『カポーティ』ベネット・ミラー監督来日記者会見
●2006年8月23日ホテル西洋銀座にて
●出席者:ベネット・ミラー監督、田中康夫(長野県知事)、浅田彰(京都大学助教授)
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【挨拶】

■ベネット・ミラー監督:英語のできる方もいらっしゃると思いますが ……。日本にまた戻ってこられて大変嬉しく思います。大勢のみなさんにお越しいただきまして、それだけ、この映画に関心があるというふうに受け止めても良いのかなと思いまして、みなさまの質問をとても楽しみにしております。


【質疑応答】

●司会者:今、なぜ、この時代にトルーマン・カポーティを題材にして映画を撮ろうと思ったのでしょうか。

■(ベネット・ミラー監督):2つ理由があるんですね。脚本を読みました時に、2つ感じたことがありまして……1つ目は、この脚本というのが、トルーマン・カポーティの物語ではなくて、いわゆるクラシックな悲劇であると思ったのです。ある意味、アメリカの悲劇でもある。この人物のことだけではなくて、彼らがいかに破滅に陥っていくかという、アメリカ的な悲劇だったと思うのですね。自分の野心のために、そこに到達するためには、ほとんどが麻痺してきて、自分がどういう結果を招くかということとか、自分が破滅に陥っていくということにさえ気が付かない、そういうことが個人にも起こりますし、企業にも起こりますし、また、国にも起こることだと思いました。だからこそ、今、現在にも通じる問題だと思うのです。

2つ目は、文化的な背景 ─ 文化的なことなのですが、文化というものにはサイクルがありまして、私としては、今の現状を知るためにも、歴史上のサイクルがどこから始まったのかということを知る必要があると思いました。このクラッターという家族が殺されたということで、トルーマン・カポーティは、イノセンスの喪失というものを描きたいと思い、カンザスに行くわけなのですが、このカンザスのホルカムという小さな町ではこういうことが一度も起こったことがない。この事件によって、この町にはいろいろな影響が出てくるのです。ちょうどそれは、9.11 ─ 事件に影響された我々の生活や、その、1日にしてすべてが変わってしまったということに、非常に通じるものがあると思うのです。これはまさに、イノセンスの喪失であり、純潔の喪失であり……。ちょうどその事件の後、その数年後にケネディ暗殺という事件が起こります。ですから、この家族、町に起こった純潔の喪失というものが、数年後に、国自体の純潔を失うという事態として起こるわけです。

それから、もう1つだけ付け加えたいのは、この事件、そしてトルーマン・カポーティが行ったことというのは、文化的にみると、彼が初めて行ったことで、カンザスに行って、本当に個人の生活に入っていき、彼らをスキャンダラスに描く……この物語を小説にするわけなのですが、ある意味では、2人の殺人者が有名になってしまう。もちろん、トルーマン・カポーティ自身もこの本によって名声を得るわけなのですが、小説を娯楽として発表するわけなのですね。今テレビを見ますと、毎日毎日ワイドショーではそういう事件というものを、ある意味では娯楽化している。そういうふうにスキャンダラスに見せる、そういうことを初めて行ったのがトルーマン・カポーティだと思います。


◆質問:この映画は、脚本のダン・ファターマンと主演のフィリップ・シーモア・ホフマンがいないと成立しない映画だと思うのですが、お3方はハイスクール時代、サマースクールで出会われたとのことですが、興味があるのは3人の出会いについてです。その頃、映画のことなどについて語ったりといったような思い出などがありましたらお願いします。もう1つは、トルーマン・カポーティが、『冷血』以後、長編小説を完成できなくなるわけですが、その要因は何だと思われますか。

■(ベネット・ミラー監督):脚本家のダン・ファターマンとは、12歳の時からの友人です。一方、フィリップ・シーモア・ホフマンとは16歳からの友人なんです。3人ともまだ子供だったので、あまり深いことなど話し合ったことはないんですね。将来的にこういうことをしたいとか、理想などは話し合ったかもしれないのですが、子供ですから、深いディスカッションはなかったと思います。ただし、我々3人がずっと友情を育てて、今でも友人であるということは、やはり偶然というよりも、運命的なものだと感じています。それから、カポーティが「冷血」の後に小説を完成させることができなかったのは、それはまさに、この映画で描いていることだと思うのです。彼はこの「冷血」を書くことによって、自分自身を破滅させていった。自分自身を破壊させていった。もちろん、小説を完成させたいという気持ちは、彼の中に非常にあったと思うのですが、「叶えられた祈り」、これは、彼が必死に完成させようとしていたのですが、やはり、「冷血」を書くという作業の中で自分を破滅に導いてしまったと思います。

