロッパが1つになろうとしている。そして、ユーロ 単一通貨が発足してる。ギリシャとイギリスは参加していませんよね。で、そういっ たこともあって、常にそういう国境の問題を絡ませてやってらっしゃるアンゲロプロ スさんに、ヨーロッパの問題、そういうことの、国境等の問題の考えをお聞かせ願え れば。近い将来などのヨーロッパなど」 テオ・アンゲロプロス 「これはとても大問題で、とても長い分析が必要になってきます。はたして、1本の 映画の記者会見の席で取り扱える問題かどうかわかりません。ご存じのように欧州問 題は大問題です。ご存じのように単一通貨ユーロが導入されました。しかしこれは経 済通貨統合ということであって、本当の欧州統合を意味していないんです。つまり、 政治統合なしには欧州は1つになることができません。すなわち、欧州連合が政策を1 つにし共通の理想を持った時、初めて欧州が統合したと言えると思います。欧州統合 は単なる通貨統合ではありません。通貨統合にとどまりません。現在、欧州の統一は 出来つつありますし、全ての者が本当の意味で欧州が統合されることを望んでいます。 しかし、今のところまだ通貨統合の段階に留まっています。欧州が統合されつつあっ ても、実際は国境は増えつつあります。様々な紛争、バルカン半島の紛争のみならず、 その他の国の歴史を見ても、紛争の根源にはかならず国境問題がありました。 つまり、国境を越えて欧州全体を統合するということはまだ成されていない。解決 策を見つけていない。見い出していないということです。ますます各国、各地の民族 主義が台頭してきています」 質問者(フランス映画社代表、柴田氏) 「今回の映画は、いつもアンゲロプロス監督の映画は日本でやらしていただいてます から拝見してる次第でありますが、1本の作品を20回観るというのは、まあ当り前の ことなんですが、今までとのすごい違いは、観てる間中、すごい感動してしまいまし て、それを人に伝える時にこんなに難しかったのは初めてなんですね。そういったこ とが日本だけのことなのか。聞いてみたいと思うのですがよろしいでしょうか」 テオ・アンゲロプロス 「(ため息)」 場内笑い テオ・アンゲロプロス 「今のは批評でもなく、批判でもなかったわけですね。感動してくれたことを嬉しく 思います。また、私自身も撮影しながら感動を覚えていました。私にとってもこの映 画を作ることは難しいことでした。というのは、普段私が取り扱ってる領域以外で映 画を作るというのは初めてで、つまり、今回、わたくしは、私自身の中に入りこんで 初めて映画を撮りました。自分自身の実存的な問題の中に入り、そして全般的な人間 の条件について扱ったと言ってもいいでしょう。映画は人類に誕生して以来、全て人 間に関わる問題を取り扱ってきました。生と死、そして時間の経過、愛、老い、若さ、 孤独、そして亡命です」 司会者 「よろしいですか? それでは次の方」 質問者 「映画に関して、なおかつ先ほどの質問にも関わるんですが、この映画自体が EURIMAGESというヨーロッパの映画基金の援助を受けて作られていて、クレジットに はECも入っていて、映画の内容自体がギリシャ語で撮影されたギリシャ人の監督の 個人的な映画であると同時に、ヨーロッパにおける国際スターであるブルーノ・ガ ンツが主演でヨーロッパ的な広がりをもった製作規模で、実際、ギリシャ、イタリ ア、フランス合作になっているわけですが、そのギリシャであるということの意味 性と、ヨーロッパ性についての問題と、映画自体についてどうなんでしょうか」 テオ・アンゲロプロス 「私の映画は完全にギリシャ映画であり、ギリシャ語を語り、ギリシャ語で撮影し、 撮影もギリシャで行われたギリシャ映画です。そして外人を使うのはなぜかとい うことになりますが、1人1人について説明したいと思います。まず、ブルーノ・ガ ンツですが、彼は私自身、以前から俳優としてとても好きで、起用したいと考えてい ました。彼がスイス系のドイツ人であるというのはここでは関わりないのです。 かつて、私はマストロヤンニを使って映画を作っています。そして『ユリシーズの 瞳』ではアメリカの俳優を主役に起用しました。私にとっては良い俳優と悪い俳優 が存在するだけで、良い俳優と仕事をしたいと思っています。官能の世界でリビドー が存在するのであれば、映画的リビドーも存在するのです。私にとっての映画的リ ビドーとは、私に夢を見させてくれるような俳優を使って映画を作りたいというこ とです。フランスの女優ですけど、フランスの女優を選んだのは、私の妻に似てる からだと思っております。(会場笑い)」 司会者 「よろしいですか。それでは次の質問どうぞ」 質問者 「『こうのとり、たちずさんで』『ユリシーズの瞳』それから今回の映像を拝見して、 先の質問にもあったんですが、国境の問題をもう1度お伺いしたいのですが。これは たとえば、映像のテーマとして追及して今回その深まりがご本人として、お気に入り のシーンであったり、テーマの深まりがあったりするのか。それから象徴としての国 境の理念が少しずつ変わりつつあるのかという点を、簡単に答えられるものではない と思いますがコメントをお願いいたします」 テオ・アンゲロプロス 「国境の問題といっても、国境には様々な国境があります。