『ザ・ディレクター <市民ケーン>の真実』
2000年10月28日より銀座テアトルシネマにて
モーニング&レイトショー



1999年/アメリカ/カラー/スタンダード・サイズ/ドルビー/1時間23分 日本語字幕:寺尾次郎/提供:ツイン、K2エンタテインメント/配給:K2エンタテインメント

◇監督:ベンジャミン・ロス ◇製作:スー・アームストロング ◇製作総指揮:リドリー・スコット、トニー・スコット、ダイアン・ミンタ−・ルイス、クリス・ザーパス ◇脚本:ジョン・ローガン ◇キャスティング:ローラ・ケネディ、ジョイス・ネトルズ ◇コスチューム・デザイナー:スチュワート・メアチェム ◇音楽:ジョン・アルトマン ◇編集:アレックス・マッキー ◇美術:マリア・ダーコヴィック ◇撮影:マイク・サソン

◇キャスト:リーヴ・シュレイバー、ジェイムズ・クロムウェル、メラニー・グリフィス、ジョン・マルコヴィッチ、リアム・カニンガム、フィオナ・ショウ、アナスタシア・ヒル、ブレンダ・ブレッシン、ロイ・シャイダー、デヴィッド・サシェット



| 解説 | ストーリー | キャスト&スタッフ |
| オーソン・ウェルズ | WERDE OFFICE | CINEMA WERDE |




【解説】

◆映画史上ベストワン映画『市民ケーン』。
天才オーソン・ウェルズ、25歳のハリウッド革命。


世界中で映画史上の傑作を選ぶ投票が行われると、必ずベストワンに輝く『市民ケーン』。この傑作中の傑作を生んだのは、弱冠24歳にしてハリウッドに乗り込んだ俳優オーソン・ウェルズ。既存の映画や権威に対する彼のあくなきチャレンジが、映画の新時代を切り開いた。この世紀の傑作の創造の現場、40年代ハリウッド版ベンチャービジネスの内幕を描くのが、リドリー・スコット/トニー・スコット製作総指揮『ザ・ディレクター<市民ケーン>の真実』である。
オーソン・ウェルズは1936年、21歳でニューヨーク演劇界に彗星のように登場、1938年には彼のラジオドラマ「宇宙戦争」があまりの迫真の演出に多くの聴衆が本当に火星人が襲来したニュースなのだと勘違い、全米がパニックに陥った。1939年、24歳にして創造上の自由をほぼ完全に認めた破格の契約で俳優・監督・プロデューサーとしてハリウッドに乗り込んだウェルズは、ハリウッドでも絶対的な権力者として恐れられていた新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストに全面対決を挑む。―ハーストをモデルに権力者の挫折と孤独を描く『市民ケーン』だ。

大胆きわまりないテーマの『市民ケーン』は、映画表現においてまさに革命的だった。ベテラン脚本家ハーマン・マンキウィッツと組んで、ウェルズは主人公の死から映画を始めて過去と現代を自由に行き来する奔放な構成のドラマを作り上げる。彼の天才に惚れこんだハリウッドでもっとも過激な撮影監督グレッグ・トーランドは、それまで誰も見たことのないような映像を作り出した。映画音楽最大の巨匠バーナード・ハーマン(『めまい』『サイコ』『タクシードライバー』)を初めて映画の世界に引き込んだのもウェルズだ。彼は多様な才能を操り、強引で独裁的とも言える行動で彼らから限界以上のものを引き出し、彼だけが信じ、他の誰もが想像すらできなかった映画を作り出した。
ハーストが古い世代の王者だとしたら、ウェルズは新しい映像表現の王者だった。『市民ケーン』の舞台裏は、この二人の王者の激突の場になる。そして圧倒的な人間的魅力で人を惹きつけ、理解されず孤独になっても傲慢なまでの自信を失わない怪物的な主人公チャールズ・フォスター・ケーンは、ハーストだけでなくウェルズ本人にも実によく似ている。