◆質問:今回の映像と音楽から、カポーティの、作家として、あるいは人間としての深い悲しみ、孤独を非常に感じる映画だったと思います。監督にとって、作家、人間としてトルーマン・カポーティという存在は、どのようなものだったのでしょうか。

■(ベネット・ミラー監督):今、言っていただいたこと、そういったことに気付いていただけるのは大変嬉しく思います。やはり、かなり公の人間になっていた人についての、かなりプライベートなストーリーなのです。彼は、芸術界で非常に有名になった、もしかするとアメリカでもっとも名声を得た、または有名だった作家かもしれません。本当にカリスマ性もありましたし、目立つ存在だったんですね。彼の、みなさんも誰も知らない一面というものを、今回の映画の中では描きたかったのです。ですから、この映画の冒頭では、我々がよく知っている彼の姿、要するに、パーティでの中心的な人物としての彼の、段々映画が進んでいく中で、その仮面(がはがされていく)といいますか、公の場での彼の奥に潜んでいるプライベートな面を見せていくのですが、音楽もビジュアルも編集も、そういう効果をあげていると思いますし、デザインもそうです。見ている人たちのセンスを研ぎすませていくような作業で、セリフの裏に隠されている、表面には現れていない部分に気付いて欲しいという、そういうアプローチの仕方をとっております。大体、今日、ハリウッドで作られる映画とは真逆のものであり、 ─ 実は、私たちが編集していた時、その隣の編集室では、ほとんど1.1秒にワンカットというような、ものすごく早いペースの編集のものが作られていましたけれども ─ この映画は逆で、なるべくみなさんに、注意深く、精神を研ぎすませて、非常に微妙なところにも気付いて欲しいという編集の仕方をとっておりました。

◆質問:主演のフィリップ・シーモア・ホフマンがこの映画でアカデミー主演男優賞を獲得しましたが、本当に素晴らしい演技だったと思います。以前からの友人としてでも構わないのですが、彼のアクターとしてのどのような部分に特に惹かれて彼に演じて欲しいと思われたのでしょうか。また、役作りに関して、監督から彼にアドバイスをされたようなことがありましたら教えていただければと思います。

■(ベネット・ミラー監督):フィリップ・シーモア・ホフマンはものすごく繊細な人間です。そして、カポーティを演じるに相応しい、すべてを一番よく理解している俳優です。私は彼を個人的によく知っていたので、この役を演じられるということはわかっていましたが、今までの演技だけを見ていますと、判断できない部分もあったかもしれません。フィリップ・シーモア・ホフマンは、「冷血」を書く直前のカポーティの状態と非常によく似ていました。要するに、俳優としてはとても尊敬されていましたし、良い仕事をしてきています。カポーティもそのような状況だったのですが、決定的なものは生み出していない。カポーティもそうであって、状況的にも非常に似ていたと思うのですね。ただ、外見上のことだけを言いますと、フィリップの方が太っていすぎるし、声は4オクターブぐらい低すぎるし、いろいろ相応しくない部分もあるのですが、そういうところは、俳優として克服できると思いました。ただし、撮影が半分進んだところで、フィリップはほとんどノイローゼのようになった時期がありました。自分は本当に最後までやり遂げることができるのか、非常に悩んだようです。ただし、他のどの俳優よりも、いろいろな意味で彼がカポーティに相応しいと私はずっと思っていました。それからもう一言加えますと、フィリップ・シーモア・ホフマンは、内側から役を作る俳優です。よく、声とか歩き方ですとか、外側から作っていくという方法もありますが、フィリップは、本当に中から、核の部分からスタートして外へ出していくという俳優です。

