『独立少年合唱団』アルフレート・パウアー賞受賞 凱旋記者会見
 2000年3月2日(木)ヤマハホールにて
●出席者<敬称略>:仙頭武則(プロデューサー)、緒方明(監督)、伊藤淳史(柳田道夫役)、藤間宇宙(伊藤康夫役)、香川照之(清野省三役)、青木研次(原作・脚本)
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【挨拶および質疑応答】

■緒方(監督): 40才の新人監督の緒方です。賞をもらったわけですけれども、正直言って嬉しさ4割、大変なものをもらっちゃったなぁという恐れの方がまだ大きいです。これから先、また映画から逃れられなくなってしまったなぁという思いと、肩にずっしりのしかかる気持ちと同時に、一緒にやってきてくれたスタッフとキャストに顔が立てられたかなぁという半々の気持ちです。

■青木(原作・脚本): ドイツでも言ったんですが、日本語で書いたので伝わるのかなぁと心配だったのですが、賞をもらったということで、伝わったんだなぁということがとても嬉しかったです。5年ぐらいこの映画が完成するまでかかっていて、それでこういう結果になったということは嬉しいです。

●司会者: ベルリンでの反応は日本とは違ったんでしょうか? どのようなものだったのでしょう。出演者の皆様にお伺いさせていただきます。

■香川: 僕は、ベルリンでは1度しか試写は観れなかったんですが、その間中、全く日本とは違った反応をベルリンの方がなさるので、戸惑ったと言えば戸惑いました。一番印象に残っているのは、映画が終わった後に、僕らがこうして壇上で挨拶をして、後にスタッフの人から聞いた話では、何人かの人が鼻歌で歌っていたということを聞いた時に、この映画の効果はあったんだなという印象を受けました。


■伊藤: 僕は、この映画祭として、海外に行くのも初めてだったんですけれども、正直いってお客さんの反応とかも、ましてやマスコミの反応とかもわからなくて行って、みんなに歓迎されてブラボーとか言われちゃって、すごくいい気分でした。初めてで、こんな素晴らしい思いを出来て嬉しいです。

■藤間: 日本で試写を観た時とベルリンで試写を観た時と、お客さんの反応が全然違くて、笑うところとかが全然違かったんでビックリしました。あと、拍手が鳴りやまなくて気持ち良かったです。

●司会者: 撮影期間は8ケ月ぐらいかかったと伺っているのですが、合唱の練習などもありましたよね。撮影期間のエピソードや、印象に残っていることをお聞かせください。

■香川: この映画の中で、役者が一番苦労したことは歌だったので、生徒たちの方は、3ケ月ぐらいかな、週に3回ぐらい集まって毎日歌を歌うんですけれども、実際にこの映画の中では、北部地区第3位に入ったというのがあるのですが、入れるぐらい頑張って練習したなという自負はあるし、僕自身も、3歳の頃に1度だけやらされたピアノを30年ぶりぐらいに2ケ月ぐらいやってみたりなんかして、映ってみたら僅か1秒だったという……(会場笑い)。そんなこともありましたけれども、見えない努力が結実したのかなと思い嬉しく思っております。

●司会者: 伊藤さん、何が一番大変でした?

■伊藤: 確かに、合唱も大変でしたけれども、本当に、水の中に入るところとか、泳げなかったりで、すごい苦労したし、寒かったっていうのもあるけれど、合唱がひとつになったときは本当にいいなと思いました。

●司会者: あの水は本当に冷たかったんですね。

■伊藤: 芝居以上に寒さを実感して大変でした。


●司会者: 藤間さんは何が印象に残ってらっしゃいますか?

■藤間: 撮影も大変だったんですけれども、一番大変だったのは、泊まるところが学校だったんで何もなくて、真夏だったんで、扇風機一台をみんなで囲んで体育館で寝泊まりしたのが一番大変でした。

●司会者: 長い修学旅行みたいな感じですね。

■藤間: そうです。

●司会者: 撮影を終えられても、みなさんと交流が続いたりしているんですか?

■藤間: はい。


●司会者: 仙頭プロデューサー、1997年の『萌の朱雀』でのカンヌ映画祭のカメラドール、それに続いては、『豚の報い』でロカルノでのシネクラブ連盟賞、そして、『M/OTHER』でのカンヌ映画祭国際批評家連盟賞、『タイムレスメロディ』のプサン国際映画祭グランプリと、プロデュースする作品は海外で立て続けで評価を得てきているのですが、仙頭さんにとって、映画にチャレンジする意味、その具体的効果についてお聞かせ願えますか?