この映画史上もっともスリリングな傑作の、映画そのもの以上にスリリングな創作の現場に魅了されたのが、映画界でウェルズ以後最高のスタイリッシュな映像の作り手リドリー・スコット。諸般の事情で彼がこれを大作として監督することは実現しなかったが、プロデューサーとして指揮をとってこの映画を実現させた。なお脚本のジョン・ローガンはスコットの最新作『グラディエーター』も手がけている。
ハリウッドの黄金時代を再現すべく、結集したキャストも豪華だ。若きウェルズを演じるのは『スクリーム』シリーズ、『ザ・ハリケーン』の二枚目リーヴ・シュレイバー、ウェルズ独特の身ぶりや口調を研究した演技がみものだ。脚本家ハーマン・マンキウィッツに扮するのは『マルコヴィッチの穴』『ジャンヌ・ダルク』の演技派ジョン・マルコヴィッチ。ハースト役には『L.A.コンフィデンシャル』の悪徳上司役が忘れがたいジェイムズ・クロムウェル、そして愛人で女優のマリオン・デイヴィスにはメラニー・グリフィスという、まさに彼女以外には考えられないような配役だ。そして『ジョーズ』『ブルーサンダー』の重鎮ロイ・シャイダーが、逆風のなかでもウェルズを守り続ける信念のプロデューサー、ジョージ・シェーファーに扮して印象深いカムバックを果たす。
なお原題のRKOとはウェルズをハリウッドに招いた映画会社、281とはウェルズの映画のファイル番号で、製作時には『市民ケーン』というタイトルが秘密にされ、もっぱらこの番号で呼ばれていたというのも、この映画にまつわる数々の伝説のひとつだ。



 


【ストーリー】 *作品観賞後にお読みになることをお勧めします。

◆いつの時も、<挑戦>こそが新しい時代を創る!

ベッドに横たわる母だけが出席するオーソン・ウェルズ9歳の誕生日。母はその時すでに、ウェルズの才能の片鱗に気付いていた。
時は流れて、1940年。ニューヨークの演劇界とラジオ・メディアに彗星のごとく現れ、“驚異の少年”の異名をとったウェルズのハリウッド進出を伝えるニュース映像が流れる。弱冠24歳の若者にRKO社長のジョージ・シェーファーが提示した破格の条件とは、彼に映画製作上のすべての権限を与えるというものだった。しかし、最初に企画されたジョセフ・コンラッドの『闇の奧』という映画化が頓挫し、物見高いハリウッド・インサイダーたちはウェルズの契約履行の可能性に疑問を投げかけていた。

ある時ウェルズは、アル中気味の脚本家ハーマン・“マンク”・マンキウィッツと共に、新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストが彼の豪奢な城サン・シメオンで催す晩餐会に正装で出かけた。彼らが招待されたのはマンクがハーストの長年の愛人マリオン・デイヴィスの友人だったからだ。ディナーの席上、ウェルズは闘牛の話でクラーク・ゲーブルやキャロル・ロンバートなどの招待客を喜ばせていたが、動物愛護物を標榜するハーストは闘牛は野蛮だと反論する。しかし、ウェルズはハーストが所有する動物園の動物こそ憐れだとやりかえし、二人の間には険悪なムードが漂う。その後、ウェルズはハーストがマリオンと食後のダンスをするのをじっと観察しているうちに、自身の創造力の歯車が音を立てて回り始めたことに気づく。