<ゲスト(田中康夫、浅田彰両氏)登場。>

●司会者:浅田さん、カポーティをご覧になっていかがでしたでしょうか。

■(浅田彰):一般的なことしか言えないので……今のインタビューでも出ていたかもしれませんが、まず、作家の生涯を映画にするというのは、ある意味でとても無謀なことで、それに成功したこの映画は、傑作であるというふうに思っています。もちろん、トルーマン・カポーティ自身を演じているフィリップ・シーモア・ホフマンの演技は見事なもので、それでアカデミー賞を取ったのは当然なことだと思いますね。みなさんご存知の通り、『M:i:3』を見ますと、フィリップ・シーモア・ホフマンの演じている悪役というのは、すごく大きくて、なんかもう恐ろしげに見えるわけですが、それをやった人がですね、カポーティという、どちらかというと小男で、女性的な感じのする人を見事に演じている。これは単に外見的な類似だけではなくて、本質的な類似というのでしょうか、そういうところまでに至った演技というふうに見ました。

カポーティ自身には僕は会えたことはなくて、ビデオやなんかで喋っているところを見ただけですけれども、とにかく、かん高い不思議なイントネーションで喋る。それも本当に見事に演じていたと思いますね。そういうことで言うと、『冷血』で一緒に取材するネル・ハーパー・リーをキャサリン・キーナ−が演じていて、キャサリン・キーナーの声も一度聞いたら忘れないという、ちょっと女っぽいカポーティの声と、ちょっと男性的なキャサリン・キーナーの声の絡みがまた非常に良くて。そういうわけで、映像の面でも音の面でも、すべてのキャスティング、すべての演技がすべてはまっていて、それを、どちらかというと控えめな、しかし、すべてのディテールをおろそかにしない撮影、編集というものがですね、非常にクールなフレームの中におさめられている。どちらかというと、カポーティという人は、ブリリアントな、爆発するような人物だったわけですが、そうであるからこそ、それを非常にクールな控えめなるフレームの中で見事に表現している。これがとてもうまく当たったというふうに言えるのではないかと思います。

いずれにしても、あまり長く喋ることはないのですけれども、まあ、作家の映画というですね、作家なら本を読めばいいじゃないかというところを、作家の映画を観ることで、その作家を再確認するきっかけになるということで、これはとてもいい映画だと僕は思います。あと1つだけ言いますと、さっき監督と喋っていたんですが、カポーティというふうなものは、日本でもちろん読まれていますけれども、いわゆるハイソサエティというか 一 ゲイ、サブカルチャー 一 社会的なコンテクストが、翻訳の過程で起こっちゃう。日本ではあんまりですね、文脈も含めて理解されなかったと思うのですね。むしろこの映画を観ることで、カポーティというのは、どういう文脈の中で、どんなふうに生き戦ってきたかということがわかった時に、もう一回、我々がカポーティの本を読むきっかけになるのではないか。もちろん、我々はカポーティを知っていたわけですが、もう一回、そのカポーティを再発見する。彼の生きたコンテクストの中で再発見する、非常にいい機会になるのではないかと思います。

で、ちょっと付け加えますと、そのカポーティと、いわゆるゲイ文化の二代巨頭で、カポーティの論争上の大敵であった人にゴア・ディナルという人がいるわけですね。ゴア・ディナルというのはケネディ家の遠縁で、今でいうところのアル・ゴアの遠縁で選挙に出ていたりもして、さっき喋っていて、田中康夫という人はカポーティにも似ているが、あらゆるところで顰蹙をかっていたりするところもカポーティとも似ているのですが、どちらかというとゴア・ディナルに近い。ゴア・ディナル自身も作家をやりながら、途中で挫折しましたが、政治を志した。で、田中康夫さんは、見事、政治の方で成功して、今に至っているわけですね。むしろ、ゴア・ディナル的な田中康夫がここにいるわけですけれども、その人がカポーティをですね、これは左翼でもなんでもない、単にアウトサイダーであるもう一人の作家をどんなふうに観るか。いわば、同じくスキャンダラスでありながら、ちょっと立場を異にするカポーティを、この映画を、どんなふうに観られるかということはとても興味をひくところです。