地理的な国境、心理的な 国境、そしてメタファー、人間としての国境です。しかし、それら全ての国境は限界 を意味しています。この映画で国境、境界の問題が出てくるとするならば、それは生 と死を分かつ国境の問題です。これは限界でもありますが、地理的な境界でも、人間 としてのメタファーとしての境界でもありません。すなわち、生と死の間にある限界 の問題です。そういった意味でこの映画は国境についての映画ではありますが、『こ うのとり、たちずさんで』とは違います。『こうのとり〜』の場合の国境は、地理的 な国境と人間としてのメタファーの国境でした。私の最近の3作を考えますと、確か にこの3作は、国境の問題を扱っています。そして問題になっているのは、この国境、 境界を超克する、越えていくということです。橋を架けて国境を越えていくのです。 『こうのとり〜』のラストシーンがたとえばそうでした。それは若い人々が、昇って いって電信柱を集めます。そして、彼方とのコミュニケーションを図ります。そして 『ユリシーズの瞳』では、詩人である主人公ハーベイ・カイテルが越えること超克に ついての対話をします。今回の『永遠と一日』では、主人公が海に向かって3つの言 葉を投げつけます。 「コルフラ」私の花、「クセニティス」亡命者、そして「アルバギーニ」とても遅く、 これを海に向かって投げます。この3つの言葉が1つの橋になって、限界、境界を越 えることができるということです。彼が病院に行かないといった時から、言葉が彼と 彼方を繋ぐ橋となって働いてくれるのです。それから、もう1つのテーマについて話 しておこうと思います。この映画のはじめに子供たちが時間について話します。1人の 子供が「時間がない」「時間とはなにか」という質問をします。そして時間について の話が始まるのですが、時間とはお爺さんの話によれば、砂浜でお手玉遊びをする子 供、それが時間だ、時だと答えます。これはヘラクレイトスが時間についておこなっ た定義です。そしてこの映画の最後に、これは、はっきりとは言われてなくて、暗示 されているだけですけれど、もう1つの古代ギリシャの哲学者の時間の定義でこの映画 は終わっています。それは時間は存在しないということ。この映画のラストのカット では3つの時間が同時に存在しています。この3つの次元、過去、現在、未来というのは、 西洋哲学の中にある分類です。この3つの過去、現在、未来はこのカットの中に同時 に存在しているのです。主人公である彼は現在にいながら過去を生き、そして未来へ と呼びかけをしているのです。同じ平面で彼はこの3つの時間を生きているわけです。 すなわち、この3つの次元は別々のものとして本当は存在していないのです。現在の みが存在しているのです」 質問者 「同じカットのことなのですみませんが、同じ、ワンカット、ワンショットの中には、 今おしゃったことはエッセンスでしょうけど、その前に妻のアンナが出てきてますよ ね。それでアンナは消えていくんですけれども、そこには幻想のアンナも実際生きた 姿で出てきているのでしょうか」 テオ・アンゲロプロス 「アンナは他の所にも出てきています。確かにアンナは過去からの呼びかけであって、 過去の呼びかけによって現在に存在しているのです。彼の方は現在に存在しています。 そして未来へ呼びかけます。そうすることによって、未来が現在になるというわけで す。あの、アジア、仏教の考え方だと聞いたことがありますが、アジアでは違った時 間の概念があると聞いたことがあります。過去、現在、未来という3分類の時間は存 在せず、全てが現在である。現在しか存在しないという話を聞いたことがありますが、 それは間違いでしょうか」 質問者 「ありがとうございます」 司会者 「次の方」 質問者 「プロデューサーのフィービーさんにお伺いしたいんですけれど。今回のアンゲロプ ロス監督のテーマを最初に聞かれてどのように思ったか。また、先ほどの女優さんの 起用についてはご存じだったのか。映画人アンゲロプロスの魅力はどういったところ にあるのか。よろしくお願いします」 テオ・アンゲロプロス 「デリケートな問題なので、私の方から彼女に代わってお答えしたいと思います。と いうのは、彼女は単なるプロデューサーではなく私の妻だからです。この映画に彼女 は反対していました。私がこの映画を作ってはいけないと言っていました。恐れてい たんだと思います。確かに、一時この映画と私があまりに近く同じものになっていま したので、周りの人々や妻が、私自身が映画を生きている、私自身がこの映画のよう な人生最後の日々を生きている印象をもったのです。そうしたわけで、撮影は2回に 分けて行われました。最初撮影を2週間行って、中断されました。私自身も怖かった のです。そして、中断して数ヵ月して、それから再開しました。この映画を映画とし て見る、テーマとして見るだけの距離をとれるようになってから再開したのです。映 画を生きるのではなくて、映画を芸術的に消化できるようになるまで待ったんです」 質問者 「せめてアンゲロプロス監督の魅力についてはフィービーさんにお伺いしたいんです けれど」 フィービー・エコノモプロス 「私はアンゲロプロスのプロデューサーの仕事をする前に、すでにこの仕事をしてい ました。