ウェルズはマンクにある破天荒な新聞王の生涯をハーストをモデルにして脚本化することを頼もうとするが、マンクはそれはハリウッドで働く自分たちにとって自殺行為だと警告する。今までにもハーストに逆らって、ひどい目に遭った物は枚挙に暇がなかった。しかし、ウェルズの熱意にほだされ、やがて、マンキウィッツとジョン・ハウズマンの手により長大な第一稿が完成し、ウェルズは自分で脚本の推敲を始める。
“RKO281”と当初名付られたプロジェクトの製作が極秘裡に始まった。新米監督はすぐにキャストやスタッフに苛酷なプレッシャーを与え、彼らを疲労困憊させた。その結果、ウェルズとマンクの関係同様(あろうことか、マンクは脚本クレジットから名前を削られていた)、ウェルズとジェイムズ・コットンら役者たちとスタッフとの関係は緊張を極めることとなった。一方、ヘッダ・ホッパーやハーストの息のかかるルエラ・パーソンズのようなゴシップ・コラムニストたちは、ウェルズが一体何を撮っているのかを知ろうと躍起になった。しかし、監督は口を割らず、しかも、パーソンズに対してはこの映画はハーストのものではないと断言した。しかし、『市民ケーン』のラッシュがプレス向けに上映されて初めて、ハーストは事態を知る。この映画には、ハーストが愛人マリオンの秘所の名前として使っていた“薔薇の蕾”というのがキーワードとして使用されていたのだ。すぐさま、ハーストはこの映画を抹殺しようとスタジオの首脳陣に圧力をかける。メイヤーの元を訪れ、もし、『市民ケーン』が公開されるようなことになったら、ハリウッドのトップたちのセックス・スキャンダルの証拠となる写真をばらまき、さらに、ハリウッドは実はユダヤ人たちに支配されているという事実を公表すると脅す。メイヤーの呼びかけで、集まったハリウッドの首脳陣―ザナック、コーン、ワーナー、ゴールドウィン、セルズニックたち―は金を出しあって、RKOから『市民ケーン』のすべてのプリントとネガを買い取り、滅却してしまおうと決意する。
この計画をシェーファーから知らされたウェルズはRKOの株主たちの前で映画の保全を嘆願する。折しも、ハーストがサン・シメオンのコレクションすら売り払わなければならない程、財務的に逼迫しているという事態が発覚するという幸運もあって、ウェルズの願いは届き入れられることとなった。

1941年5月1日の『市民ケーン』公開の直前、ウェルズはホテルのエレベーターの中で、偶然ハーストに出くわす。ウェルズは新聞王に告げる。「私はこの映画は単なる陳腐な私生活の暴露ではないと思う。これは世界を手に入れて、魂を失った男の物語だ。それを道理と見る人もいることでしょう」。ハーストは答える。「私の人生は映画で壊されたのではない。すでに終わる寸前だったのだ。あいにく、君の闘いはようやく始まったばかりのようだが」。
ハーストのこの言葉は、ウェルズにとってある種、予言めいたものになった。『市民ケーン』は作品としての評価は受けたが、興行的には惨敗だった。その後、『黒い罠』や『偉大なるアンバーソン家の人々』などの傑作を生み出すウェルズは作品を監督することと、その資金調達に苦闘を続けることとなった。



 


【キャスト&スタッフ】

■リーヴ・シュレイバー(オーソン・ウェルズ)

1967年10月4日、アメリカ、サンフランシスコ生まれ。ハンプシャー・オブ・ドラマで演技を学ぶ。その後、イギリス王立演劇院に進んだ。ブロードウェイやシェイクスピア・フェスティバルの舞台にも多く立つ。1999年にはシェイクスピア劇でオビー賞を受賞している。
『ミックス☆ナッツ/イヴに逢えたら』(1994・V)で映画デビュー。ウディ・アレンと共演のテレビドラマ「サンシャイン・ボーイズ/すてきな相棒」(1995・V)などを経て、『身代金』(1996)では誘拐犯を、『スクリーム』(1996)でヒロインの母親殺害容疑をかけられていた男として登場し、以後3部作すべてに出演。『ファントム』(1998)では、“太古の敵”に人格を乗っ取られてしまう保安官を演じるなど、ちょっと一癖あるキャラクター色の濃い役柄を得意としている。 その他の出演作は『スフィア』(1998)、『聖なる嘘つき/その名はジェイコブ』(1999)、『ザ・ハリケーン』(1999)など。待機作にはイーサン・ホーク主演の『Hamlet』(2000)



■ジェイムズ・クロムウェル(ウィリアム・ランドルフ・ハースト)

1940年1月27日、アメリカ、ロサンゼルス生まれ。バイプレーヤーとして、長いキャリアを持つ彼が一躍その名を広く知られるようになったのは、世界的なヒットとなった1995年の『ベイブ』での無口な農場主の好演によるものだろう。本作でアカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。1997年の『L.A.コンフィデンシャル』で警察内部で巨悪を操る、最初はいかにも善人で最後は悪人という観客を思わず欺く役柄で、その演技派ぶりをいかんなく発揮した。最近では『グリーン・マイル』(1999・フランク・ダラボン)での温情厚い刑務所長役が印象深い。他の出世作に『将軍の娘/エリザベス・キャンベル』(1999)、『ヒマラヤ杉に降る雪』(1999)、『ディープ・インパクト』(1998)、『ラリー・フリント』(1996)など多数。最新作は2000年8月に全米公開が予定されている。クリント・イーストウッド監督がSFに挑んだ話題作『スペース・カウボーイズ』。