●司会者:浅田さんの感想はいかがでしたでしょうか。

■(ベネット・ミラー監督):私はですね、今おっしゃったことには全部反対です。もちろんそれは冗談ですが(笑)。私が作った映画に対していろいろな意見をおっしゃっていただける。ある意味では、私としては、深いカタルシスの部分があるのですね。というのは、いってみれば、この映画というのは、あるプライベートな、公の人間なのですけれど、その人間のプライベートな部分、ダークな部分を描いています。そのような映画を理解していただき、また、理解していただいて、それに対するいろいろな意見を聞けるというのは、映画監督としては、本当に満足のいくことですし、なぜ、これだけ苦労して 一 映画というものは大変なものなので 一 作るかという、その正当化にもなりますので非常に嬉しく思います。

●司会者:田中康夫さんはいかがでしょうか。

■(田中康夫):トルーマン・カポーティというのは、とても正直に真っ当に生きた人だと思っています。それはどういうことかというと、彼は、人生というのは常に葛藤の連続であるし、同時に、人生というのは矛盾に満ちあふれているし、そして、人生とは孤独そのものである、ということを感じていた人ではないかと思います。

先程、浅田さんがブリリアントな彼の人生というものを素晴らしく控えめに、でもそれが我々に訴えてくるということを言っていらっしゃった。観ていて、監督の映像の美しさと、あるいは小さなディテールの巧みさということだったので、全編に音楽も含めて流れているのはですね、極めてディーセントな空気だったと思うんですね。ディーセントって、今、ILOがディーセントワークっていっていて、私たちが非常に物質的に豊かすぎたり、極めて効率主義的であったり、ディーセントっていうのはとても気品がある。その気品があるっていうのは、物質的なものではなくて、大変に控えめでありながら上品である、極めて人間的なもの、仕事でありたい、社会でありたいということ。この映画の映像を観ていて、とてもディーセントなものを感じたんですね。それは多分、トルーマン・カポーティという人が、先程、冒頭で述べたように極めて自分に正直に生きていた。おそらく彼は、建て前と本音であったりする人の落差、偽善というものを、先天的に鋭く見抜く人であったと思うのですね。彼が、仮装舞踏会というようなものをやるというと、まさにその時に、肩書きであったり、権威であったり、サロン的なそうした態度であったり、後ろ楯に寄り添う人たちはなんとかそこに呼ばれようと思うのでしょうけれど、まさにそれは、彼の第六感というか、日本でいう暗黙知というか 一 そういったものによって直感的にこの人を選びたい、それが往々にして、ジャーナリズムと呼ばれるような後ろ楯がある人たちからすると、彼は思い付きで選んだとか、彼は極めて華美なパーティにしたいと思って選んだんだとか、彼こそカメレオンだとか、彼こそが極めて人間の矛盾に満ちた中で、建前と本音を使い分けるような人に対して、私こそは孤独と葛藤、矛盾に満ちながらも、人間的に生きているということを、演じたのではなくて、実はそう生きたことが多くの人からすると、それはなかなか理解を越えている。彼は演じていたんだという言葉によって、納得してしまっている。でもそれを、今回の作品というものは、むろん殺人の前後の彼を描いている、彼自身、まさに一躍寵児になって、ある意味ではイデオロギーというような社会性ではないというような人が、実は、もっとも、言葉によってしか人間が伝えられないという、根源的なところを描いていこうとしたんですね。だから、この映画によって、彼を表層的に描いていた人たちからすると、少し理解できないかもしれないけれども、彼の本質のディーセントな生き方を描写しているなあと。それは素晴らしい作品だなあと思いましたね。

そして、その演技も音楽も映像も、その点で私は、本当にベネット・ミラー監督というのは、私より10歳年下で丙午に生まれた人だから、ある意味では丙午の年に日本で生まれた人というのは、公民的階層の人はその年に子供を産む比率は低かったはずですから、今40歳の丙午の人って、結構、いい意味で吹っ切れた人が、女性でも男性でも多いと思うのですけれども、もしかすると、それが、海を渡ったアメリカにおいてもあったのかもという感じがしましたね。