■仙頭: 我々が目指しているのは、日本映画を輸出産業にしようということがありまして、そのために海外の映画祭に出品するというのは、市場拡大ですね。今回の作品も海外ですでに公開も決まってますから、1人でも多くの、世界中の人たちに観てもらうための手段である。目的ではないということです。これが、普段一番考えていることです。効果としては、あらゆる国の多くの人たちに観てもらおうということです。賞をとることでそれも拡大できるわけです。

●司会者: 映画の中では、キーになる言葉として「あれ、なんだっけ」っていう言葉がありましたよね。皆さまにとっての「あれ、なんだっけ」ということをおひとりずつお聞かせください。

■仙頭: ベルリン映画祭でですね、トイレがドイツ人用に出来ていまして、僕の身長だと届かないんですよ。ドイツ人に、なんとなく身振り手振りでいったら、子供用のヤツを指さされて、その時はなんのことなのかわからなかったんで、「あれ、なんだっけ」ってことで。

■緒方: 映画を撮っていた時に、僕はいつもそうなんですが、映画の撮影の時、楽しいと思った時って1度もないんですよ。しんどいです。こっちもギリギリまでやってますし、彼ら(役者)もギリギリまで追いつめていますし……。で、映画の撮影は楽しくないんだけれども、映画の現場へ行って、何かの時に、ゾクゾクってエクスタシーが走るんですよ。それはたとえば、風が吹いたりということもあるし、空が晴れたでもいいし、伊藤がいい芝居をしたということもあるけど、それは何なんだろうなということを確かめたくて、これからも映画を作っていくんだと思います。

■伊藤: 映画って何なんだろうなっていうのがありますね。まだ高校1年生で、わからないことばっかだけど、これからもっともっと映画に出れたらいいなと思う。やはり、映画は難しいですね。

■藤間: 僕は、15年間しか生きてないのでまだわからないんですけど、やはり、テストの時とかに「あれ、なんだっけ」っていうのがあります。


■香川: 「あれ、なんだっけ」っていうのは、僕の場合は、映画を頑張っていくことだと思うんですけれども、少なくとも、今日こんなに大きな会を開いていただいたことを、それで賞をとったということが「あれは、何だったんだろう」ってことに何年か後にならないように頑張っていきたいと思います。

■青木: 知り合いのお父さんが、死ぬ前に鍋を食いたいって言ってですね、どんな鍋ですかって聞いたら、あれは何なんだろう、魚の入った鍋で、秋田の人なので、たぶん秋田の鍋を食べて死にたいということで、魚はたぶんハタハタだったのではというエピソードがあって……僕は知っていたのですが……。「あれ、なんだっけ」ってのは、要するに、ラストシーンの方で、康夫君が道夫君にいろんな思いやりを持って死んでいくのですが、父親が、息子にひとつのテーマを残して死んでいったというように僕は書いていますけれど、そういう感じです。

●司会者: ここで会場の皆さまからのご質問をお願いします。


◆質問: 緒方監督と、原作・脚本の青木さんにご質問をしたいのですが、この作品の時代背景を1970年代に設定された理由というのは、なぜだったのでしょうか。

■緒方: プロフィールが手元にいってるかと思うのですが、僕は30代の頃、テレビドキュメンタリーをやってまして、それで青木と一緒にやってまして、『驚きももの木20世紀』というもので、ご存じだと思いますが、それは、20世紀に起こった様々な事件、出来事、人物を検証していくVTRと、スタジオというような番組なんですけれども、その中で、たとえば、エルビス・プレスリーですとか、マリリン・モンローをやったり、あるいは、青木さんは浅間山荘の事件を取材したり、いろんな事件などを取材するだけでは飽き足らなくなったというのが本音です。自分の側から物語を作って、何を発信できるんだと考えた時に、やはり、子供の頃、1970年代に、僕らは時代の最先端にもいないで、もちろん、僕は合唱部もやっていませんでしたけれども、ただ、時代の後ろ側で、たとえば、三島由紀夫の事件ですとか、浅間山荘の事件とか見続けてきたというのが、今の自分の中に影響を与えてきたと思うんですよ。よく、影響を受けた映画はと聞かれるんですけれども、映画はもちろん大好きでたくさん観ていましたけれども、映画そのものよりも、1970年代そのものの映像というか、それこそ、よど号のハイジャックですとか、影響を受けて今の自分があると思いますので、まず、自分の知っていることから描きたいと思って、その頃の少年の気持ちを表現できないかと思い1970年代を設定しました。