■メラニー・グリフィス(マリオン・デイヴィス)

1957年8月9日アメリカ、ニューヨーク生まれ。母も妹も女優という俳優一家。1969年のディズニー映画『Smith!』に端役出演。ハリウッド・プロフェッショナル・スクールで演技を学びモデルの仕事を経て、17歳のときに『ナイトムーブス』(1975)で本格的に映画デビューを果たす。その後しばらくはスランプが続きアルコールと麻薬に溺れる。
1981年ニューヨークで演技の勉強をし直した努力が実り、ブライアン・デ・パルマ監督の『ボディ・ダブル』(1984)でようやく本領を発揮し、ジョナサン・デミ監督の『サムシング・ワイルド』(1986)で男を翻弄するヒロインを演じ高い評価を得た。1988年『ワーキング・ガール』で現代版シンデレラ・サクセスストーリーを実現するワーキング・ガールの役を演じ、ゴールデン・グローブ賞の主演女優賞を受賞、アカデミー主演女優賞にノミネートされ名実ともにトップ女優の仲間入りを果たした。独特の甘い声と色っぽい容姿を武器に性格女優として活躍している。 その他の出演作は『ストーミー・マンディ』(1988)、『パシフィック・ハイツ』(1990)、『虚栄のかがり火』(1990)、『愛に翼を』(1991)、『刑事エデン/追跡者』(1992)、『ボーン・イエスタデイ』(1993)、『ロリータ』(1997)、『セレブリティ』(1998)など。待機作は『Cecil B.Demonted』(2000)、『Forever Lulu』(2000)。



■ジョン・マルコヴィッチ(ハーマン・マンキウィッツ)

1953年12月9日、アメリカ、イリノイ州生まれ。大学卒業後、1976年にゲーリー・シニーズがシカゴで創設したステッペン・ウルフ劇団に参加。1982年に上演したサム・シェパードの戯曲「True West」がシカゴで大評判になり、オフ・ブロードウェイに進出。この舞台で数々の賞を受賞し、注目されるようになる。
映画デビュー作『プレイス・イン・ザ・ハート』(1984)でアカデミー主演男優賞にノミネートされる。1993年『ザ・シークレットサービス』ではクリント・イーストウッド扮するシークレット・サービスに対峙する天才的な殺し屋役で再度アカデミー賞ノミネート。1999年にはスパイク・ジョーンズ監督の奇想天外な話題作『マルコヴィッチの穴』にジョン・マルコヴィッチとして自分自身を演じるという難役に挑戦した。年齢不詳に見える顔と、役によってイメージが変わる卓越した演技力を持ち、さまざまな監督から出演以来をうける人気俳優である。舞台役者、映画俳優以外にもプラダ、ポール・スミスなどのモデルの経歴をもつ。
『偶然の旅行者』(1988)で製作総指揮、『Ghost World』(2000)で製作を手がけ、現在撮影中の『The Dancer Upstairs』(2001年初頭感性予定)ではついに監督業にも進出した。 その他出演作は『太陽の帝国』(1987)、『危険な関係』(1988)、『シェルタリング・スカイ』(1990)、『メフィストの誘い』(1995)『愛のめぐりあい』(1995)。待機作は『Les Miserables』(2000)、『Shadow of Vampire』(2000)など。



■ブレンダ・ブレッシン(ルエラ・パーソンズ)