●司会者:監督、これを受けていかがでしたでしょうか。

■(ベネット・ミラー監督):ディーセントという言葉が出てきましたが、非常に好きな言葉です。とても良かったと思います。カポーティという人間は、非常に繊細な人だったと思うのですね。で、人々の仮面というものを見分けて、透して見ることができた、非常に鋭い人だったと思います。だからこそ、非常に偉大な作家だったと思うのですね。ただ、同時に、人々の偽りも見抜いていたと思います。そして、この映画の中では、私としても非常にディーセントな見方をして、この映画の一人一人の人物の内面を見ようという試みをしました。なぜ彼が、インモラル、不道徳になっていくか、道をはずしていくかということを観察したいと思ったのですが、心の中には、もちろん道徳感を持っていたわけで、ディーセントだったわけで、それを失っていくというディテールだったのですね。この映画では、欲を出さずに、できるだけ操る方法ではなく、ある意味ではディーセントなアプローチの仕方というのを心掛けていました。

●司会者:先程、浅田さんもちらりとおっしゃっていたことなのですが、田中さんもトルーマン・カポーティも、それぞれの分野で誰もやったことがない道を進んできたと思うのですが、誰もやってきていない道に進んで、それをやり遂げるためには、(何かを)犠牲にしてでもやり遂げるという非常に強い意志が必要なのではないだろうかと思うのですが、この映画『カポーティ』の中で、トルーマン・カポーティは、書きたいがために、今まで取材対象であった死刑囚の死刑を望んで、死刑に立ち会って、死刑囚との愛を断ち切ったわけですが、田中さんも、何かやり遂げるためには何かを犠牲にしたとか、我慢したという経験はあったりするのでしょうか。

■(田中康夫):私にとっては、恋愛することも人々に尽くすことも、相手が喜んでくれてなんぼっていうことですから、犠牲にしてという思いはないですね。結果として、それは自分の喜びになっている。

1つ思うのは、カポーティが俗物的であるとかね、モラルが上等かっていうのはね、私たちの社会、たとえば、小学校の時にね、冬になってインフルエンザにかかった最初の5人までは、「すぐ風邪にかかってダメね」っていうのだけれども、クラスの6割がインフルエンザで風邪にかかった時、かかってない人は「お前、風邪もひかない奴なの?」って言われるじゃないですか。もしかすると、私たちの社会が極めて、人間のサーモスタッドがどんどんオートマティックな中で、科学を信じて科学を疑わない。科学を用いて科学を乗り越える社会にならなくなっちゃって、すると多分、ここで描かれた殺人事件は日常のように起きているし、誰も、可哀想といいながら自分は単に観客として見ているだけだし、不感症ですよね。

でも、なぜ彼がこの事件をして猟奇的と思ったのかというと、テート事件のようなものでもなく、ごく普通のものでもあるし。なぜかというのは永遠にわからないかもしれないし、でも、彼の暗黙知が、これを私が描くこと、知ることが、時代の寵児となった自分が逆の一面を出そうと思ったとかではなくて、彼のどこかの第六感が、これこそが私の向き合わなければいけない葛藤である、孤独であると思ったと思うんです。

だから、結果的に、後から評論すれば、彼はリスクを背負う人生だったとなるけれど、多分、みなさんも表現をなさる人だし、すべての人間が、たとえば、すべての表現をする人、つまり言葉を紡ぎ出す人間は、表現者だっていって ─ これで既得権益の記者クラブの人たちには総スカンを喰らっているわけですけれども、 ─ だけど、そういう人たちが既得権益が後ろ楯で、でも彼は、全部、物を書く人とか、監督とか、クリエーションをする人とかは、既得権益と戦っているのではなくて、後ろ楯とは無縁のところで、でも自分の心、身体が、頭脳が思っちゃうってことじゃないですか。彼の人生は、結果として怯まず、逃げず、屈せずだったと思うし、そのことが、お酒に関しても、あるいは何々社会に関しても、逃げなかったから、それが、折り合いを付けちゃう人たちからすると理解を越えているので、(かといって)彼の才能を否定はできないので、俗物であるとか、そういう表層的な言葉で、俗物的な言葉で、彼を表現して納得しているのだと思う。彼自身にどれだけ葛藤があったかと言えば、人生それ自体が生きる、言葉を吐くこと自体が人を傷つけていることかもしれないし、喜ばせることかもしれないし、ずっと葛藤があったのではないでしょうか。