■青木: この映画を5年前ぐらいから考えはじめて、高校生の自殺がやたら多くなった時だったんですよ。自我みたいなものに苦しむ若者が、1980年代、1990年代はすごく多くて、そういう個人的なテーマがあったんですけれども、映画自身が閉じちゃうんで、そういうものが始まるのはいつ頃だったのかなぁと考えて、わりと1960年代、1970年代は、若い人と社会が関わるという……。僕らは、そういう理想みたいなことを考えることを止めたところから、僕ら、1970年代、1980年代と過ごしてきたので、最初に映画にするのならば、そのあたりから歴史みたいなものを円形として置いておこうということを考えました。


◆質問: 青木さんにお伺いしたいのですが、映画にハズシと省略が多いように見受けられたのですが、これはシネリオ段階からあったのでしょうか。それとも、緒方さんの演出によってそうなったのか。それと、緒方監督になんですが、北野武さんのハズシの影響というのはありますでしょうか。

■青木: 脚本の段階からわりと省略しています。

◆質問: ということは、シナリオに忠実だったと解釈していいのでしょうか?

■緒方: 僕は、忠実に書いてあることをそのまま撮っただけです。えー、北野さんの影響というのは、やはりあると思います。でもそれは、北野さんというよりも、1990年代においてのハリウッド映画が見せすぎているというのは、自分の中で不満に思っていて、カメラは動くは、切り返しで全方向から撮っておいて、行きたいところに行くという不満はずっとありまして……。たとえば、ホウ・シャオシェンの映画ですとか、エドワード・ヤンの映画というのは、対象を見続けることで何かが生まれてくるという、そのことに挑戦したつもりです。で、武さんは、そういうのでもないような気がするのですが、僕は、ハズシということよりも、ひとつのことが起こっている裏というのを、全部描くことが嫌だったというのがありますね。それで、今、ハズシとおっしゃいましたけれども、そう感じられたのではないでしょうか。わりと、見続けることによって彼らの思いを表現できないか、時代を表現できないかと思いました。

◆質問: 私、群馬県の新聞社の者なんですけれども、今回、撮影場所を群馬に設定された理由と印象をお聞かせ願えればと思うのですが。

■緒方: 脚本の設定ですと、北の町ということですので、まあ、青木さん自身が北の出身ということでしょうが、彼の中では、北海道とか青森とかいろいろイメージがあったのでしょうけれども、それで、製作的な事情で群馬になったということもあるんですが、ただ、群馬というのは、懐が深い県でして、1つは、小栗康平監督が『眠る男』というのを群馬で撮影して、その時、町の協力体制がすごく整っているということや、その後、篠原監督が『月とキャベツ』をとったりしてますけれども、非常に我々、映画クルーを暖かい目で歓迎してくれたので、それはすごく感謝しております。それともう1つは、群馬って広いですから……なんと言うか……明らかに絵はがきのような風景はキライたかった(避けたかった)ので、たとえば、青森とか北海道だと画になりすぎるんですよね。群馬っていろんな面が見えるし、ある意味1970年代みたいなところも残しているので、ある種、(側面性の?)北の町というのが表現できたかなと思います。あまりにも綺麗すぎないし、東京のように猥雑ではないという。そのへんが、ベルリンでも好評でした。これはどこの町なんだいというようなことを何度か聞かれました。だから、群馬へ、本当にありがとうございました。皆さまにお伝えください。大好きです群馬。

◆質問: 思春期のこういう少年たちを描いた理由とですね、今後の映画作りについてこだわっていきたいということがありましたなら。監督へ。

■緒方: 自分が、映像、映画を目指したのは高校とかなんですよね。その時に、映像や人間関係までもほぼ決まっていると思いますんで、そこを避けて通れなかったというのが最初の答えです。40でデビューしましたけれども、まず、そこをやらないことには、先には進めないだろうということで、これを撮りました。今後ですけれども、今、日本映画でまわりを見回した時に、すごい監督なり、作家の心情吐露みたいな映画がすごい多いので、僕は、やはりそういうことではなくて、歴史と個であったり、国家と個であったり、強い映画を作っていきたいです。本人の癒しのために撮る映画はキライです。あくまでも人にむけて、日本人とはなんなのか、歴史とはなんなのか、そういう事で闘っていきたいと思っております。


『独立少年合唱団』は2000年10月28日お台場シネマメディアージュにて公開。