1946年2月20日、イギリス、ケント生まれ。舞台やテレビなどでも活躍するイギリスのトップ女優の一人。1996年のアカデミー作品賞ほか4部門の賞にノミネートされた『秘密と嘘』で教養のなさゆえに、意図することなくある悲劇を導いてしまう、天真爛漫な中年女性を熱演し主演女優賞にノミネートされ同年カンヌ映画祭主演女優賞、ゴールデン・グローブ賞他賞を総嘗めにした。1997年『ガールズ・ナイト』では死に至る癌に冒されながらも、明るく最後まで希望を失わず、残された者に生きる勇気と愛を与える女性を感動的に演じ、1998年『リトル・ヴォイス』では娘の才能を認めステージママに変貌していく役柄で1998年のアカデミー助演女優賞とゴールデン・グローブ賞にノミネートされている。 その他の出演作は『リバー・ランズ・スルー・イット』(1992)、『ミュージック・フロム・アナザー・ルーム』(1998)。待機作は2000年サンダンス映画祭で話題となった、ガーデニング映画『Saving Grace』(2000)『The Sleeping Dictionary』(2000)など。


■ロイ・シャイダー(ジョージ・シェーファー)

1932年11月10日、アメリカ、ニュージャージー州生まれ。スティーヴン・スピルバーグ監督のヒット作『ジョーズ』(1975)が今も鮮烈な印象を残すロイ・シャイダーは1971年の『フレンチ・コネクション』でアカデミー助演男優賞に、1979年の『オール・ザット・ジャズ』ではアカデミー主演男優賞にノミネートされる名優として知られている。出演作は他に、『レインメーカー』(1997)、『ロシア・ハウス』(1990)、『ブルー・サンダー』(1983)など。


■ベンジャミン・ロス(監督)

1964年、イギリス、ロンドン生まれ。監督・脚本を手がけたデビュー作『グレアム・ヤング毒殺日記』(1994)で、一躍ハリウッドの注目を浴びたロスは学生時代から映画製作に参加。オックスフォードで英文学を学んだ後、9歳の頃から手にしているスーパー8を使って、ピカデリー・サーカスにいる男娼についての疑似ドキュメンタリー『Rent Boy』を撮りあげた。この作品でコロンビア大学の奨学金を得て、映画学科に学ぶ。この頃の同窓生に監督のエミール・クストリッツァがいる。『グレアム・ヤング毒殺日記』の初稿はコロンビア在学時に書き上げた。1992年には短編『My Little Eye』を監督、ロンドン、ニューヨーク、シカゴの映画祭に出品され、好評を博した。 次回作は18世紀のロンドンを舞台に泥棒と脱獄囚を描いたイギリスのフィルム4の『Jack Sheppard and Johnathan Wild』で、監督の他、脚本も手がける予定。


■リドリー・スコット(製作総指揮)

1939年11月30日、イギリス、サウスシールズ生まれ。ウエストハートルプール美術大学でグラフィック・デザインや絵画を学んだ後、ロンドン王立芸術大学へ進み舞台美術を専攻した。卒業後はCMディレクターとして頭角を表し、BBCでCM製作に携わったのをきかっけに制作会社を設立。アップル・コンピュータ等のCMで数々の賞を受賞するなど、現在でも広告史に残る作品を発表している。
映画監督デビュー作『デュエリスト/決闘者』(1977)でカンヌ国際映画祭新人監督賞を受賞。つづくSF超大作『エイリアン』(1979)でアカデミー賞視覚効果賞を受賞した。そして1982年にはSFエンタテインメントの傑作として今なお語り継がれるP・K・ディック原作の『ブレードランナー』(1982)を監督しカルト的な人気を不動のものとした。この作品で提示した未来都市の風景はその後の映画作品やCM映像に大きな影響を与え、SFX技術の発達した今日においても、このイメージを超えるものは創造されていないといっても過言ではない。逆光や半逆光を多様したコントラストの強い絵作りが特徴で、一時期はSF映画監督とみられている時期もあった。
1989年にはマイケル・ダグラス、松田優作、高倉健といった日米のキャスト共演で話題となったアクション映画『ブラックレイン』、1991年にはアカデミー監督賞にノミネートされたほか、主演のスーザン・サランドンとジーナ・デイビスの二人もノミネートされた女性映画の傑作『テルマ&ルイーズ』といった作品を次々に発表し、最新作『グラディエーター』(2000)では西暦180年代を舞台にした壮大なスペクタクルドラマを発表するなどSFの枠にとらわれず様々なジャンルの映画を監督している。その他監督作品は『誰かに見られている』(1987)、『白い嵐』(1996)、『G.I.ジェーン』(1997)など。
監督以外の関連作品は『1492・コロンブス』(1992)で製作、『ハンガー/トリロジー』(1992・TV)で製作総指揮、『ムーンライト・ドライブ』(1998)で製作をつとめている。 次回作品は名作として名高い『羊たちの沈黙』の10年ぶりの続編『ハンニバル』で、今後もますます目を離せない存在である。