つまり、すでに映画の職業についていたということです。実は『アレクサン ダー大王』の頃から彼と一緒に仕事をするようになりました。とても彼に対して敬愛 の念を抱いていましたし、そしてとてもユニークな作品を作るということもわかって いました。私にとって『アレクサンダー大王』はとても重要な作品でした。これほど ギリシャの歴史、それから世界の歴史を濃密に扱える監督に出会えたということをと ても幸福に思います。これが私の最初の感想です。そして彼の映画のプロデュースを するようになり、彼と一緒に仕事をするようになり、そして2人で一緒に子供を作り ました。私が彼の中でいつも尊敬しているのは、日常のほのぼのとした問題を、永遠 の普遍性たる問題に変えていく能力。また、その逆が出来るという能力。それでアン ゲロプロスと生きることを確信しました。ですから、私は彼のことを1人の映画監督 ではなく、クリエイターである、行動するクリエイターであると考えています。 プロデューサーとしては、アンゲロプロスは一番やりにくい監督だと思います。そし て、これほど困難を投げかける監督は他にいないだろうと想像しているのですが、プ ロデューサーとしてやりがいのある価値のある監督です。クリエイターと一緒に暮ら すことが難しいということがおわかりいただけるでしょうか。お答えになってるかど うか。私は彼を敬愛しています。そして彼の傍らにいつもいようと努力しています。 もう一つ言わせてください。この『永遠と一日』でアンゲロプロスはアンゲロプロス 自身を超えたと私は考えています。彼の最高の作品だと思ってます。これほど美しく 愛や生、そして人間の実存、個人的な愛についてこれまで取り上げた作品はなかった と思うのです。永遠に残るようなポエム、詩を作ったと思っております」 司会者 「時間がありませんので、それでは次の質問を」 質問者 「監督がこれまでお撮りになってきた映画の舞台、そこで今、虐殺がある。監督の心 の中では不安なものがあると思うんですね。その辺をお聞かせ願いたいんですけれど」 テオ・アンゲロプロス 「私は先ほど、なされつつある欧州統合と、増えていく国境の話をしました。今の質 問はそのことにも関係があると思います。ご存じのようにいろいろな国で、様々な国 境の問題が起こっています。当然、ギリシャはバルカン半島に位置していますから、 現在紛争が起きてるところに近い所にあるわけです。もしも、紛争が最悪の結果にな り、戦争が勃発したならば、ギリシャは最初に直接の被害を受ける国になるでしょう。 私個人的にも、ギリシャの人々も個人個人、当事者として感じております。私の国、 ギリシャではこういった問題について適切な正しい立場をとりました。すなわち、こ の問題解決には武力を使うべきではなく、政治的解決策を取るべきだということです。 戦争は次の戦争を呼び、憎悪はまた次の憎悪を呼びます。血が血を呼ぶのです」 司会者 「それでは、最後の方」 質問者 「この映画で少年の笑顔が素晴しくて、この映画に希望のようなものを与えていると 思うのですが、最初にみせる笑顔も素晴しかった。あれはどのように演出なさったの か。それから2つ目の質問ですが、私、イタリアの『情事』という映画で、サンドラ という男性が島で行方不明になったアンナという女性を探している場面があるんです けれど、『永遠と一日』の中にそれを思わせるシーンがあるのは、アントニオーニ監 督、トニーノ・グエッラ(イタリアの脚本家)に対するオマージュなのか、それとも 何か『情事』に対する答えだったのでしょうか」 テオ・アンゲロプロス 「私はアントニオーニともトニーノ・グエッラとも親しくしていますけれど、オマー ジュを捧げるという気持ちはありませんでした。オマージュを捧げたとすれば、それ は『こうのとり、たちずさんで』の中で、アントニオーニ監督に非常にハッキリとし たオマージュを行っています。ジャンヌ・モローとマストロヤンニが30年ぶりに再び 出会うシーンでそしてジャンヌ・モローが、彼ではないというんです。これはアント ニオーニの『夜、ラノッテ』に対するオマージュです。『こうのとり、たちずさんで』 を上映した時、すでにアントニオーニ監督は病気でしたが、来てくださって、そして このシーンが始まった時、彼は涙を流し始めました。あの最後に付け加えたいんです けれど、『永遠と一日』の幾つかのテーマのなかで1つ言わなかったこと、忘れていた ことがあります。それはブルーノ・ガンツが母親にモノローグを語るところです。母 親に対して、なぜ私たちは愛することが学べなかったのか、愛することが出来なかっ たのかと。どのように愛せばいいか。どうしてわからなかったのかということです。 つまりは不在です。実際に私の娘がある夜泣き出してこう言いました。パパはいつも いない。そして家にいるときもパパは不在である。私たちのことを考えてくれていな い。ここには本当にはいないと言って泣いたのです。この映画のもう1つのテーマは 不在なんです。今は不在ではなく、ここに来てくださいましてありがとうございま した」 場内笑い。 司会者 「ありがとうございました」 拍手。 『永遠と一日』は3月下旬よりシャンテ・シネ2にてロードショー 提供=株式会社フランス映画社、日本ビクター株式会社/配給=フランス映画社