●司会者:浅田さんと田中さんに、日本でどういう人たちに見てもらいたいか、どういうふうに感じていただきたいかを伺いたいのですが。

■(浅田彰):1つは、この映画を見ることで、トルーマン・カポーティを再発見する機会になれば。やはり、日本で流行っている村上春樹からポスト村上と言われるような愚劣な癒しの文学ね、安っぽいカタルシスと、安っぽい癒しで売っているような日本の文学、こういうものが文学ではないということを知ってもらうために、若い人に読んでもらいたい。文学というのは残酷なものなので、その残酷さの限りにおいて、もっとも繊細な感受性が現れるものです。そういうことを知るためにもですね、この映画でカポーティを再発見し、カポーティを読むことがなんらかのきっかけになるのではないでしょうか。

■(田中康夫):だから、同時に、カポーティがあの独特の声でパーティでね、タバコを吸いながら語る言葉……でも、みなさんもそうだと思うのだけれど、たとえば、とてもスキニーな女性に、とてもスタイルよろしいですね、スキニーでって、もし、その人が胃下垂だったら、私はもう少し肉付きがあってもいいのにって思うのに、また言われてしまったと思う気になるので、我々がこの人は喜ぶに違いないと思う言葉が、必ずしも喜ぶとは限らないなあと。それは、裏切りでも落胆でもなくて、それが言葉だと思うのですよ。多分、カポーティはあのカン高い声で言いながら、まわりが、それにカポーティが言っていることに心底笑うわけでもなく、合わせている。それを見て、それは自己嫌悪なのではなくて、部屋に戻った時に、それが彼のエネルギー、エナジーになっている。

表現をする人ってみなさんそうだと思うのだけれど、ずっとそうだと思うんです。その中で、たった一人でも誉めてくれる手紙やメールがきた時に、それはまた、自分自身の鏡を見て、なんでこんなもの書いちゃったんだろうかと思うこと、ある意味では、同じ意味でのエナジーなんです。そういう意味で言うと、私の社会はチャレンジしない。最初から安全地帯で評論しているだけなのではなくて、その意味では本当に、シモーヌ・ド・ボーヴォワールとジャン=ポール・サルトルとは全然違う、このもっとも俗物的だと言われたトルーマン・カポーティが、その意味では、『冷血』という作品で評価されれば、彼も嬉しいというかもしれないし、いつか死刑が出なければ結末ができないということがあったかもしれないけれど、でも、彼こそが、その意味においては、表層的な社会に生きているように見えて、もっともアンナージュマンだったというかね。

その彼を、この作品を見る中で、ほんの小さなことを、できるところでできるだけアンナージュしていこう、単に、ネット上に書き込む評論家ではなくてアンナージュしていこうということを、多くの世代の人、とりわけ若い人たちと、同時に年金問題で逃げ切ろうと思っているような団塊の世代の人、政治の青春を過ごしたに過ぎない人たち、その人たちに見て欲しい。とりわけ、後者の人たちは、自分は本当に気恥ずかしいと。で、前者の若い人たちは、人間とは捨てたものではないんだというエナジーにして欲しいなと思います。


●司会者:監督もメッセージを。

■(ベネット・ミラー監督):私としては、こういう人に見てもらいたい、もしくは、こういう反応が欲しいですとか、そういうことは考えていないんですね。やはり、自分は映画を作って、これからどうなっていくかを見守りたい。自分としても、好奇心が強く感じられているんですね。日本というのは違う文化であり、果たして、日本でこの映画がどういうふうに受け止められるか……先程も申しましたように、トルーマン・カポーティの物語だけではないと思うんです。もっともっと大きなものを描いていて、非常に普遍性のある映画だと思います。カポーティというよりも、アメリカや日本の有史よりもタイムレスなものを、そういう悲劇を描いていると思うんです。今日にも非常に関係している物語だと思いますので、私のこの映画の美意識というものが、日本の観客にどう伝わるか。私としては、日本の美意識に共感できる部分が多いんです。私としては、ヨーロッパやアメリカの感性よりも、日本の感性に近いのではという気がしているのです。その日本で、どのようにコミュニケートされていくのか、受け入れられていくのかということを、非常に興味深く見守っていきたいと思います。

(通訳者の表現をもとに採録。細部の言い回しなどには若干の修正あり)


『カポーティ』は2006年9月30日より日比谷シャンテシネ、恵比寿ガーデンシネマほか全国にて公開。