■トニー・スコット(製作総指揮)

1943年、イギリス、ニューキャッスル生まれ。サンダー・アート・スクール芸術科を卒業後、リーズ・カレッジ・オブ・アートの大学院に1年在籍。ロンドン王立美術学校で教鞭をとっていた経験もある。兄の広告制作会社で働き、CFで国際的な賞を受賞している。
監督デビュー作はカトリーヌ・ドヌーヴが出演した『ハンガー』(1983)。その後、1986年にトム・クルーズ出演の『トップガン』の大ヒットで人気監督の仲間入りを果たした。その他監督作品は『ビバリーヒルズ・コップ2』(1987)、『デイズ・オブ・サンダー』(1990)、『ラスト・ボーイスカウト』(1991)、『トゥルー・ロマンス』(1993)、『クリムゾン・タイド』(1995)、『ザ・ファン』(1996)、『エネミー・オブ・アメリカ』(1998)など。 監督以外の関連作品では、「ザ・ハンガー 1〜6」(1997・TV)では製作総指揮、『ムーンライト・ドライブ』(1998)では製作総指揮をつとめた。



■ジョン・ローガン(脚本)

『エニイ・ギブン・サンデー』(1999)や『グラディエーター』(2000)など、手がけた作品が立て続けに公開されているジョン・ローガンは、今、ハリウッドで最も多忙な脚本家の一人だ。マイケル・マン監督のために、ハワード・ヒューズについての企画など、数多くの企画をメジャー・スタジオと進行中である。また、劇作家としても著名な彼は、戯曲「Never the Sinner」で、ニューヨーク・アウター・クリティックス・サークル賞最優秀戯曲賞を受賞している。


 

【オーソン・ウェルズ】

20世紀を代表するパフォーミング・アーティストとして、映画、演劇、ラジオ、テレビ、政治キャンペーンなど、さまざまな分野を横断して活躍した巨人。子供の頃から芸術に親しみ、神童と言われ、16歳でアイルランドを旅行中にダブリンの名門ゲート・シアターで舞台デビュー。21歳のとき、ニューヨークで『マクベス』をオール黒人キャストの革新的な演出で上演して旋風を巻き起こす。同時にラジオでも百人の声を使い分けると言われた表現力で人気者に。1937年6月には政府の出資で左翼ミュージカル「クレイドル・ウィル・ロック」をゲリラ上演して物議をかもす。そして1938年10月30日、彼の演出・主演によるラジオドラマ「宇宙戦争」を本物のニュース報道と勘違いした聴取者が続出し、全米がパニックに陥った。

1939年ハリウッドに招かれ、ジョセフ・コンラッドの中編小説「闇の奧」(「地獄の黙示録」の原作)を、すべて主人公の視点で見せる完全一人称映画として映画化しようとするが頓挫、しかし『市民ケーン』でその才能を証明した。そのあいだも、一週間に一度はラジオ放送を続けるという多忙ぶりで、ある時期まではその収録のため、毎週ロスから飛行機でニューヨークに通っていた。
だが次作『偉大なるアンバーソン家の人々』は予算を大幅にオーバーし、ウェルズがブラジルに行っているあいだに会社側に大幅にカット、改編される。いわばこれを犠牲にしてブラジルまで撮りに行った『イッツ・オール・トゥルー』も未完に終わり、ハリウッドでの監督としての将来は大幅に制約される。それでも俳優として活躍して稼いだ資金で自らの監督作を発表、『オセロー』『黒い罠』『審判』『ファルスタッフ』など、映画史に残る数々の傑作を残した。一方で未完に終わった作品も多く、映画界からは最も危険な天才として愛され、恐れられていた。
映画と並行して舞台でも活動を続け、シェイクスピアを深く愛していたことは有名。様式化されたセットと強烈な照明の効果を用い、従来の舞台変換のための幕間を省くなどのスピーディーで大胆な演出は現代演劇にも絶大な影響を与えている。